Sightsong

自縄自縛日記

ビョーク『Vulnicura』

2015-04-08 07:49:13 | ポップス

ビョークの最新作『Vulnicura』(2015年)を繰り返し聴いている。

まずはあまりにも強烈なジャケットに引いてしまうが(プラスチックのスリーブにはまた別の強烈なものがある)、これは、収録された歌の数々と密接に関係するものだった。すなわち、愛する者との別れをテーマとして、その前から別れのあとまでを順に歌った作品なのであり、ジャケットには、自傷と、外の世界に晒されるその傷とが描かれている。ヴァルネラビリティはビョークの作品に一貫してみられる特徴だと思うのだが、本作のタイトルもそれと関連するのだろうか。

いたずらに壮大なヴィジョンを過剰なビートとともに提示した近作とは異なり、一転して、肉声に近いストリングスを中心としたサウンドになっている。シンプルになった結果、ビョークの声の個性もあらためて感じることができるわけである(ところで、「r」の巻き舌が妙に目立つがどうだろう)。そして、それに伴って、順に提示されるビョーク自身の物語に耳を傾けなければならない。

1曲目の「stonemilker」では、単語を痛切に区切る「a juxtapositioning fate ...」から始まる。別れの9か月前だとしている。ニューヨーク・MOMA PS1において、曇天の海辺で歌う3Dのビョークを見せられた歌でもある(>> リンク)。一方、MOMA本館の「ビョーク展」において大画面のクリップを流していた曲は、別れの2か月後の「black lake」だった(>> リンク)。この2曲はたしかにとびきり印象的だ。この2曲以外ももちろん素晴らしい。

ちょうどニューヨークのカーネギーホールでは、ビョークのコンサートが開かれていたようで、それを絶賛するベッカ・スティーヴンスのツイートを見た。ぜひ日本でもコンサートを開いてほしいものだ。

●参照
MOMAのビョーク展
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』
ビョーク『Post』、『Homogenic』
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』
ビョーク『Volta』、『Biophilia』


MOMAのビョーク展

2015-03-30 15:04:28 | ポップス

ビョークの展覧会がMOMA(ニューヨーク近代美術館)で開かれている。ちょうど最近ビョークを聴き始めて、ようやく新作にたどり着いたばかりと絶好のタイミング。いそいそと出かけた。

しかし、実は日曜日の午後。やたらと混んでいて、個々の作品についての展示の前に立ち、貸し出されるスマホのような機器で音声を聴くという展示コーナーには入れなかった(時間指定のチケットだけらしい)。

まずは、新作『Vulnicura』に収録されている「Black Lake」の映像。峡谷だか洞窟だか、ぬめぬめした場所で歌いまくるビョーク。さらに、それを抜けた上映室では「Bjork Cinema」として、過去の名曲のヴィデオ・クリップ。ソファーが設置してあって、みんなだらしなく腰かけたり寝っ転がったりして観ている。わたしも疲れていたので横になったらウトウトしてしまった。それでも長く、目を開けると叫び踊るビョークの姿。

強烈でお腹一杯、そのあと他の美術作品を観ようとしたら実につまらなかった。いや、凄いですね。

ところで、『Vulnicura』は随分気に入っているのだ。

●参照
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』
ビョーク『Post』、『Homogenic』
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』
ビョーク『Volta』、『Biophilia』


ビョーク『Volta』、『Biophilia』

2015-03-23 23:09:21 | ポップス

前々からビョークを聴いてきた人ならば1作ずつ受け止め、玩味してゆっくりと自分の評価を形作っていくところだろうが、わたしの場合は、駆け足で順に聴いている。それゆえなのかどうか、『Volta』(2007年)に至り、少しウンザリしてきた。そのあとの『Biophilia』(2011年)もまた同様。

手作り感が姿を消し、湧き上がるものも希薄になり、その一方でイビツに壮大な世界を示されると、ちょっと引いてしまうのだ。歌声の個性もこれでは台無しだ(・・・言い過ぎか)。せっかくの旨い食材をごてごてとした贅沢な料理にされたような気分。

気分を変えようと、レイクシア・ベンジャミンのノリノリジャズをかけたところ、実にホッとしてしまった。

最新作はどうだろうね。

●参照
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』
ビョーク『Post』、『Homogenic』
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』


ビョーク『Vespertine』、『Medulla』

2015-03-22 23:23:47 | ポップス

なおもビョークの旧作を順番に聴く。

■ 『Vespertine』(2001年)

ジーナ・パーキンスのハープが大きくフィーチャーされている。ストリングス中心の撥ねるような擦れるようなサウンドの中で、ビョークはやたらと内向的な詩を唄う。これに電子音がびよんびよんと加わると聴き疲れしてしまうが、ハーモニカだけのインストルメンタルが挿入されて救われる。

■ 『Medulla』(2004年)

一転して、コーラスなどの「声」が幾重にも重なって、しかしビョークの声はどこにあっても変わらず個性的。「Oceania」で雲が開けたような印象を覚え、目が醒める。

●参照
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』
ビョーク『Post』、『Homogenic』


ビョーク『Post』、『Homogenic』

2015-03-20 07:20:03 | ポップス

ビョークの新譜が話題の中、遅れてきたわたしは古い盤を順番に聴いている(笑)。

『Post』(1995年)

人里離れた山での生活を唄った「Hyper-Ballad」や、オーケストラをバックにコミカルに唄った「It's so Quiet」などがいい。

惹かれるのは歌詞を反芻しながらの歌世界だけではなく、ビョークのコブシ、鳴らす喉、叫び。いちいち発声に癖があって、たとえば「mountain」という単語なんて出てくるたびに「来た来た」と思ってしまう。

『Homogenic』(1997年)

前作よりもスピード感とか一体感とかいったようなものが出てきたのかな。ただ、バラエティと手作り感がある分『Post』が好みだ。

「Alarm Call」は、山における達観と警告。前作での「Hyper-Ballad」が閉ざされた幸福を唄っていたのとは表裏一体だなという印象をもったのだがどうか。

●参照
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』


ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』

2015-02-26 23:20:46 | ポップス

何だかビョークが気になるとツイッターで呟いたところ、何人かの方からいろいろと教えていただいた。やはりツイッターは好き者の集まりだ。

昔にも気になってライヴ映像を録画して観たところ、あえなく弾き返された。まあ、何ごとにもタイミングがあるものだ。どうやら過激化を続けている人のようなので、まずは最初の頃の録音を聴く。

■ 『Gling-Glo』(1991年)

というか、ジャズである。なんだそうか。

ピアノトリオがスイングする中で歌うビョークは、居心地よさそうなのか悪そうなのか。思いつめたような声が魅力的なのだが、さらに刺激してくるのは、喉から絞り出す唸り声だ。元ちとせが、『Hajime Chitose』(2001年)においてカヴァーしたときの歌声も、まさに元ちとせ「らしくない」絞り出し声だった。これだったのか。

■ 『Debut』(1993年)

これはさらに嬉しいサウンド。唸り声もやはり良いのだが、たとえば「Like Someone in Love」における揺れ動く声は、ヴァルネラビリティそのものだ。傷つきやすさとその反面の攻撃性とが同居しているというべきか。

そして、「Aeroplane」と「The Anchor Song」においては、オリヴァー・レイクらがサックスを吹いている。これが素晴らしくハマっている。調べてみると、その前には、アート・アンサンブル・オブ・シカゴと共演するアイデアもあったようだ。それは聴いてみたかった。


中川右介『松田聖子と中森明菜』

2014-12-29 23:03:06 | ポップス

中川右介『松田聖子と中森明菜 1980年代の革命』(朝日文庫、2014年)を読む。

山口百恵の引退が1980年。それと入れ替わるように、1980年代の怪物ふたりが前後して登場してきた。本書は、同じ著者の『山口百恵』の続編として書かれている。

著者によれば、松田聖子は、徹底的に「どう見えるか」だけを戦略的に選択し行動できる天才であり、中森明菜は、逆に内面を痛々しいほどに見せつける天才であった。ふたりとも、物凄い歌唱力を持っていた。対照的な自己プロデュースの能力と歌の実力こそが、80年代の歌謡曲に革命を起こした源泉なのだった。そして、その過剰性のために、かたや「幸福」や「自立」を、かたや「不幸」や「孤独」を、私生活にまで侵入させてしまった。

本書は、この天才ふたりの芸能人生を、やや距離を置きつつ、同時にエンタテインメントとして描く。『ザ・ベストテン』を楽しみに観ていたことがある者(おもに40代以降?)にとっては、自分史の一部を「歴史」として見せてくれるわけであり、これはたまらない。ああ、懐かしいな。

違う個性や立ち位置のゆえに軋轢はなかったように思いこんでしまうが、そうでもなかったようだ。作詞・作曲ともにニューミュージックの才能を如何に取り込むかが勝負であり、松田聖子はユーミンが、中森明菜は井上陽水が「認めた」から、その実力が認識された。その陽水が中森明菜に提供した「飾りじゃないのよ涙は」には、「ダイヤと違うの涙は」という歌詞がある。これは、松田聖子が歌った「瞳はダイアモンド」(松本隆・ユーミン)への一刺しであったという。知らなかった。

●参照
中川右介『山口百恵』


テレサ・テン『淡淡幽情』

2014-10-13 19:44:39 | ポップス

先日、テレサ・テン(麗君)の大名盤『淡淡幽情』(1983年)の24ビット100kHzマスタリング・限定盤の存在を知り(twitterで教えていただいた)、探して入手することができた。旧盤の録音も決して悪くはないのだが、新盤を聴くと、実にキメ細かくいろいろな音が聞こえてくる。

これは香港ポリグラムから発売され、香港の「レコード大賞」的な「Album of the Year」を受賞した作品。すでに日本でビッグネームであったテレサだが、ここでは、おっさんの妄想ソングではなく、中国の古典詩に曲を付けたものである。わたしも初めて聴いたときから魅せられて、ずっと聴き続けている。

テレサの唄はエッジが丸く、突き抜けた優しさと力がある。中村とうようが「聞き手を慰撫する仏の境地だった」(『ポピュラー音楽の世紀』岩波新書)と表現しているのは、決して大袈裟ではない。

すべての曲が本当に素晴らしいのだが、なかでも好きな曲は「萬葉千聲」。「わざわざ枕に寄り、あなたを夢の中で探したいが、なかなか眠れず、良い夢にならない」という意味の詩を情感たっぷりに唄うテレサの声をどう表現すべきか。旧盤の歌詞対訳を読みながら聴くと、身悶えして、カフェで聴いていても涙腺がゆるんでしまうほどだ。

LP盤もいつの日か入手したほうがよいのかな。

●参照
私の家は山の向こう
私の家は山の向こう(2)
宇崎真、渡辺也寸志『テレサ・テンの真実』
フェイ・ウォン『The Best of Faye Wong』、『マイ・フェイヴァリット』
楊逸『時が滲む朝』


フェイ・ウォン『The Best of Faye Wong』、『マイ・フェイヴァリット』

2014-05-09 00:23:11 | ポップス

ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994年)を観てからというもの、主演のフェイ・ウォンが気になってしまい、PV集『The Best of Faye Wong』(Cinepoly、1996年)を入手した。

いや~、魅力爆発。猛烈に可愛い。いまみてもオシャレで、コケティッシュで、メヂカラが強烈で、目が釘付けになる。

凝ったPV集ということもあって余計にそう感じてしまうのだが、壁にチラシやポスターをベタベタと重ねて貼っていくようなメディアの雑踏のなかにあっての、この人の魅力なんだろうなと思う。メディアがどんどん変貌していって、勢いも隙間もものすごくあって、そのなかで爆竹を鳴らしていたという感覚。

この中で、(PVではなくライヴ映像だが)「千言萬語」を唄っている。この曲は、フェイ・ウォンがテレサ・テンに捧げたアルバム『マイ・フェイヴァリット』(Cinepoly、1995年)にも収録されている。こうなると、どうしてもテレサ・テンと比べてしまって、フェイ・ウォンには分が悪い。奥深さ、包容力、声のエッジの丸さという点で、テレサにかなうわけがないのだ。大袈裟ではあるが、故・中村とうよう氏は、テレサの歌を「聞き手を慰撫する仏の境地だった」と振り返っている(中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』、岩波新書)。

実際に、これまで、テレサの名盤『淡淡幽情』(Polygram、1983年)と聴き比べては(特に、同じ曲「但願人長久」)、フェイは何てペラペラに浅くて軽いのだろうと感じていた。最近、以下の文章を目にして共感してしまった。

「・・・奇しくもテレサ・テンが亡くなった年に、テレサへのトリビュート・アルバム『マイ・フェイヴァリット』を発表、特にボーナス・トラックの「千言萬語」(語り尽せぬ愛)」は雰囲気たっぷりの名演として、フェイのベスト盤にも収録されている。幼いころからテレサの大ファンだったフェイは、その後継者になる。当時は誰もがそう思い、期待したはずだ。ところが・・・・・・要するに、力量が違いすぎた。フェイの声には芯がない。テレサの声も、軽くふっくらとしているが「よく響く」声で、ここぞというときには、堅固な芯がしなやかに表れる。フェイの場合、芯のない声と同じように、音楽性も一貫していなかった。」(昼間賢「歌謡曲のアジア」、「Narasia Q」2013年5月/特集・うたうアジア)

しかし、その一方で、「声」だけで比較しない贔屓があってもいいのではないか、とも思う。テレサはテレサ、フェイはフェイ。

●参照
ウォン・カーウァイ『恋する惑星』
宇崎真、渡辺也寸志『テレサ・テンの真実』
私の家は山の向こう
私の家は山の向こう(2)


内山田洋とクール・ファイブ『ゴールデン★ベスト』

2014-04-30 23:47:15 | ポップス

先日乗った飛行機のヴィデオプログラムのなかに、『歌のトップテン』があり、あまりの懐かしさにリピートまでして観てしまった。

番組には、内山田洋とクール・ファイブも登場。ふと自問自答した。「あれ?内山田洋・・・前川清・・・???」 そう、似ているふたり、ではない。内山田洋とクール・ファイブのヴォーカル担当が前川清なのであり、バンマス内山田洋は童顔のギタリストである。混乱したじゃないか。

何を今さら、じっくりと「恋さぐり夢さぐり」を聴いたわけだが、これが痺れる。前川清は、直立不動で、歌う前におもむろにマイクをすっと口の前に持ってきて、悠然と、しかも熱く歌う。他のメンバーによるサックスやハモりもまた良い。そんなわけで、忘れられず、ベスト盤を購入した。毎晩のように聴いては、なにものかに対して恥じらっている。

何しろ、「恋さぐり夢さぐり」だけでなく、「そして、神戸」、「長崎は今日も雨だった」、「噂の女」、「東京砂漠」など、いい曲揃いである。こっそり練習して、今度カラオケで歌ってみようかな。これでわたしも立派なオッサン。

それにしても、前川清の声は素晴らしい。憂いものびやかさもある。昔は、志村けんや欽ちゃんにツッコミを入れられるとぼけたオッサンとしか思っていなかった。

ところで、前川清のオフィシャルサイト「清にゾッコン!」がなかなか愉しい。物販サイト「KIYOSK」(笑)には、「長崎は今日も飴だった」という飴が売っている(笑)。


ちえみジョーンズ『being away from indiana』

2014-04-02 23:37:19 | ポップス

去年、那覇の桜坂劇場で開かれた音楽イベント「Sakurazaka ASYLUM 2013 -TAIWAN STYLU-」で、ちえみジョーンズ自身がライヴ前にビラを配っていたのに聴くことができず、ちょっと心残りでもあって、ここのところ、新しいCDを聴いている。

ちえみジョーンズ『being away from indiana』(tetete records / keeponmusic、2013年)

厚紙を自身がミシンで縫ったというジャケットも、中に入っていた付録のシール(スーツケースにでも貼ろうかな)も手作り感が溢れまくっていて、グッド。

もちろん外側だけでなく、中身も、ベリー、グッド。声量は無いほうだと思うが、中性的というのか、聴いていて気持ちが良い。自分のポジションを覚悟して、手の届く範囲に音楽を創りあげているような感覚。歌詞も同様に息の届く範囲。

また沖縄のどこかで聴きたいものだ。那覇の栄町市場で聴いたのはもう7年も前。


『山口百恵 激写/篠山紀信』

2014-03-02 23:44:23 | ポップス

『山口百恵 激写/篠山紀信』(1979年)

篠山紀信が不世出の歌手・山口百恵を撮った写真によって構成された映像作品。これが「NHK特集」であったというのだから、驚かされてしまう。随分思い切った企画をしたものだ。

曲は、『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』(1979年)をもとにしているが、これに収録されていない「プレイバックPart2」も挿入されている。

あどけない14歳から、妖しい色気を前面に出した20歳まで。勿論、「山口百恵」という物語なのだが、それが如何に時代に重なっていたか。また、篠山紀信が如何にメディアの渦の中でハマっていたか。これは、山口百恵、篠山紀信、それに阿木燿子・宇崎竜童コンビも含め、何人ものモンスターが噛み合った、時代の記録である。

●参照
中川右介『山口百恵』
山口百恵『曼珠沙華』、『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』 


宇崎真、渡辺也寸志『テレサ・テンの真実』

2013-12-07 19:25:56 | ポップス

八重洲の古本屋で見つけ、衝動的に、宇崎真・渡辺也寸志『テレサ・テンの真実』(徳間書店、1996年)を買って読んでしまう。

テレサ・テン、本名・鄧麗君が、タイのチェンマイで急死したのは1995年のこと。まだ42歳の若すぎる死だった。あまりにも唐突だったこともあり、暗殺説やエイズ説までもが流れた。

知らなかったが、テレサの死をめぐる謎について、TBSのテレビ番組が同年に放送されたらしい。本書は、その取材をもとにして書かれている。したがって、展開はあまりにもテレビ的であり、「次にわれわれはここに飛んだ、じゃじゃーん」といったつくり。いま読むにはちょっと辛い。

内容も中途半端な憶測にとどまっている。曰く、テレサは台湾のスパイであった。テレサの両親は国民党であったため中国本土から台湾に渡った「外省人」だったのだが、同様に、チェンマイにも中国から逃れた人々がいた。テレサが喘息の療養には適していないチェンマイに通ったのはそのためである―――と。しかし、そこで何をしたのかにはまったく触れられていない。

もっとも、目くじらを立てるほどのことでもない。アジアの歌姫、鄧麗君をまた聴こうという気にさせてくれたのでよしとする。

●参照
私の家は山の向こう
私の家は山の向こう(2)
楊逸『時が滲む朝』


中川右介『山口百恵』

2013-11-27 23:11:46 | ポップス

中川右介『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールドと』(朝日文庫、2012年)を読む。

不世出の歌手、山口百恵。13歳のときにオーディション番組『スター誕生!』に登場してから、21歳で引退するまで、活動期間はわずか7年余りに過ぎない。

彼女が歌う姿をテレビで視ていたのは、わたしがまだ小学生のときだった。どちらかと言えば、ピンクレディーや沢田研二のマネなんかをしていて、百恵はヘンな顔だなあと思っていた記憶がある。しかし、いまあらためて当時の百恵の映像を観ると、ただごとでないアウラをまとっていたことを否が応でも実感させられる。その佇まいから推察できる覚悟は、二十歳前後の人間のものとは思えない。

本書を読み進めていくと、そのアウラが、商売のために創り上げられたただの虚像に過ぎないものではなく、虚構の山口百恵と生身の山口百恵との相克によって生み出されたものだったことがわかる。そして、生身の山口百恵が虚構の山口百恵を圧倒していったとき、歌手・山口百恵は本物となり、そして結婚と同時に引退することとなった。

もし、山口百恵が芸能活動を続けていたら、著者のいうように、80年代にトレンディ・ドラマなどに登場していたのだろうか。ちょっと想像を超えてしまう。

●参照
山口百恵『曼珠沙華』、『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』


元ちとせ『ハイヌミカゼ』

2013-10-15 22:59:23 | ポップス

ふと久しぶりに、元ちとせ『ハイヌミカゼ』(Epic、2002年)を取りだして聴いたところ、自分でも意外なほどに刺さってしまった。

実は、これをはじめて聴いたのは、大ヒットして何年か経ってからだった。「何年に一度の声」といったコピーを目にして、どうせ商売で煽っているだけだろうと決めてかかっていた。実際に、テレビで歌声を聴いて、何だか下手だなあと思っていた。

そんなことはなかった。

奄美のこぶしが過剰である。それまでの上手い歌とは違う。録音であれば、多少操作もしているだろう。しかし、これは本物だった。やがて聴き惚れて彼女の歌を集めはじめるのに、時間はかからなかった。

このCDは、何しろ良い曲が揃っている。ヒット曲「ワダツミの木」だけではない。山崎まさよしが作曲した「ひかる・かいがら」のしっとりした情感。切々とした気持を前に吐き出しまくる「初恋」。静かな抑制から哀しさに転じる「ハイヌミカゼ」。そして、ハシケンが作曲した「君ヲ想フ」では、まるで天に音で挑戦したかのような「Groovin' High」(ディジー・ガレスピー)よろしく、あり得ないようなメロディーに乗って、血管が切れそうな勢いで、想いを繰り返し天に叫び続ける。

ずっとファンではあるのだが、その後、声量が落ち、鼻から抜けるような発声に違和感を覚えるようになっていた。ところが、最近のライヴをテレビで観たところ、声がもとの力を取り戻しているように聞こえた。本人のブログを読むと、新たなレコーディングを行っているらしい。期待。

●参照
元ちとせ『Orient』
元ちとせ×あがた森魚
『ウミガメが教えてくれること』
元ちとせ『カッシーニ』
元ちとせ『Music Lovers』
元ちとせ『蛍星』
『ミヨリの森』、絶滅危惧種、それから絶滅しない類の人間
小田ひで次『ミヨリの森』3部作