7時間以上のバンコクへの機内で、上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』(ボーダーインク、2009年)を読むことができた。一昨年はこの侵攻から400年、ただ具体的な経緯をあまり知らなかったため、とても勉強になった。戦史だけではなく、琉球王国をアジアの海洋国のひとつとして位置づけ、交易や力関係を描いた良書である。
○琉球の交易活動は外来勢力に依存していた。明朝や東南アジアへの文書作成・通訳は久米村の中国人が担当し、朝鮮語の通訳は琉球に住む日本人が行っていた。16世紀後半には久米村は衰退した。
○16世紀、石見銀山の銀生産が増大し、世界の3分の1に達した。スペインがボリビアで生産する銀とともに、ほぼすべて中国に吸収された。明朝には銀の貨幣システムがあった(杉山正明『クビライの挑戦』には、銀の貨幣利用が元・モンゴル帝国以降であることが示されている >> リンク)。
○スペインによるフィリピン侵略(1571年)は、マニラを交易センターに押し上げ、海域アジアの交易をさらに活発化させた。琉球は16世紀に入って明朝の優遇策撤廃もあり交易活動を低下させていたが、なお、ビルマによるシャムのアユタヤ陥落後(1569年)、マニラを中心として交易活動を行っていた。しかし、琉球の対フィリピン交易も1600年前後には途絶した。
○単一の国際体制はこの時代には当てはまらない。中国という圧倒的な存在、しかし各国は独自秩序の世界観に立ちながら、他国の外交論理を我が物として利用した(中国の冊封・朝貢体制をも)。
○琉球には日本から多くの禅僧が渡来しており、国境を越えた禅宗ネットワークがあった。細川氏、大内氏、島津氏らと琉球との通交にも、島津氏の侵攻時の交渉でも、このネットワークが大きく影響した。
○琉球にとっては交易の低下をくいとめることが必要であり、中国の冊封使節団の交易品を買い取るため、島津氏からの商船派遣を要請する状況があった。このため琉球は日本から多額のオカネを借り、経済的依存を強めた。
○島津氏は15世紀には琉球の領有ではなく、琉球との通交権を求めていた。しかし九州での支配力を強めるに従い、その姿勢はシフトしていく。16世紀には明らかに琉球を下位の存在として扱うようになってきた。ところが16世紀末、島津が豊臣秀吉の支配に屈し、その意向は日本の中央政権(秀吉)を代弁するに過ぎないものとなった。そして秀吉は1588年、島津氏を介し、琉球に対して武力で滅ぼすぞとの恫喝外交を行うに至った。
○秀吉の構想では、明は対等国、朝鮮・琉球は属国との認識であった。朝鮮出兵は明の征服のためであり、さらにはスペイン領フィリピン、台湾にも日本への従属を求めた。これは中国を中心とした東アジアの国際秩序に対する挑戦であった。北京に天皇を移して都とし(!)、インド征服も視野に入れていた。
○一方、琉球にとって明朝は宗主国であり、秀吉の論理をやすやすと受け入れることなどできなかった。琉球は秀吉の企てを明に通報するなどの情報戦(インテリジェンス)を計った。
○明の側には、島津氏に豊臣政権を離脱させ、薩摩を介して、琉球・シャム・ベトナム・ポルトガルなどの戦力を日本に侵攻させるという驚くべきプランまであった(!)。
○秀吉の死の6年前、朝鮮において、「琉球人が秀吉を暗殺した」という噂が流れた。秀吉への憎悪と、戦争終結の願いとが生み出した風説であった。
○徳川政権に代わり、島津氏の軍事行動推進よりも、琉球には日明国交回復の仲介をさせることのほうが重要視されてきた。これにより琉球が日明交易の中継地となれば、島津氏の琉球を利用した独占的権益は失われ、出兵の大義名分を失ってしまう。このため、島津氏は関係を明確化する必要に迫られた。そのようにして島津氏の琉球出兵計画が提起されていった。
○島津侵攻に際して、よく言われるように、琉球は無抵抗で屈したわけではなかった。那覇の港を集中的に守る戦略も不適切なものではなかった。両者の戦力の決め手は、戦争に対する慣れと、鉄砲の保有比率であった。
○明は日本の傘下に入った琉球との朝貢関係を断絶しなかった。琉球に援軍を送らなかったという負い目と、琉球が完全に日本に取り込まれて脅威化することの懸念によるものであった。