<過程不在のゲームは基本的にゴミカス(※)>
kanonと君望の対照性、最初は[自分が]リアリズムを求めているのかな?と思ったが違った。過程、つまり文脈や特殊具体性のないものに価値を見いださないということ(過程の重視、具体性、説明不足との兼ね合い、カラマーゾフ)。「全ての人間に生きる意味がある」と思ってなくてもいえる。何の意味がある?聞こえのいい抽象論に過ぎない(なぜ全てと言えるのか、意味って何 . . . 本文を読む
<無題>
虚構の人物に共感や「感情移入」をするのは対象への押し付けに他ならない。とはいえ、これをただ妄想と切り捨てるだけで終わるのは、ただ現実を認識させる「不粋な」発言に終わるのではいないかと思う。その姿勢が現実においてもつ危険性はすでに指摘したとおりだが、虚構そのものの形式についても考える必要があるのではないか?例えばごっこ遊び。演じるのはまだいいとしても、なりきるという側面がある。なぜごっこ遊 . . . 本文を読む
ひぐらしとは対照的に、うみねこはほとんど第三者視点が貫かれているが、この形式は二つの点で興味を引かれる(※)。今回は、その一つ、推理の側面について述べてみたい。
※
ひぐらしの視点に関しては、「ひぐらしのイベントCGがない意味・効果」などを参照(ネタバレ注意)。また、ep2の最後でバトラたちが食われるシーンは(食われんとする)バトラ視点であるように見える。
数々のオカルトが出てきたep2を終 . . . 本文を読む
(はじめに)
前回、感想を述べつつ魔女が執拗に不和を煽っていることに疑問を呈した。ここでは、まず「犯人は魔女である」という仮定に基き、推理の対象が魔女の手口そのものではなく、その魔手より逃れる手段であることについて述べる。ただし、この論は現段階で二つの大きな問題を抱えている。それも同時に提示するので、考察の材料になればと思う。
<推理の対象は?>
第二話においては、メタフィクションの形式で魔女 . . . 本文を読む
ではまず感想から。
○萌え要素(?)
前回は遊びが少なかったので、今回はさすがに入れたらしい(マリサsong)。まあ遊びがあろうと無かろうと、雰囲気に合ってれば別にいいけど。
○大人同士のやり取りは前回より少なめ
大人同士の虚虚実実のやり取りが個人的にはもっと見たかったかな。まあひぐらしと同じで子供(この場合「若者」と言うべきだが)の側を中心に描きたいのだろう。少ないながらも大人のやり取りは . . . 本文を読む
表題の通りである。かなり言葉は荒いがあえてそのままにしておく。
<共感とは尊重ではない>
ところで、自分の特殊具体性も相手の特殊具体性にも注意を払わないのは、その対象を尊重しているとは言えない。これはあたかも、路傍の石の違いに注意を払わないのと同じである。そんなところに[今日理想であるかのように言われる]個性なんて生まれるのかね?まるで羊水から出られない中毒患者たちだ。それを見て必死に自分は違 . . . 本文を読む