バンコクからの帰途、エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話』(ちくま学芸文庫、原著1982年)を読む。レヴィナスが1981年に行ったラジオ対話の記録である。そのため、執拗にして晦渋極まるレヴィナスの哲学書よりもシンプルである。
レヴィナスには存在のざわめきが聞こえていた。「ある」とは「語られたこと」でも知でもなく、それを超越したもの、我執では捉えることのできないざわめきであった。存在から抜け出すための思考の到達点として、主権の廃位、無私無欲な他者への責任があった。この思考の原点には、フッサールやハイデガー以前に『聖書』があったことが赤裸々に語られている。
『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』において今ひとつ腑に落ちなかった、近い他者と<顔>についての考えが、この対話を通じて伝わってくる。あまりにも無防備でヴァルネラブルな<顔>と向き合うことによって、人はその近い他者に応答せざるを得ず、責任を迫られるのであり、さらには自己の存在に向き合うには、自己が予測不能な世界に無防備に身を投げ出さねばならないのだということ。エロスとは他者に絶対的な他者性を見出すということであり、責任や愛とは異なるということ。総合とは絶えざる対面でなければならないということ。ここにおいて、自我という内面はくるりと反転し、無限の他者へと向けられる。
「肯定的に言えば、他人が私を見つめるやいなや、私には他人に責任があると言えるでしょう。この他人に対して責任をとらなければならないというのではなく、相手の責任が私に課せられるのです。それはまさに、私がおこなうことの彼方へと向かう責任です。」
「責任を負うのはつねにこの私であり、歴史がいかなる帰結になろうとも、宇宙〔世界〕を支えているのはいつでもこの私なのです。」
この思考は過剰な奉公でも殉教精神でも、ましてや自己否定でもない。如何に苛烈な言説であっても、誰もが持つヴァルネラブルな<顔>が「死に曝されている」という、目をそむけたくなる事実からの延長に過ぎない。
「世界のなかに存在していることで、私は誰かの場所を奪っているのではないでしょうか。存在に対する素朴で自然な執着を疑問視するべきです!」
この言葉は、<帝国>に当てはめても、学校や会社における小さな社会に当てはめてもよいものに違いない。ジャック・デリダが<他者>への裏切りが不可避である世界を顕在化させようとしたことにも通じている。
「私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは<一者>)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)の前で責任を取るためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任をおろそかにしなければならない。そして私はこの犠牲をけっして正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。」
「あなたが何年ものあいだ毎日のように養っている一匹の猫のために世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。」
ジャック・デリダ『死を与える』
●参照 他者・・・
○エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
○ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは
○徐京植『ディアスポラ紀行』
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
○柄谷行人『探究Ⅰ』
○柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
○高橋哲哉『戦後責任論』
○戦争被害と相容れない国際政治