「イエスの血の力」と言う言葉をクリスチャンはよく口に出します。
けれども、これを論理的に追いきるのは結構難しいようにみえます。
<聖書特有の「契約」概念>
それにはまず、聖書における契約の概念を知ることが、必要になります。
人間社会に住む我々も、契約をします。
部屋を借りるにも、クルマを買うにも契約をします。
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聖書で言う契約は、これら人間社会でのものとは少々ですが、違います。
人間社会では、対等の立場で契約文を提案し合い、合意したものを契約文とします。
だが聖書メッセージでは、上位者である創造神が、下位者である被造物に発する命令が契約文となるのです。
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ならばそれは命令ではないか、と我々は思いますよね。
たしかに、それは、命令の側面をも持っています。
けれども、その命令は、上位者の気分次第で変更されるものではありません。
創造神は暴君ではないのです。
<命令内容は変えない>
一度発したら、その言葉を創造神は変えません。
その面は、人間社会での契約文と同じです。
命令でありながら契約となる。
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人間は、万一創造神が契約文を守らなかったら、あるいは、変えようとしたら抗議できます。
このことは上位者に対していようが、出来る。
創造神が、命令を発しながらわざわざ「諸君と契約を結ぶ」というのは、そういう意味を持っているのです。
聖書での契約は、そういう独特の概念です。
一旦命じたら、それは契約となり、創造神自身をも縛るのです。
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<旧約、新約とは?>
そこで~
旧約聖書((Old Testament)の「約」は、そういう意味での契約の「旧い方」ということになります。
旧い方の契約を書いた聖書ですね。
新約聖書(New Testamento)の「約」は、そういう意味での契約の「新しい方の」という意味になります。
こちらは、新しい方の契約を書いた聖書です。
聖書は、全体が、そういう契約文でみちているのですね。
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さて、人間社会にもどります。
我々の社会での契約では、契約文に各々が、自分の名を署名したり、印鑑を押したり、血でもって血判を押したりししますよね。
契約文を確証するためにそうしています。
契約文といえども文章です。
文章は所詮言葉で出来ている約束で、どちらかが守らなければおしまいだ。
そこで人間社会では、「それを一定期間変えないで守る」、という確証をするために署名・捺印したりしています。
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では、聖書における契約の言葉はどうでしょうか?
旧約聖書の契約文は、それを与えるエホバ神が一方的に保証しています。
「おれが契約と言ったのだから変わることはないのだ」という。
まあ、それが保証と言えば保証でしょう。
<新約聖書の保証>
他方、新約聖書ではもう少し丁寧です。
新約聖書の命令は、イエスが発しています。
イエスはそれを契約文として、自らの血でもって確証しています。
そのために殺される際に、大量の血を流します。
死ぬのは、血を流さないでも(窒息死などで)死ねるのに、そういう殺され方をするのです。
<最後の晩餐での聖餐>
イエスはそのことを、殺される前に、有名な「最後の晩餐」の場で予告します。
彼は自らがまもなく殺されることになる時点に、パンと葡萄酒を弟子たちに与えます。
そして、それらを自分の肉であり血であるという。
その上で、この血は自分のたてる契約を確証する、というのです。
(マルコによる福音書:14章23-4節、ルカによる福音書:22章20節)
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これは一般に聖餐式(せいさんしき)と呼ばれています。
イエスの名で集まるときに、これを実施して自分を思い出すように、との旨をイエスは命じていきます。
そして、実際に大量の血を流して殺されます。
<全聖句がイエスの血で確証されている>
イエスのこの言葉を認めると、実は、旧約聖書の契約も、結局はイエスの血で確証される~ということになります。
旧約も、本質的にはイエスの契約をいっているからです。
そのことを、イエスは、ヨハネ伝5:39でいっています。
「旧約聖書は(つまるところは)わたし(イエスのこと)を証言している」本だとイエスは断言しているのです。
(キリスト教ではそれを受け入れるが故に、本来ユダヤ教の教典だった旧約聖書を、新約聖書にくっつけて「聖書」としています)
だから、旧約聖書の契約文も、つまるところはイエスの血で確証されていることになるのです。
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つまり、聖書全体の契約文が、イエスの血で確証されているのですね。
聖書がそういう経典であることを、我々はよく知るべきです。
宗教経典はいろいろあります。
そのほとんどに、教祖の言葉が記されています。
だが、それを、教祖自らが、自分の流す血で確証する、という論理を持った経典はありません。
<驚くべき効力>
では、その論理は実際に効力を持つのでしょうか。
それはまず、聖句の重量感の急変でもって自覚できます。
聖書の文章(聖句)を、イエスの「血で確証されているもの」との意識を一方に持ちながら読んでみます。
すると、聖句が不思議な重量感をもって味わえてきます。
従来の聖句感触には、その強力な重量感は無かったことが容易にわかってきます。
すると、不思議な霊的世界が開けてきます。
<聖霊のバプテスマも容易に受けられた>
これは私だけの体験ではありません。
H・A・マクスウェル=ホワイト『イエスの血の力』(オアシス・クリエイト刊)、は多くの人々がそれを体験していることを記録しています。
英国で、聖霊のバプテスマを受けたくて集まった人々が、賛美しても、聖句を朗読して祈っても、なかなか受けられなかった。
そころが「ジーザス・ブラッド!」(Jesus Blood! イエスの血潮!)と繰り返し叫び始めたら、いとも容易に聖霊を受けてしまった。
そういう状況も、この本は記しています。
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不思議な事象です。
筆者は「一方で血を強く意識しながら読む」という聖書講読のメカニズムを、言葉(理論)で説明出来たらと思っています。
だが、当面のところ難しいです。
その意味で、鹿嶋にはこの事象は神秘の領域に入っています。
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当面、これはもう仕方ないと思っています。
宗教でも、むやみに神秘を振りかざすと、神秘主義に陥ってしまいます。
その意味で神秘主義は避けねばなりませんが、神秘の要素は残してもいいかなあと思っています。
神秘の要素が全くなくなったら、それは科学になってしまいますから。
(完)
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