出口王仁三郎という人物は、わたしにとってはオカルト世界の存在であった。何しろ中高生の頃に『ムー』を読んでいた時期があり、UFOだとか心霊だとか超常現象だとか歴史上の奇人・怪人だとか、そのような話は一通りさらったつもりでいる。そんなわけで、おかしな熱病を体験したため、大人になっても、非論理的な話や宗教からは距離を置くことができているつもりでいる(その良し悪しは置いておくとして)。
勿論、出口王仁三郎はそのような文脈で視るべき人物ではない。明治の19世紀末、開祖・出口なおとの出会いにより、宗教「大本」を興した偉大なる宗教家であった。
王仁三郎の孫・出口京太郎氏により書かれた『巨人 出口王仁三郎』(講談社文庫、原著1967年)は、その王仁三郎が、如何に破天荒で、かつ、マルチな才能を持った人物であったかを、講談調で語っている。後半になるにつれ、筆致が勢いを増してくるのが面白い。
戦前戦中、 出口王仁三郎は、道鏡、足利尊氏、明智光秀とならぶ「逆賊」とみなされていた。それは、二度の大弾圧を行った国家権力と、それを追認する新聞メディアの力によるものであった。開教当時、稲荷信仰よりもさらに民衆信仰として天理教や金光教が普及しており、さらに、この大本が、「世直し」を謳う宗教として登場したわけである。大本はその過程で左翼も右翼も引き込み、反権力のムーブメントとして力を持つようになったため、国家権力はそれを看過できなかった。
弾圧の根拠は、「不敬罪」であったり、治安維持法に底触する国体変革の意図であったりした。それらはなかったとは言えないのだろうが、罪に問われるようなことではない。それほど、このムーブメントが国家権力にとって脅威であったということだろう。
ただ、むしろ、日本の帝国時代の南進政策や満州侵略政策と同調する側面があることは気になる点だ。それほどに様々なベクトルを内包していたということか。
本書に紹介されているエピソードはいちいち面白い。
○北一輝や軍部の橋本欣五郎は、クーデターを起こすため、信徒を動員してくれと王仁三郎に依頼した(断られた)。
○王仁三郎の『霊界物語』執筆ペースは凄まじく、2日で1冊を書き終えたこともある。
○エスペラント運動を通じて、ロシアの詩人エロシェンコ(魯迅『あひるの喜劇』の主人公としても登場し、中村彜により肖像画が描かれている)も、大本に共鳴した。
○モンゴルに新たな宗教基盤を作るべく大陸入りしたが、張作霖の不興を買い、銃殺刑に処せられる直前で一命を取りとめた(パインタラ事件)。なお、このとき、合気道の開祖・植芝盛平が信者として同行している(あれだけ強い神話を作った盛平も、結局多数に無勢?)。また、大陸入りのきっかけともなった日野強(元海軍)は、中国において、第二革命の李烈鈞を援助した人物だった。内田良平や頭山満など、当時のアジア主義者の運動のなかにも位置づけられるわけである。
○満州国皇帝に溥儀を擁立しようとする動きに、王仁三郎も一役買っている。また、サイパンに神社を建立してもいる。(このあたりが、日本の版図拡大と同調しているところである。)
どのような文脈であれ、王仁三郎が巨人・奇人・怪人であったことは確かだ。
早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』(新潮文庫、原著2007年)は、1935年の第二次大本弾圧を丹念に追った書である。
本書を読むと、国家権力が、とにかく不穏で脅威であった大本を、まず徹底的に潰すことを目的として、後付けで不敬罪や治安維持法への底触などを捏造しようとしたことがよくわかる。著者は、その原因として、ムードだけではなく、大本が宗教団体から政治団体へと変容していたことを挙げている。
拷問は熾烈であった。ターゲットは高齢の王仁三郎ではなく、娘婿の日出麿に向けられ、そして日出麿は発狂に至った。小林多喜二が拷問により獄死したすぐ後のことである。幹部だけでなく、何百人もの信者が何らかの拷問を受けたという。しかし、結局は、戦後までかかった裁判によって、大本が有罪となることはなかった。
拷問はともかく、警察や検察が調書を捏造することによる冤罪事件は、現在も続いている。そのひとつのルーツはここにもある。
もともと昭和ファシズムとは相容れない教義を持つ大本は(上のような海外進出と同調した側面はあるとはいえ)、結果的に、弾圧によって、戦争協力を強いられることもなかった。興味深い歴史である。
ところで、本書はサブタイトルの通り、王仁三郎の妻・すみに焦点を当ててまとめられている。大本は現在に至るまで女性教主の伝統を持ち、なおの娘すみは二代目教主だった。そのすみもまたユニークな人物であったようで、面白いことに、「下手クソ」な書をたまたま見た北大路魯山人がその天衣無縫さに驚愕し、評価したという。わたしには書の良し悪しを評価する能力がまるでないが、この面白さならばまとめて観賞してみたいと思う。
ご案内の本はまったく読んでいないのですが、実は大本教とはいささか縁があるのです。まず、お話のように、エスペラント運動に積極的であった大本教は、日本エスペラント学会から教師を招いて信者に教えていました。戦中から戦後にかけ、何度か講師として出向いていたのが、当時学会で評議員を務めていた僕の父親だったのです。
父親の話から、大本教が弾圧された実際の要因は、天皇を否定したことにあるといいます。「今(昭和)の天皇は、神の子でも万世一系でもなく、政略的に作り上げた傀儡である」と、出口王仁三郎はどこかで語ったらしいのです。それが不敬罪に抵触し、クーデターの疑いがかけられたのが、昭和10年の大本教事件。こんな発言は(たぶん)どの本にも書かれていないはずで、証拠も何もないのですが。
いずれにしろ、国家神道を否定したことが、天皇(天照大神の子孫)を頂点とする軍事国家(国体)を形成しようとする政府にとって、都合が悪かったということですね。
出口王仁三郎の呼び方ですが、「おにさぶろう」が一般的で正しいとされているものの、大本分派を含む古神道系の人(友人もいます)の多くが「わにさぶろう」と呼んでいて、実際はどうなのかとずっと疑問に思っています。
エスペラント関連のお話は訊きたいと思っていましたが、それは貴重な証言ですね。確かにそこまでには、これらの本は言及していません。
第一次弾圧が不成功に終わった上に、国体を揺るがしかねない脅威だと捉えたのでしょうか。
どうも「ワニ」が自他ともに使う渾名で、新聞などでも見出しに「ワニ」を使っていたようです。そうなると、本名+渾名を使って呼ぶことも多かったのかもしれませんね。