向井豊昭『BARABARA』(四谷ラウンド、1999年)を読む。
なんとも凄まじい言語の使い手であったことがわかる。ここまで言語を解体し、しかも戦略的に文脈を徹底的に無視し、あるいは文脈を創り上げている。その両者はかれにとっては同義語であったのかもしれないなと思う。そして表題作「BARABARA」では、その解体がすべて引きちぎられた人格となって出現している。
岡和田晃氏によれば(>> 植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」)、向井は小熊秀雄に魅せられ、アイヌを征服した和人の言語感覚を強く意識していた。構造の一員であることも含めた自己批判と抵抗とが形になったものとして読むことが可能か。