Sightsong

自縄自縛日記

高崎宗司『検証 日朝交渉』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア

2009-04-04 18:58:18 | 韓国・朝鮮

今後の国際交渉に向けたネタ作り、あるいは瀬戸際外交の一環として人工衛星を発射しようとする国家。もちろん「万が一の危険」はあるし、約束を破っている以上、紳士的なことではない。だが、狂える国家だ、今すぐにでも軍事力で叩き潰してしまえと言わんばかりの論調がテレビや週刊誌といったメディアを支配していて、はっきり言って、私にはそちらのほうが到底まともとは思えない。

少なくとも、以下のように疑って考えているのは私だけではないだろう。

― SM3やPAC3は試射の予算を確保することが難しかった。この機会は格好の軍事演習となりうるのではないか。
― 地域に対して住民の危険を煽ることで、有事法制の一環である国民保護法(国家が住民を守るのではなく、実際には民間が防衛する)の意義を持たせる意図があるのではないか。
― 韓国と米国が合同軍事演習を行っていたことが直接のきっかけだが、最近そのことをあえて軽視しているのではないか。人工衛星が脅威だというなら、軍事演習も向こうにとっては脅威だろう。
― 人工衛星であることがわかった前も後も、軍事用の可能性をことさらに残して報道しているのではないか。
― 日本国内に落ちる可能性は極めて少ない、と言いながら、ことさらに不安と危機感を煽るのは何故か。仮に撃墜したら、その破片が落ちてくるリスクのほうが高いというではないか。さらに、相手国を挑発し返すことはさらなる危険を招くのではないか。
― すべては、日本(と米国)の軍備強化に向けたアリバイ作り、国民のコンセンサス作りのための動きなのではないか。喜ぶのは日米の軍部だけではないか。
― そういったことが、何故一部で言われているに過ぎないのか。

ここまで険悪になっている大きな原因は、拉致被害者の存在にあることは明らかなのだが、またその大犯罪の非が、かの国にあるのが確かなだけに、まともな外交努力が放棄されてきたこともまた明らかに思える。少なくとも、拉致被害を政治利用してステイタスを固めた安倍元首相のような存在に象徴される歪んだ姿がある。

高崎宗司『検証 日朝交渉』(平凡社新書、2004年)により、戦後の経緯を辿っていくと、関係のアンバランスさが明らかに見えてくる。戦争を手招きしている者は、北朝鮮ではなく、むしろ国内にいるということだ。

「戦前・戦中の日本は、朝鮮を植民地として支配していたのである。北朝鮮の国民に対して植民地支配の謝罪と補償をし、国交を樹立しなければならないだろう。」

「この十年余り、戦後補償問題が東アジアの大きな問題となったことにも明らかなように、朝鮮の民衆と和解するためには、どうしても日本の植民地支配に対する謝罪と補償についての論議が欠かせないからである。今日、これらの議題についての論議が忘れられ、拉致問題で「軟弱外交」を非難する声だけが高いことを見ると、いっそうその感を深くする。」

「日本側代表団は、拉致問題に対するマスメディアの反応に強い影響を受けた。「相手に向かって机を叩いて怒鳴ってりゃいいだけでした」と交渉担当者は語っている。」

「脱北者の苦労、飢え、物乞いする子供たち、収容所の悲惨な生活が脱北者によって語られた。また、北朝鮮のテレビ番組を編集して、軍事パレード、「喜び組」のダンス、歌い踊る子供たちの作り笑い、アナウンサーの大仰な抑揚などを興味本位に伝えた。
 等身大の北朝鮮の人々の姿は見えてこない、北朝鮮に対する拒否感・蔑視が刷り込まれていくものばかりであった。これらには、日本と北朝鮮との間に起こった歴史も完全に抜け落ちていた。」


国宝・阿修羅展

2009-04-04 11:03:18 | アート・映画

半休を取って、「国宝・阿修羅展―興福寺創建1300年記念」を観ようと上野の東京国立博物館に足を運んだ。花見シーズンの上野公園だから、平日なのに人が沢山いて、「30分待ち」だった。やめるのも悔しいので本を読みながら並んで入った。


すごい人

興福寺は、710年、藤原京から平城京への遷都時に移転されている。(なお、土産売り場には、大騒動になったキャラクター「せんとくん」のグッズが躊躇なく売られていた。) 移転ではあるが実質上の創建のようで、クーデターで政権を奪取した藤原鎌足の息子・藤原不比等による。その後、藤原氏の氏寺になったため、奈良時代後期には大勢力となり、平安初期の新興の天台や真言に対する最大の批判勢力となった(末木文美士『日本仏教史』、新潮社、1996年)。とは言っても、多様化は密教によってはじめて拓かれたわけではなく、この展示でもインド由来の八部衆や四天王など、とても多様なものだったとわかる。阿修羅も八部衆のひとつである。

この八部衆が面白い。象のかぶりもの、鳥頭、頭上にとぐろを巻く蛇、一角など、ついにやにやして鑑賞する。八部衆は、「少年という未熟な一時期の姿」「憂いや不満といった負の表情」(丸山士郎、『うえの』2009年4月)ということであり、そのような発展途上の姿であると思って観るとなお楽しい。

十大弟子は、6人が展示されていた。これもそれぞれ表情や法衣の造形が異なっている。スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラにあるアーナンダ像(阿難)と比べてみたかったが、ここには展示されていなかった。もっとも、伊東照司『スリランカ仏教美術入門』(雄山閣、1993年)によればアーナンダだが、いまではガル・ヴィハーラにある3体すべてが仏陀だと聞いた。


ガル・ヴィハーラ、ポロンナルワ、1996年 PENTAX ME Super、FA28mmF2.8、Provia100

最大の見もの、阿修羅立像のまわりには人垣ができていた。ただ、周囲をまわることができるし、ちょっと高いところからも見下ろせるので、無理して最前列まで入り込むことはなかった。何だか居るべきところから切り離されて、哀れに見えてしまう。

ミニコミ誌『うえの』(2009年4月)に南伸坊が笑える小文を寄稿している。その指摘によると、

― 阿修羅像は高足蟹に似ている。(西伊豆あたりの世界最大の蟹だそうだが、私は食べたことがない。)
― 脇の下がエロチック。
― 顔の眉と眉間が人々をとらえてドギマギさせる。ためしに何かで眉と眉間を隠すと、とても涼やかな表情になる。

だそうである。「生身の人間がするのは不可能」な表情だそうだ。じろじろ見ていると、想像力が貧困なためか、貴乃花とか夏目雅子とかを思い出す。脇の下はエロチックというか、確かにユニークだ。二の腕の向きが下、上、下の順。

四天王の造形も見事だった。最近、四天王というと、中国浙江省の阿育王寺(アショーカ王寺)、天童寺や北京のチベット寺院・雍和宮なんかで、ずん胴の漫画的な奴ばかりを見ていたので、なおさら肉感的な彫刻の印象が強い。

もっと空いている時間を狙って行けばよかった。

ところで、アメ横入口あたりの「牛の力」で牛丼を食べてアメ横を歩いていると、鞄屋の「万双」を発見した。以前からウェブでちらちら見ては良いなあと思っていた鞄を作っている。実は鞄というものが好きなのだ。ボストンバッグを見せてもらったら頭が溶けてしまった。勿論高いので、そうそう買えるものではないのだが。うーん。