<フロイトの精神図式>
現場経験の機会をもたないとわかり難いことなのだが、学問科学を生業にするものの世界(学界)では、洞察力の凡庸な人が圧倒的に多い。精神科学領域でも例外ではないのだがん」なかには洞察力を持った学者もいた。その20世紀での代表はフロイトだ。
彼は~凡庸者向けに~科学の体裁をとりながら、実質的に意識体(聖書では霊)を含めた心理理論を展開している。つまり、聖書における「霊」と実質的に重なる「意識」の概念〔潜在意識)を自らの心理図式に含めているのだ。
色々描かれているが、ここでは図の中の「知覚-意識」と「前意識的」と「無意識的」の三つだけを理解すればいい。
後者の二つは、要するに意識体だ。
それが二つの領域に分けられている。
「前意識的」(領域)とは、今日いう「顕在意識」領域だ。
「無意識的」(領域)とは「潜在意識」領域だ。
そして上部の「知覚-意識」は脳神経系をいっている。
神経系は、「顕在意識領域」には進入していて、その意識状態を受信して頭脳に伝達する。
だから脳にとってその意識は自覚可能(顕在的)なのだ。
だが、下方の「潜在意識領域」にまでには神経系は伸びておらず、その状態を受信できない。
脳はそれを自覚できないので、これは潜在意識といったほうがわかりやすい。だから時に流れの中で人々は自然に躁呼ぶようになった。
がとにかく彼は、人間の心理は、こういう意識体を含んでいる、と洞察していた。
<聖書の精神図式>
フロイトの示すこの意識体は、聖書の「魂と霊」にそっくり対応している。
聖書は人間の構造を~
ボディ〔肉体)、マインド〔魂)、スピリッツ〔霊)
~の三要素でとらえている。(脳神経系は肉体のもつ器官に含まれる。それは脳と魂の活動を連結している)
このようにフロイトは、もともと知っていた聖書の思想を援用したのではないかと思える程だ。だからわれわれはこのフロイト図式を援用して、霊を明示した心理理論を造ることも出来る。鹿嶋の造った図を示そう。
ここでの「脳神経情報系」はフロイトの「知覚-意識」に対応している。「顕在意識」と「潜在意識」は彼の「前意識的」と「無意識的」にそっくり対応している。
なのに、「フロイト!」というと平伏し、聖書というと「ふん、宗教か!」と受け付けないのは、そのまま当人の愚かさを表明している。
<PCの情報処理構造に共通>
聖書の示唆する人間精神構造はパソコンの情報処理構造と共通した面を持っている。
PCでは、ハードディスクに情報を収納保存する。
情報の一部をRAM(ランダムアクセスメモリー:いわゆる「ラム」)に呼び出し、これをモニターが可視的にする。
人はこれを見て、キーボードで操作(作業)を加え、結果をHDに上書き保存する。
<霊はハードディスクのようなもの>
聖書の霊はハードディスクに相当する。
そこには、人間のもつ心理内容の情報が蓄積、保存されている。
魂は多くの作業をする。
霊(HD)から呼び出した情報を自覚受信し、これを頭脳で理解し、それに操作を加え、修正する。
そして修正された情報をふたたび霊に保存する。
(この作業の際に、感情、論理、意志が働く)
魂のこの機能にはPCの多くの器官が対応する。
霊から取り出した情報の場にはRAM(ランダムアクセスメモリー)が、それを自覚するのはモニターが、そしてその情報に操作を加えるのはキーボードやマウスなどが対応している。
<霊の持つ深遠な機能>
ただし聖書が示唆する霊は、PCのハードディスクを超えた働きも持っている。
例えば霊は魂の働きにも、意識の根底からの影響を与え続けている。
霊はまたそれ自体が意識体であり、かつ人の全意識の本体である。
さらに霊は、創造神から放射される「いのちエネルギー」(後に説明する)を吸収保存する、いわば充電式乾電池のような役割もする。
また霊は、肉体が循環運動をやめると(死ぬと)、それを抜け出して永続する。
そして、霊が肉体に戻ると肉体は生き返る。
霊にはこうした局面もあるが、ここではまずハードディスクと共通した働きの局面を示したのである。
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