今後の国際交渉に向けたネタ作り、あるいは瀬戸際外交の一環として人工衛星を発射しようとする国家。もちろん「万が一の危険」はあるし、約束を破っている以上、紳士的なことではない。だが、狂える国家だ、今すぐにでも軍事力で叩き潰してしまえと言わんばかりの論調がテレビや週刊誌といったメディアを支配していて、はっきり言って、私にはそちらのほうが到底まともとは思えない。
少なくとも、以下のように疑って考えているのは私だけではないだろう。
― SM3やPAC3は試射の予算を確保することが難しかった。この機会は格好の軍事演習となりうるのではないか。
― 地域に対して住民の危険を煽ることで、有事法制の一環である国民保護法(国家が住民を守るのではなく、実際には民間が防衛する)の意義を持たせる意図があるのではないか。
― 韓国と米国が合同軍事演習を行っていたことが直接のきっかけだが、最近そのことをあえて軽視しているのではないか。人工衛星が脅威だというなら、軍事演習も向こうにとっては脅威だろう。
― 人工衛星であることがわかった前も後も、軍事用の可能性をことさらに残して報道しているのではないか。
― 日本国内に落ちる可能性は極めて少ない、と言いながら、ことさらに不安と危機感を煽るのは何故か。仮に撃墜したら、その破片が落ちてくるリスクのほうが高いというではないか。さらに、相手国を挑発し返すことはさらなる危険を招くのではないか。
― すべては、日本(と米国)の軍備強化に向けたアリバイ作り、国民のコンセンサス作りのための動きなのではないか。喜ぶのは日米の軍部だけではないか。
― そういったことが、何故一部で言われているに過ぎないのか。
ここまで険悪になっている大きな原因は、拉致被害者の存在にあることは明らかなのだが、またその大犯罪の非が、かの国にあるのが確かなだけに、まともな外交努力が放棄されてきたこともまた明らかに思える。少なくとも、拉致被害を政治利用してステイタスを固めた安倍元首相のような存在に象徴される歪んだ姿がある。
高崎宗司『検証 日朝交渉』(平凡社新書、2004年)により、戦後の経緯を辿っていくと、関係のアンバランスさが明らかに見えてくる。戦争を手招きしている者は、北朝鮮ではなく、むしろ国内にいるということだ。
「戦前・戦中の日本は、朝鮮を植民地として支配していたのである。北朝鮮の国民に対して植民地支配の謝罪と補償をし、国交を樹立しなければならないだろう。」
「この十年余り、戦後補償問題が東アジアの大きな問題となったことにも明らかなように、朝鮮の民衆と和解するためには、どうしても日本の植民地支配に対する謝罪と補償についての論議が欠かせないからである。今日、これらの議題についての論議が忘れられ、拉致問題で「軟弱外交」を非難する声だけが高いことを見ると、いっそうその感を深くする。」
「日本側代表団は、拉致問題に対するマスメディアの反応に強い影響を受けた。「相手に向かって机を叩いて怒鳴ってりゃいいだけでした」と交渉担当者は語っている。」
「脱北者の苦労、飢え、物乞いする子供たち、収容所の悲惨な生活が脱北者によって語られた。また、北朝鮮のテレビ番組を編集して、軍事パレード、「喜び組」のダンス、歌い踊る子供たちの作り笑い、アナウンサーの大仰な抑揚などを興味本位に伝えた。
等身大の北朝鮮の人々の姿は見えてこない、北朝鮮に対する拒否感・蔑視が刷り込まれていくものばかりであった。これらには、日本と北朝鮮との間に起こった歴史も完全に抜け落ちていた。」