鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

我が子への対応と被造物への対応は別範疇

2017年07月27日 | 随想





ゲラを校正して、出版社に送りました。

「随想」を続けます。

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前回、創造神の創世前からの意志は、天国を創り御子をその王座に据えることにある~と述べました。

これを聞いて、拍子抜けした気持ちになられた読者は少なくないと思います。

あれ? 人間には救われる機会は前もって決められていないの?~と。

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パウロは「決められている」と言っています。

『エペソ書』の1章では、その企画は「全被造界の基の据えられる前から」存在していた、と言っていました。
もう一度示しましょう。

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「創造神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・

ではありますけど、創造神が我が子に対応するのと、被造物である人間に対応するのとはレベルというか範疇が別です。






<親子の心情は『創世記』で示唆されている>

創造神は御子に対しては、自分の一部(分身)として愛し、精神的に同一化しています。

このことを我々人間は、聖句を手がかりに推察することが出来ます。

「創世記」で創造神が人間を創る際の聖句はこうなっています。




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「創造神はおおせられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて』」
    (創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・



この「われわれに似せて」は単なる外形デザインだけでなく、その人格的属性も含めて「似せて」である~と鹿嶋は解します。
だとすれば、われわれは自分たち人間の心理属性から、創造神の心理属性を「似たもの」として推察してよさそう~となります。

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そこで、人間の親の我が子に対する心理をみますと、人間の親は、なぜか自分の子と精神的に同一化しています。

子どもが病気になり苦しむと、自分も苦しくなり、何とか治そうとします。
他人の子どもにも心配はしますが、それほどにはなりません。

人間心理には「親がわが子を他人の子以上に愛する」という属性も含まれているのです。




そして、そのことから創造神の父子(親子)の間の心情を推察するとこうなるでしょう~。

創造神も、我が子である御子に同一化し、自分の一部として愛しているのです。

御子は創造神の一部であり、分身なのです。





だけど、被造物である人間に対してはそういう心理はありませんよ。

そのことも、人間の心理から類推しましょう。

人間とテレビの例に照らして言えば、テレビは人間にとって自分の子ではなく、「オレが造った」被造物です。

テレビを間違って傷つけても、自ら苦しむことはない。

せいぜい部品を取り替えようかと思う程度です。

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自分の子だったら、自ら苦しみ、お医者さんに連れて行こうとするのに・・・。

自分が造った被造物であるテレビに対してはそういう心理は湧かないのです。


創造神にとっての人間は、基本的にそういう位置づけです。

「人間を救う」としても、その基盤の上での行為です。


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だから、創造神と被造物である人間との関係と、創造神と御子と関係のことを同じ範疇の事件として扱うべきではない。

鹿嶋はそう考えて、敢えて前回には示しませんでした。




<主目的と副次目的>


くどいようですが大事なことですので、繰り返しを含めて述べますと~

前回に述べた企画は、創造神が自分と同等に愛する存在、御子に関するものでした。

御子がこの宇宙に「人の子」として遣わ され、悪魔のうちにある創造神への敵意の物証を挙げる。

そして天の王座に就く~という物語はそういう性格のものです。

父なる神にも御子にもこの技が主目的であった。

だから十字架上で息と引き取るときイエスは「完了した!」と言ったのです。

人間の救いに関しては、まだまだやることがあるのにそういったのです。

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御子は復活して現れた後にも、弟子に追加レッスンをします。

天に昇って王座に就いたら、聖霊を送ります。

そういうことがまだ残っているのに「完了した」と言ったのは、この仕事が御子の主目的であったからです。

人間への救いの仕事は言ってみれば、副次目的だったからなのです。





<肉体にはそれ自体の「死」がある>


この主目的の仕事の中では、人間の創造は、御子がこの世に来るための手段(道といってもいい)の創造という位置にあります。

人間は肉体をもつように創造神は創っています。

肉体にはそれ自体の死があります。

だから、他者(悪魔に動機づけられたユダヤ教高僧たち)が殺すことも可能だ。

殺されて悪魔の敵意の証拠を挙げるために、肉体を持つ存在としての人間が必要だった。

その「人の子」としてこの世に来ることが必要だった。


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マリアのおなかに入って「人の子」として生まれるのが必要だった。

それらは創造神が御子に対してあらかじめ意図した主目的の企てのために必要な手段だったのです。

だから人間を造るという企ては、創世の前から企画されていた手段なのです。






<テレビ受像機は人間に文句を言わない>


そして、被造物である人間が創造神に対する位置は、テレビが人間に対する位置と基本は同じです。

テレビを人間は好きなように用いて処分しますよね。

創造神も、人間を好きなように用いて処分できる立場に、基本的にはあるのです。

創造神の被造物に対する絶対優位性(dominance)~これは造る側と造られる側との間に定められた鉄則です。

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だってテレビが人間に「少しはオレにもいい思いさせてくれ」といわないでしょう。

人間は、用を足して疲弊したらリサイクルして「はい、サヨナラ」するでしょう。

それをごく当然のこととして人間はやっている。

なのに、自分の創り主である創造神に対して「オレにも一寸はいい思いをさせろ」なんて言える義理には、人間はないのです。

(パウロはそのことを旧約聖書を解読してよくわかっていたのです)






<どうして人間だけに!!>


『エペソ書』1章に戻ります。

だから、パウロは驚愕の思いで、のべています~。

・・・なのに、人間に対しては、御子の統治傘下に入ったら、御子と同じく自分の子とする。

子として、天国の所有権にもあずからせてくれる。

~そういう企てが、被造物創造の前から、創造神の意志にあった。

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パウロにはこれは驚くべきことだったのです。

あまたある被造物の中で「どうして人間だけに」そんな企画をあらかじめしてくださっていたのか。

その理由はわからん。どうしてもわからん。


人間に対するこのような意志は、もう一方的な「恵み」と受け取るしかない。

そう認識したパウロの胸には、もう感謝、感謝、大感謝があふれ出しました。

ジョイ(歓喜)があふれだした。



     


<これは「恵み」としか言い様がない!」>


そのことが『エペソ書』でパウロが披露した心情です。

そのことが、1章全体にわたって、表現されています。

とくに後半ではパウロは、「恵み」、「恵み」と繰り返しています。


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そしてこの創世前からの企画を、創造神は人間に聖霊を送ることでもって確信させてくださった。

人間に対しては、救いの道を備えていることを、確証させてくださった。

なんという「恵み」か・・・。 理解できないよ!

パウロはこのことを、驚愕と感謝と歓喜でもって受け入れているのです。


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でも、この奥義は聖書を読むものにも、特に日本人にはなかなか識別できにくい状態にあります。


その大きな原因が言葉にあります。

用語「恵み」にありますす。

この平凡な言葉では、パウロが洞察した福音のエッセンスがなかなかわかりにくいのです。


次回には、この問題を吟味してみましょう。


(我が子への対応と被造物への対応は別範疇・・・完)








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