吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社現代新書、2016年)を読む。
最初から最後まで「種明かしの見せ消し」のようなこの人の詩は、昔からさほど好きにはなれない。編集者なのである、ただしそれはあまりにも異常な。そのことが本書に付き合っていくと嫌というほどわかる。作業自体が、敏感な神経を触っては叫び、それを形にしていくような感覚もある。
このヤバさは、伊藤憲『島ノ唄』、ジョナス・メカス『富士山への道すがら、わたしが見たものは……』、小口詩子『メカス1991年夏』といった本人が登場する映画を観ても、また実際に朗読する姿を目の当たりにしても(吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」)、恐怖感とともに伝わってくるものだ。
そのことと関係があるのかどうか、吉増剛造ファンには、彼の詩よりも佇まい(キャラともいう)が好きな人が少なくないのではないか。