私は序章だけでこの本を読むのを止めた。なぜなら・・・
はいどうもムッカーです。今回は、ちょっと変わったレビューになります。前に友人との毒書会で「Humankind 希望の歴史」の話が出たので本屋で手に取ってみたんですが、結論から言うと序章だけ読んであっさり放棄しました。
たいていの書評って、一応全体を見てから要約やら注目ポイントやらを書いていくもんだと思いますが、ここでは「なぜ序章でやめるに到ったのか」を述べていきます。当然、序章より後を読んでいけば見るべき点がある可能性は十分残されているので、このレビューが総体的なものであるというつもりは毛頭ありません。しかしそれでも、ここで序章だけからくる酷評を書くのは、「誠実な思考態度とは何か?」や「科学的思考と信仰・信念の違いは何か?」という話に関わると思うからです。
・・・てなわけで、用意はいいか?俺はいつだってできている(・∀・)
序章で取り上げられているのは、第二次大戦時のロンドン空爆の事例である。英国の当時の為政者たちは民衆の恐慌状態を想定したが、実態は全く別で市民は来るべき苦難に対して前向きに一致団結した、というお話。で、著者はこれが人間の本質だと述べて序章は終わっている。
私はこれを見てあっさりと読む気を失くし、本を閉じたのである。正直どこから突っ込んだらいいかわからないくらいだが、一言で言えば「何でこれだけで人間の本質が善と言えるのかわからん。」となる。
サンプル数が少ないのはもちろんとして、反証事例(もしくは容易に評価が難しいケース)が余りにも多すぎるからだ。試みに同じ大戦で考えてみよう。例えば、防空壕で赤ん坊に声を出させるなと言い、実際そうした(させられた)結果赤ん坊ぎ死に至らしめるられた事例がある。これは「善」か?あるいはニュルンベルク裁判にしろ極東軍事裁判にしろ、裁かれる側において罪のなすりつけ合いがしばしば見られた(この裁判そのものの法律的妥当性は一旦ここでは横に置く)。これは「善」か?あるいは飢饉という極限状況において、家族が相食むような事例も見られる。これは「善」なのか、はたまた「悪」なのか?
このぐらいにしておくが、諸々の事例を見ていけば、「人間の本質」なぞ軽々に措定しえない、という結論を出すのが科学的・論理的思考というものではないだろうか?にも関わらずそうならないのは、よほどの無知か誇大妄想家である、といった結論にならざるをえない。果たしてそのような序章を書く人間の「人類再考」など読むに値するか?答えは否というのが私の結論であった。
私が序章で読むのをやめた理由は以上だが、せっかくなのでもう少し話を掘り下げてみよう。
今述べたような反証事例を踏まえてロンドン空爆時の民衆の反応分析の画角調整をすると、カール=シュミット的な「敵ー味方」図式を連想するのは容易だろう。すなわち、明確な外敵に対し、人は一致団結したということである。なお、このような性質が、状況によっては迫害や排外主義に転化する事例は、同時代のナチスドイツはもちろん、今日の世界情勢でさえしばしば観察されるところだ。著者にとっての「善」・「悪」の定義を私はつまびらかには知らないが(そりゃ序章しか読んでないからねw)、こういう反応は「善」にあたるんですかね?と問いたいとろである(ちなみにこれは洋の東西を問わない話で、たとえば儒家のあり方を「偏愛」として批判し、兼愛を問いた墨家を想起したい)。
あるいは為政者の想定と実態が異なる、という意味では、レベッカ=ソルニットの「災害ユートピア」を想起するのも有用だろう。つまり、災害において人はよりいっそう利己的な態度を取ると思われていたが、むしろ現出したのは階層を超えた相互扶助的コミュニティだった、という話である。これは人間は極限状況になればなるほどよりselfishな振る舞いをするはずだ、という想定が必ずしも正しくないという戒めとして重要だが、さりとてそういった状況下で人はみな利他的態度をとり問題を起こすようなことはしない、という定義付けも様々な反証事例から否定される。要は、「性悪説的見方は正しくないが、それは性善説が真であることを意味しない」と言い換えられるだろう(その意味で言えば、デリダが脱構築で明らかにしたように、「無意識化された二項対立図式から自由になることかまず重要」とも述べられよう)。
さて、最後にもう1つ別の視点から踏み込んでおこう。それは、著者が「これら全てわかって確信犯で書いている」可能性だ。先にも述べたが、序章の事例で人間が善とは言えない(≠完全悪)というのは、誰でもわかるレベルの話だ。そんな無防備極まりない論理展開をあえて序章で展開するリスクは何だろうか?
1.
これで読者を吊り、利益を上げようとしている。
2.
この理屈に飛び付く、言い換えると初めから人間の本質は善と強く信じている人間にだけ刺さればいいと思っている。
およそこんなところだろうか?1はまあ本の売上という意味ではそうだろうし、「嫌韓」本などと同じ戦略である可能性はあるが、それやったらもっとセンセーショナルな感じにするだろうなあと一応この可能性は除外。
2は結構ありえると思っていて、要は読者のフィルタリングである。この後に書いてある理屈を納得してもらうためには、序章のガバガバロジックでも人間の本質は善と思えるような、言い換えると初めから性善説的世界観を強く持っている人に読んでほしい。だから一種の「踏み絵」として序章を準備したということである。この見方が正しいなら、本書は「性善説を唱える麻薬コンテンツ」と言い換えることができよう。
いささか皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、そういう性質を持った本書が「人類再考」を唱えているのは私にとって非常に興味深い。というのも、AIが発達し、生活を快適にする装置が進歩し、一方で社会の分断が進んで人間への期待値が低減する中、人はますます見たいものしか見なくなっている。そういう状況において、不都合な事実(反証事例や複雑さ、多用さ)からは目を背け、「ゲーテッドコミュニティ」に引きこもるのはある意味必然的で合理的な行動だからだ。そう考えると、「人類再考」として人間の本質を考えるようでいながら、極めて一面的でゲーテッドなこの本は、(「小さな真理」の林立という点でも)そういう人類の黄昏を象徴する書と言えるかもしれない。
以上。
序章しか読んでいない人に対して言うのも何であるが、本書は性善説を科学的に立証しようとするものではない。そもそも人間の本性を科学的に立証することは記事で縷々述べるまでもなく不可能である。
人間の本性は善的なものと見ようと思えば実例を含めていくらでもそうであるし、逆もまた真である。
当方は本書を読みながら想起したことは、人間の本性は悪であるとした方が為政者にとって都合が良いという仮説や、性悪説をネタにした方が購買意欲を刺激するという仮説である。
ここでは細かくは述べないが、それらを始めとして思想形成の滋養となったことは確かである。
そういう読書経験をしたもので、ムッカー氏の記事を読み「勿体ない」と思った次第。
もちろん、本には相性があることは分かっているし、当方にも序文で読むことを止めた本は過去にいくらでもある。
ただ、これは誠実な書評者が守っているマナーでもあると思うので言っておきたいのだが、やはり序文しか読んでいない程度で本を批評(酷評)することは慎むべきではなかろうか。
これは単に著者に対して失礼というだけでなく、自身の大いなる誤解や短慮を世間に開陳するリスクを伴うし、かかる書評に惑わされる読書子を生み出す懸念もある。
僭越ながら当方ならば序文しか読まずに諦めた本は、書評するに値しないということもあるが、せいぜい「私には合いませんでした」や「私には時期尚早でした」と言うに留めておく。というかそもそも何も言わない。
ムッカー氏も丹精込めて書いた文章の1パラ目だけを読んで全論考を否定されたならば承服しえないであろうと思う。
他者を批判することにおいては細心の注意と敬意が肝要であり、それが書評であるならば、少なくとも論旨を見誤らない程度の読み込みは必要であろう。
以上、老婆心より申し上げた。
まず最初に言っておくと、私はこの本に関して考えを変える気は一切ない。序章で読むのを止めた、というのはそういうことだ。よって以降の文章は、「議論」でも「説得」でもなく、ただの説明である。お互いに時間を空費しないためにも、まずそのことをおとめおきかだされ。
>全体を見てないのに酷評をすべきではない。
その意見を拒否する。以下、たとえ話を使ってその理由を説明してみようと思う。
私は評判のレストランを紹介され、後日食事に出かけた。その際、応対があまりに稚拙なものだったので(少なくともそう感じたので)、食事をせずに店を出た。後日私はその応対についての酷評記事を書いたら、「ええ!?勿体ない。あそこの料理はとても美味しいのに!応対もそんなに気になるものだった??それでも我慢して食べればよかったのに・・・てゆうか、それだけ店を酷評するのはちょっと違うんじゃない?」
たとえ話で言えば、今この状態という認識だ。さて、ここで私が食ってもいない料理まで想像でけなし始めたら、おかしなことだろう。しかし、料理は評価不能としつつ、応対が極めて不愉快だったことを指摘・批判するのが不当だとは全く思わない。
もちろん、「応対は気にならなかった。料理は最高だった」という人はいるだろう。私はその反応を否定するつもりはない(ご随意にどうぞ)。しかし、私はそういった評価者から何を言われたところで、その店には二度と行かないし、自分の評価を変えるつもりもない。
以上で説明は終了だが、折角なので、もう少し踏み込んでおこうか。
木場氏の返信を見るに、大要「性善説・性悪説のどちらか正しいのかは決定不可能」という話だが、それは本書の序章のどこに書かれていたのか、教えてもらえると幸いだ(逆に木場氏個人の考えなら、本書の書評とは無関連に、ただ私と同じですねで話は終わり)。
少なくとも私の記憶の限り、そのような箇所はない。仮に、序章より後にそのような表明が体系的になされているとしたら、「本の構成が稚拙である」という評価に今度はなるであろう(どっちにしろマイナスには変わりない)。
では代案を出そう。
例えば仮に、「人間存在の本質を善とも悪とも言いがたいのに、人は性悪説的な見方をしがちであることによって多くの重要な要素を見落としてしまう」ということを言いたいのであるならば
パターン①
ロンドン空爆で為政者たちは民衆が利己的な行動を取る、すなわち性悪説的な発想をしていたが、しかし実際に観察されたのは一致団結して苦難に対応する姿であり、それを一意に「善」と表現するのは難しい部分もあるが、性悪説的視点では見落とされる要素であるのは事実だ。本書は、このように人間の本質が善とも悪とも決めがたい複雑性に依拠することを考慮しながら、特に性悪説的発想で見落とされがちな諸要素について様々な事例を基に言及していきたい(どちらかと言うと、プラトンやハーバーマス的思考)。
パターン②
性悪説的人間観より、性善説的人間観で社会設計をする方が合理的である。こう書くと、あたかも「人間の本質」について私が述べていくと誤解されるかもしれないが、そうではなく、例えばハーバーマスとルーマンの論争における後者のように、あくまで機能主義的な視点に立つということだ。これはある意味、パスカルが宗教について、「それが正しいかどうかはともかく、それを信じる方がよりよき生を送れるのなら、信じるのはよきことである」という趣旨の発言をしたのに似ている。さて、性善説的発想が合理的であるケースは、囚人のジレンマのようなゲーム理論をはじめ著名なものも少なくないが、本書ではそういった事例を取り上げ、より良い社会設計について論じることを目的とする。
まあこんなところだろう。
しかし、繰り返すが、序章で書かれているのはロンドン空爆の事例のみで、かつ性悪説的(利己的・カオスとも言いかえられる)な為政者の見方を否定し、性善説的(相互扶助的・秩序的)な民衆の反応こそが本質としか書いてないので、一体これのどこから人間の本質を定めがたいと著者が考えていると読み取れるのかさっぱりわからないね、という話。で、(木場氏が言うには)それが著者の意図に反するなら、単に書き方が下手なだけなんじゃない?というのが私の結論。
まあ他にも南直哉の例を出しつつ「誠実な語りとは何か?」みたいなもっと抽象度の高い話もできなくはないが、この辺にしておこう。ちなみに、もし性悪説こそ人間の本質なり、と述べている文があったら、私は災害ユートピアの事例とか出して反論してるよ、というのも付け加えておこう😀
というわけで以上。
ちなみにこの後返信が来ても無視する可能性が極めて高いが、それは木場氏への悪感情によるものではなく、単にこの本のためにこれ以上時間使いたくないからだ、という点を申し添えておきたい。
木場氏の体調があれから良化したのかはわからないが、厳しい寒さが続くので、お互いに身体には気をつけよう。では。
縷々書かれているが、正直こちらの論旨を正面から理解いただけていないので、およそ的外れな説明(?)になっております。
>全体を見てないのに酷評をすべきではない。
当方はこんなことは言っておりません。その批評が的を射ていればよろしい。一部を見て全体を評価する行為には容易に誤解が起こりえるし、そうなると論者としての自己の価値を大いに棄損することになりかねないので慎重にされたいと申しました。
(そして案の定誤読をされている。つまり少なくとも当方はムッカー氏の論者としての姿勢に懐疑の目を向けるに至っている。)
いや、最初のコメントにも書いた通り別に君がこの本を受け付けられないこと自体はどうでもよいのです。
最初のコメントをよく読んでいただければおわかりになるはずであるが、当方は最初から本書の中身について必要最小限しか触れていない。別段中身について弁護するつもりも説得するつもりもないのです。
なので、「大要『性善説・性悪説のどちらか正しいのかは決定不可能』という話だが、それは本書の序章のどこに書かれていたのか、教えてもらえると幸いだ」という問いに対しても答える必要性はないと思うが、あえて一つだけ教えておくと、それは序章だけ読んだところで分からないでしょうね。なぜなら、本書において「性善説・性悪説のどちらか正しいのか」なぞ傍論も傍論の話なので。
私のコメントのメインの趣旨は友人としての忠告でした。
もちろんこれも耳を貸す貸さないは自由っす。
それにつけても貴殿の文章は衒学的過ぎる、、、なあ。