ダビンチさんからの課題図書『西部邁最後の思索/日本人とは、そも何者ぞ』澤村修治・浜崎洋介・西部邁(飛鳥新社、2018.5)を読む。弟子でもある澤村・浜崎両氏のレポートをもとに師の西部ゼミナールが始まった。古代から現代までの通史を確認する中から、日本人像の現在を浮き彫りにしようというものだ。
「世界の文化が滔々と流入してきた日本はそれ故に文化的多様性に満ちた国であったが、国際標準の波に流され近視眼的な対応を繰り返す中で日本人はすっかりオノレの正体を見失った」と危惧する西部氏。古代から近代までは外来の理屈だけでは表せない日本的な心情にこだわってきた面もあったが、今はぺらぺらと平板になってしまった、と二ヒリズムに傾く西部氏。
日本在住の作家ロマノ・ビルピッタさんの言葉を西部氏は引用する。「平家の没落について、あれだけ美しい物語を書くことができた日本人が、なぜ今度の大東亜戦争の敗北について、美しい物語を書くことができないのか、しないのか」と。確かにここにこそ、近代後半に失ってしまった日本人の精神世界が示されている。
本書は、随伴者に見える澤村・浜崎両氏が主役で進行していったゼミ論でもあった。難解な論文を駆使する西部氏の生の声を収録しているところに師への愛情・尊敬が感じられる。それも、西部氏が「自裁」したのが2018年1月で、本書の出版が同年5月だから、すでに周りは西部氏の「自裁」は秒読みであることはわかっていたようだ。その意味で、本書は西部邁の最後の「遺言」でもあったのだった。
今日の状況の中での生き方は、西部氏は次の3点を遺している。①人間は不完全であるという人間観を知ること ②社会というものは一朝一夕にできたものではない。その複雑さ・不条理を知ること ③人間の不完全性と社会の複雑性ゆえに、変革は漸進的であるべきこと、変化に懐疑的であれということ。
西部氏が遺した「常識的な」遺言は、東大全学連の体を張った青年時代をくぐった体験と東大教授や「朝まで生テレビ」で培った思索との終着駅だった。保守主義の論客とは言いながら、左からも右からも孤立し、その結論が「自裁」であるのは日本の損失でもあった。しかしながら、多くの弟子を遺したのも彼の強力な遺産でもあった。
ダビンチさんの懐疑的な思索が西部氏にますます似ている気がしてきたが、論文ではなかったのでわかりやすかった。課題図書にしてくれたダビンチさんありがとう。