前回の記事を見て、口頭で次のような見解をくださった方がいました。
~「只頼るだけという、そんな程度の信仰で救われるとは、とても思えない。
福音のために、命をかけて働くほどの信仰を持った人もいるではないか。
そのために殉教した人もいるではないか。
そういう人が救われるのはわかる。
だけど、ただ頼るだけだった人が、こうした深い信仰の人と同様に救われるとは、どうしても納得できない」
~こういう見解です。
実はこれはよ~くある意見です。
そこで鹿嶋はそれへの応答を、このブログに書いておこうと思います。
**君、お読みくださいね。
ここでは結論だけしか言えませんが、聖書には、この世は悪魔の支配下にあるという世界観があります。
一時的ではありますが、悪魔はこの世では牢名主のような権威をもつことを認められているのです。
(これについては、「聖書の空間理念とその説明」のところで述べてありますので、それを参照してください)
この世界観の中では、人は皆産まれて以来悪魔の支配下、悪魔の側に存在していることになります。
自然なままでは、悪魔の側に入っていることになるのです。
そこにイエスが現れました。
イエスは創造神です。
彼はこの世にきて「創造神の陣営」を構築します。
するとイエスに頼るのは、悪魔の側から出て、創造神の側についたことになります。
そして時が至って最後の審判になると、イエスの側についた人は天国(創造神の統治が貫徹している天の創造神王国)に入れられます。
悪魔の側に留まったままの人は、全員、悪魔と一緒にブルドーザーでザァッと搔き集められて火の池に投げ込まれることになります。
~大雑把なものですが、これが聖書の示す人類史の大枠です。
そこでは根底的な問題は、創造神イエスの側についたか、悪魔の側に留まったか、になるのす。
この大枠の中では、創造神イエスの側についた人の信仰の程度がどうであるなどは、二次的な問題にすぎなくなります。
そもそも、人間の自力の信仰など、創造神から観たらたかがしれているのです。
深いと言っても、頼っているだけの信仰と大差はないことになる。
だから、頼るだけでいいとなります。
「幼子のように頼るだかでいい」にはそういう深い意味が含まれているのです。
これは奥義です。
けれどもそんな奥義など知らなくてもいい。
只頼るだけでいい、というのが福音の一階メッセージです。
結局、ただ頼るだけでいいのです。
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