Sightsong

自縄自縛日記

戦争被害と相容れない国際政治

2007-07-22 22:19:41 | 政治

報道される範囲が一面的にグローバルになり、またさまざまなことが次々に起きていくので、私たちは、「ちょっと前」以前に何があったか忘れがちになっている。たとえば湾岸戦争ですらそうなのだから、ヴェトナム、世界大戦などの爪痕を隠そうとする動き―沖縄で枯葉剤を使っていたことを報道しないとか、日本軍が国民を殺したことを教科書から消そうとするとか―については、歴史、社会、教育、個人などいろいろなレベルで記録と記憶に刻み込み続けることが必要なのだろうとおもう。

『現代の戦争被害―ソマリアからイラクへ―』(小池政行、岩波新書、2004)は、この10年そこらの戦争―ソマリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、アフガニスタン、イランについて、それを改めて行ってくれる本だ。

大きなメッセージとしては、大国の介入がいかに各国にひずみをもたらしたか、米国の一方通行的正義がいかに間違ったものか、国際人道法に違反する残虐行為がどれほど行われ隠されているか、米国のピンポイント攻撃の精度は甘く(それゆえ確信犯的に)民間人をどれだけ殺し続けてきたか、といったところである。これは、さらには、「そのようなもの」に過ぎない大国の介入(=戦争)に、「国際協力」の美名の下に追随する日本への批判ともなっている。

○ソマリアでの米国軍への反撃(93年)により、米国の非国連主義ともいうべき独善性がエスカレートしていく。そしてコソボでの空爆強行以来、米国は、軍事力行使を正当化する決議を国連から得ることを放棄している。
○米国が派兵すべきかどうかについては、世論が最大の要因だった(広告代理店までがイメージ形成に関わる)。裏を返せば、誰かにとって都合の悪い情報は、報道しないことがもっとも効果的となる。
○ユーゴ、イラク(米国は対イランのためイラクを援助していた)、アフガニスタン(米国は対ソ連のためビン・ラディンをも援助していた)、コソボなど、米国が武器支援などの介入を行ったことにより、問題が複雑化している。
○かつて「自衛だけが軍事行動の根拠となる」と公言していた英国ブレア首相は、コソボ紛争時に「人類的価値と新しい国際主義」のためとしてセルビアを爆撃する(99年)。このときに、自衛以外を目的とする戦争の大義名分が拡張した。
○コソボでは、米軍は空爆にあたって合意など目指しておらず、NATOの信頼性強化に真の狙いがあった。
○コソボでは、NATOの空爆により、住民の半分近くを難民化させた。平和などもたらさなかった他方で、米国企業は多くの難民キャンプや軍事基地の設営により大儲けしている。
○国連におけるテロリズムの議論にあたって、米国やイスラエルの態度は、自分たちに向けられたもののみテロリズムと見なすものだ。(自らは決して裁かれないが、他者は裁かれる)
○米国の宣伝するピンポイント爆撃は実態に程遠く、多くの民間人を確信犯的に殺している。それだけでなく、クラスター爆弾や劣化ウラン弾など、殺傷力の強い武器さえ使っている。 このような事実を背景に、小池氏は、米国が敵に対する攻撃を、「やたらに」、自らは安全な位置から行う感情のなかに、敵であるヴェトナム人、イラク人、イスラム教徒の命の重みに対する偏見や軽視の気持ちを見出している。

小泉首相以降の、自衛隊の多国籍軍への参加はどう考えるべきなのか、その答えは明らかだ。

とにかく自衛隊を多国籍軍に参加させたい、という気持ちのみが先走りしていないか。非軍事活動のみを行う自衛隊というのは虚構である。国民の納得を得るために、このような虚構を維持するのは、誠実な政府がやることではない。国民には本当の問いかけを行わず、現場では自衛隊員に生命を危険に晒す無理を強いることになる。

そして、見せかけだけ視野がグローバルになっている私たちが考えなければならない命は、当然ながら、爆弾や銃弾が向けられる人々のものだ。『イラクの小さな橋を渡って』(池澤夏樹・文、本橋成一・写真、光文社文庫、2006)は、戦争で直接的な危険に晒されているイラクの人々と触れ合い、人間味のある姿を十分に伝えている。「個」の集まりは、「国」や「攻撃対象」に一元化されるものではない。それを差し置いて安全保障を考えてはならないと思う。

戦争というのは結局、この子供たちの歌声を空襲警報のサイレンが押し殺すことだ。恥ずかしそうな笑みを恐怖の表情に変えることだ。 それを正当化する理屈をぼくは知らない。

感情論だけでなく、沖縄の米軍基地は、そのような戦争遂行のために次々と使われてきている(ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、イラク攻撃、フィリピン南部攻撃)。

つまり、私たちがしわ寄せ的に沖縄に押し付け見ないようにしているだけで、私たちは明らかに戦争に加担している。ということは、私たちは無意識または意識的に、罪のない子どもたちを残虐に殺しているということだ。

『沖縄基地とイラク戦争 米軍ヘリ墜落事故の深層』(伊波洋一・永井浩、岩波ブックレット、2005)は、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落を機に、そのような構造を説いている。ここでは、さらに米軍基地周辺の安全性もクローズアップされている。普天間も高江も、住民の暮らす隣であり、事故が0%になりえない以上、命の軽視といわれても仕方がないだろう。

このような沖縄と本土との「温度差」をなくすような報道をするのが、ジャーナリストの本来の役割のはずである。だが中央の権力に寄り添い、その目線でしか沖縄の問題をとらえようとしない本土メディアには、米軍ヘリ墜落事故が突きつけた深刻な問題を沖縄市民の視点から解明していこうという姿勢はみられない。そのひとつが、米国の戦争と直結した沖縄基地の実情についてである。

最近についても、辺野古で自衛隊が自国民を威嚇したこと、やんばるで枯葉剤が使われていたこと、辺野古でも高江でも明らかな環境破壊を行っていること、辺野古で反対する住民に対し那覇防衛施設局に雇われた業者が暴力行為を繰り返していることなど、いちいち本土の大手メディアではろくに報道されていない。「ニュースバリューがない」「読者の興味がない」「報道が偏っている」ではなく、報道の自主規制としか思えない。メディアは死んでいるのだろうか?


『現代の戦争被害―ソマリアからイラクへ―』(小池政行、岩波新書、2004)


『イラクの小さな橋を渡って』(池澤夏樹・文、本橋成一・写真、光文社文庫、2006)


『沖縄基地とイラク戦争 米軍ヘリ墜落事故の深層』(伊波洋一・永井浩、岩波ブックレット、2005)


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