昨日初めて隠岐に上陸し、知夫里島→西ノ島→海士島→隠岐の島町と移動してきたわけだが、晴天を見てひとまず安心。
というのも、今日は島後と呼ばれる隠岐の島町全体を周遊するため、ここで悪天候(下手すりゃ雨)だとさすがにヘコむなあと思っていたからだ。
ま、明後日8/16には関東甲信越を台風が通過するとされており、JR東海が全面運休するかを検討中であるため、帰京のタイミングを今日決断しなきゃならんのですがね・・・
ともあれ今はそれを考えててもしゃあないので、宿泊先の五箇にほど近い、伊勢命神社(島の北西部)から遠征を開始。
鳥居周辺は簡素ながらよく手入れが行き届いている。当たり前のように思われるかもしれないが、
ご覧のように周囲は田園地帯で夜はほぼ電灯もない地域であるため、よほどメンテナンスの意識(言い換えるとロイヤリティ)が高くないと、この状況は生まれないのではないか。
以前も書いたことだが、隠岐は幕末における尊王攘夷の盛り上がりと、あるいは様々な幕末における藩政や外交方針の混乱などもあって隠岐騒動が起こり、自治政府が作られるにいたった(ちなみに、尊王攘夷思想に対する私の批判的評価を書くには、水戸光圀や朱舜水、あるいは元→明→清という王朝交代の様相や各王朝の実態など様々な話に言及せねばならないので、また別の機会に譲りたい→ひとまず「神国思想」と「天狗党」の記事にリンクを貼っておく)。
騒動そのものは80日で終わったけれども、その時の仏教勢力のよく言えば穏健的・融和的、悪く言えば日和見的な対応もあり、明治初期の神仏分離令→廃仏毀釈の動きの中では、極めて大々的な神社・仏像の破壊が行われ、その結果一時的に隠岐から寺院が根絶やしにされるほどだった(後に一部が再建)。
その影響の大きさは、「葬式仏教」という言葉もあるほど日本人お馴染みの仏教式葬儀すら全く行われなくなり、神葬祭で統一されたほどと説明すれば、概ね理解されるのではないかと思う(廃仏毀釈の影響が極めて大きかった地域の代表は、薩摩藩・津和野藩であり、逆に長州藩では全くそのような傾向が見られなかったのは興味深いところである)。
ただ、こういった教科書的な説明は一応理解しているつもりだが、土地の人たちの信仰形態やその実践がどのようなものかを調べた訳でも詳しく把握している訳でもないので、実際整然とした神社の姿を目の当たりにすると、そのあたりの事が疑問というか興味が湧いて来るわけだ。
例えばそれこそ、昨日目にした「久美竹島歴史館」建設の来歴や、それを地元住民がどう捉えているのか・・・とかね。
まあつっても折角初めて来た離島巡りでしゃちこばったことを考えててもつまらんから、とりあえず心に浮かんだよしなし事は記憶に留めつつ、この先もざっくばらんに見学していきたいところである。
というわけで、社殿に拝礼し、神社を後にした。
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