『鬼滅の刃』:分断と不安の中だからこそ、内発的な利他と絆が輝きを見せる

2021-03-11 11:36:36 | 本関係

昨日の記事では、『鬼滅の刃』読了ということでそのテーマ性(鬼=利己の象徴、鬼殺隊とその周辺=利他の象徴)を確認しつつ、最終話が描く世界の意味について考えてみた。そしてここでは、予告通りに「なぜ鬼滅の刃は社会現象にまでなったのか」という点に絡めて、そのテーマ性が今日的に持つ重み・深みについて述べていこうと思う。

 

さて、重要なことなので今一度確認すると、最後の23巻まで読んだ結果として、「鬼とその行動原理=利己の象徴」と「鬼殺隊を中心とする人々とその行動原理=利他の象徴」という図式が、やはりこの作品の根底にあるテーマだということを再確認した(ちなみに後者で「人間」というわかりやすい表現をしなかったのは、鬼になったのは人間に絶望した人間であるし、その鬼を作り出すきっかけを作ったのも人間の蛮行であることは作品を読んでいれば容易に理解されることだからだ。そのため、鬼と人間の単純な二項対立図式で考えるのは誤りと言える)。

 

その意味では非常にわかりやすい話でもあるのだが、前に触れたように、アリストテレスの時代にも言及されているような共同体(当時はポリス)の崩壊と人間のモナド化という古いテーマが、グローバル化や多様化による分断がために改めて意識されるようになった今日では、極めて強い説得力をもって受け入れられるのは当然のことだと思われる(ちなみにナチスドイツが台頭した時期がそうであったように、排外主義や民族主義が強まるのは国民国家が盤石になったタイミングではなく、むしろ危機に瀕した反動としてそれらへの回帰が生じるという点にも注意を喚起しておきたい)。

 

もちろん、キャラクターの背景の描き方や緩急をつけた展開(これは別稿で述べる)からしても、鬼滅の刃それ自体がすぐれた作品であると私は確信している。しかし同時に、グローバル化に限らず過疎化や蛸壺化など急速な勢いで共同体が崩壊しており、もはや分断された未来が現実のものとして体感されてきている21世紀の今だからこそ(昨今一億総中流化などという幻想を信じている人間はいないだろう)、生き残りのために人を信じず必死に力を求め続ける鬼の姿はとてもただの「悪」(=他人事)には見えないし、また鬼殺隊やその周囲の人々の情念と献身は、失われつつある人間性や絆を思わせ、なおのこと輝いて見えるのではないだろうか。

 

これがもっと昔、たとえば100年前であったなら、鬼殺隊の行動はあるべき姿として単純な理想型として認識されたかもしれない(その姿を人は是とするが、今日ほどには心を打たれない)。あるいは40・50年前(1970年代や1980年代)ならば、逆にそれは「古臭い価値観」として反発されたかもしれない。というのも、鬼殺隊たちがその身を捧げる対象を、身近な人物や共同体から「大いなるもの」へとスライドした上でそのあり方を規範として強制したなら、たちどころにそれが戦前の国家主義的なものになってしまうことを、悲劇の記憶の共有がまだできていた当時ならば、特に慎重な読者たちは強く意識したはずだからだ(念のため補足しておくが、今私が述べたのは鬼滅の刃が戦前の日本を肯定する話だ、という意味では全くない。というのも、このことを意識した上で読めば、鬼滅隊の利他性は山本七平が指摘した「空気」や三島由紀夫が述べた「一番病」、すなわち規範や強制によって出てきたものでは全くなく、産屋敷=お館様への忠誠心の在り様からもよくわかるように、それが内発性によって駆動されていることに気付くはずだからだ。ここが不安と自由からの逃走によって成立する全体主義とは大きく異なる部分である)。

 

では今日はどのような状況だろうか?改めて言えば、共同体はすでに急速な勢いで空洞化しつつあり、それを軸にした他人との絆も信用できなくなってきている(にもかかわらず、「世間」という名の抑圧構造は残存していることが日本の病理を深くしていると私は考えているが、これもまた別稿に譲りたい)。これの最も象徴的な例が、短絡的な「自己責任」の連呼であり、それを鬼滅の刃的に言うなら、「鬼たちの咆哮」とも表現できよう(ただし、下弦の鬼たちの「パワハラ会議」が典型だが、そのディシプリンを叫ぶ者たちもまた、首魁の無惨も含め己がその地位より滑落する不安・恐怖に苛まれているのであり、それゆえにこそ「弱き者」や「お荷物」的存在を必死に蹴落としたがる部分もありそうだ、という点に注意を喚起したい)。

 

かかる状況に生きるがゆえに、我々は失われゆくものの大きさと大切さを思いながら、さりとて始めから存在しないものとして期待せずに切り捨てる(鬼になりきる)こともできないし、それを鬼殺隊的なエートスでもって取り戻すことができるとも考えられない・・・そんな鬼と鬼殺隊のマージナルな領域で不安に苛まれもがいている状況だからこそ、鬼滅の刃とそれが見せる世界は、強く我々の心を打つのではないだろうか(本作の人気投票において、1位は煉獄杏寿郎でも竈門炭治郎でもなく我妻善逸だったと聞くが、私はこの結果が今述べたような心持ちで見ていた人間が少なからずいる傍証だと考える。というのも善逸は、その「ヘタレ」にも聞こえる言動からして、覚悟を決められない・利他的になりきれない者たちの代弁者であるからだ。ちなみに、最初は自分のことばかり考えていた伊之助や善逸が、炭治郎の影響もあって利他的存在となっていき、最終局面で重要や役割を果たす様は、まさに鬼滅の刃のテーマ性を体現していると言っていい)。

 

このように見てくれば、鬼滅の刃が優れた作品であることは言うまでもないとしても、それがこれほどまでの反響を呼んだのは今日の状況が大きく関係しており、ゆえにこそ私は「そんな時代にこの作品が一つの社会現象を起こしたことは、後の世にエポックとして語り継がれることになるかもしれない」と述べたのである。

 

というわけで、今回は鬼滅の刃のテーマを再確認した上でそれがなぜ社会現象と言えるほどに人の心を掴んだのかについて述べたが、この作品には語り尽くせぬ部分がまだまだある。

 

たとえば、その独特な絵柄は、少なくともジャンプという王道の少年誌の中では「挑戦的」とさえ言っていい画風だが、それは「喪われつつあるものの描写」という意味でも、あるいは情念の発露の描写という意味でも、むしろ逆に適切であったと思われる(その絵柄の独特さが精神世界の表象として強いインパクトを与えた例は、つげ義春をはじめとして枚挙に暇がない)。

 

あるいはジャンプで掲載するために作家性を薄める目的で導入されたと私が考えていた「茶番」は、単に編集者によるチューニングの産物としてみなすのは誤りで、むしろ「休息→突然の最終決戦」でも見られるような緩急を意識したものだった可能性があると今では考えるようになっている(最初こそ助言や指導で茶番を入れていたのかもしれないが、後にそれを自家薬籠中のものとした、というあたりだろうか)。というのも、先に述べた利他の内発性というテーマからすると、登場人物たちの抜けている姿や微笑ましいやり取りがなければ、それは単に「超人的存在の描写による利他の規範化・強制というマウンティング」がごとき性質を結果として持ってしまいかねず、テーマや言葉がストレートに刺さるためにも、かえって日常描写は必要不可欠だったのではないだろうか。

 

・・・といった具合である。まあ鬼滅についてはまだようやく漫画を1周読み終えたばかりなので、最初からじっくり読み直して、そこからアニメ版→映画版というに理解を深めていきたいと思う次第である。


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