慶応4年、上野の山にこもった彰義隊は、官軍の大村益次郎指揮による砲弾攻撃で一日足らずで壊滅される。200体以上の死体が放置されたが、住職らの奔走で遺体を火葬。生き残った小川興郷(オキサト)は、明治14年(1881)そこに墓石を建立。
墓石には山岡鉄舟筆による「戦死之墓」とだけ掘られていた。賊軍となった彰義隊の名はない。その墓石の前に小さい墓石がある。「彰義隊戦死之墓」と刻まれたその小さな墓石は、明治2年(1869)、子院の住職が近くに埋納したものという。
その近くを歩いていたら、「博士王仁碑」という大きな石碑に出会う。「王仁」と言えば、5世紀に「論語」「千字文」を持って百済から日本に渡来した学者で、日本に漢字を伝えた。
立派なレリーフもあった。ただし、王仁博士の存在や史実については賛否両論があり不明なことが多いという。とはいえ、中国や朝鮮からの渡来人が日本に果たした役割が大きかったことは間違いない。
上野公園は、古代から幕末・近代へ、歴史が凝縮されている「るつぼ」だった。