鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想7.聖書での「契約」とイエスの血の働き

2016年11月07日 | 随想





 「イエスの血の力」と言う言葉をクリスチャンはよく口に出します。

けれども、これを論理的に追いきるのは結構難しいようにみえます。




<聖書特有の「契約」概念>


それにはまず、聖書における契約の概念を知ることが、必要になります。

人間社会に住む我々も、契約をします。

部屋を借りるにも、クルマを買うにも契約をします。


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聖書で言う契約は、これら人間社会でのものとは少々ですが、違います。

人間社会では、対等の立場で契約文を提案し合い、合意したものを契約文とします。

だが聖書メッセージでは、上位者である創造神が、下位者である被造物に発する命令が契約文となるのです。

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ならばそれは命令ではないか、と我々は思いますよね。

たしかに、それは、命令の側面をも持っています。

けれども、その命令は、上位者の気分次第で変更されるものではありません。

創造神は暴君ではないのです。






<命令内容は変えない>

一度発したら、その言葉を創造神は変えません。

その面は、人間社会での契約文と同じです。

命令でありながら契約となる。

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人間は、万一創造神が契約文を守らなかったら、あるいは、変えようとしたら抗議できます。

このことは上位者に対していようが、出来る。

創造神が、命令を発しながらわざわざ「諸君と契約を結ぶ」というのは、そういう意味を持っているのです。


聖書での契約は、そういう独特の概念です。

一旦命じたら、それは契約となり、創造神自身をも縛るのです。






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<旧約、新約とは?>

そこで~

旧約聖書((Old Testament)の「約」は、そういう意味での契約の「旧い方」ということになります。

旧い方の契約を書いた聖書ですね。

新約聖書(New Testamento)の「約」は、そういう意味での契約の「新しい方の」という意味になります。

こちらは、新しい方の契約を書いた聖書です。

聖書は、全体が、そういう契約文でみちているのですね。



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さて、人間社会にもどります。

我々の社会での契約では、契約文に各々が、自分の名を署名したり、印鑑を押したり、血でもって血判を押したりししますよね。

契約文を確証するためにそうしています。


契約文といえども文章です。

文章は所詮言葉で出来ている約束で、どちらかが守らなければおしまいだ。

そこで人間社会では、「それを一定期間変えないで守る」、という確証をするために署名・捺印したりしています。

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では、聖書における契約の言葉はどうでしょうか?

旧約聖書の契約文は、それを与えるエホバ神が一方的に保証しています。

「おれが契約と言ったのだから変わることはないのだ」という。

まあ、それが保証と言えば保証でしょう。




<新約聖書の保証>

他方、新約聖書ではもう少し丁寧です。

新約聖書の命令は、イエスが発しています。

イエスはそれを契約文として、自らの血でもって確証しています。

そのために殺される際に、大量の血を流します。

死ぬのは、血を流さないでも(窒息死などで)死ねるのに、そういう殺され方をするのです。




<最後の晩餐での聖餐>


イエスはそのことを、殺される前に、有名な「最後の晩餐」の場で予告します。

彼は自らがまもなく殺されることになる時点に、パンと葡萄酒を弟子たちに与えます。

そして、それらを自分の肉であり血であるという。

その上で、この血は自分のたてる契約を確証する、というのです。

(マルコによる福音書:14章23-4節、ルカによる福音書:22章20節)

・・・

これは一般に聖餐式(せいさんしき)と呼ばれています。

イエスの名で集まるときに、これを実施して自分を思い出すように、との旨をイエスは命じていきます。


そして、実際に大量の血を流して殺されます。




<全聖句がイエスの血で確証されている>

イエスのこの言葉を認めると、実は、旧約聖書の契約も、結局はイエスの血で確証される~ということになります。

旧約も、本質的にはイエスの契約をいっているからです。

そのことを、イエスは、ヨハネ伝5:39でいっています。

「旧約聖書は(つまるところは)わたし(イエスのこと)を証言している」本だとイエスは断言しているのです。

 (キリスト教ではそれを受け入れるが故に、本来ユダヤ教の教典だった旧約聖書を、新約聖書にくっつけて「聖書」としています)

だから、旧約聖書の契約文も、つまるところはイエスの血で確証されていることになるのです。

・・・

つまり、聖書全体の契約文が、イエスの血で確証されているのですね。

聖書がそういう経典であることを、我々はよく知るべきです。

宗教経典はいろいろあります。
そのほとんどに、教祖の言葉が記されています。

だが、それを、教祖自らが、自分の流す血で確証する、という論理を持った経典はありません。





<驚くべき効力>

では、その論理は実際に効力を持つのでしょうか。

それはまず、聖句の重量感の急変でもって自覚できます。

聖書の文章(聖句)を、イエスの「血で確証されているもの」との意識を一方に持ちながら読んでみます。

すると、聖句が不思議な重量感をもって味わえてきます。

従来の聖句感触には、その強力な重量感は無かったことが容易にわかってきます。

すると、不思議な霊的世界が開けてきます。




<聖霊のバプテスマも容易に受けられた>

これは私だけの体験ではありません。

H・A・マクスウェル=ホワイト『イエスの血の力』(オアシス・クリエイト刊)、は多くの人々がそれを体験していることを記録しています。

英国で、聖霊のバプテスマを受けたくて集まった人々が、賛美しても、聖句を朗読して祈っても、なかなか受けられなかった。

そころが「ジーザス・ブラッド!」(Jesus Blood! イエスの血潮!)と繰り返し叫び始めたら、いとも容易に聖霊を受けてしまった。

そういう状況も、この本は記しています。

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不思議な事象です。

筆者は「一方で血を強く意識しながら読む」という聖書講読のメカニズムを、言葉(理論)で説明出来たらと思っています。

だが、当面のところ難しいです。

その意味で、鹿嶋にはこの事象は神秘の領域に入っています。

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当面、これはもう仕方ないと思っています。

宗教でも、むやみに神秘を振りかざすと、神秘主義に陥ってしまいます。

その意味で神秘主義は避けねばなりませんが、神秘の要素は残してもいいかなあと思っています。

神秘の要素が全くなくなったら、それは科学になってしまいますから。


(完)





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