ロボジー
2012年/日本
‘老い’と演出の関連について
総合
60点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
矢口史靖監督の前作『ハッピーフライト』が素晴らしい作品だったこともあり、かなり期待して観に行ったのであるが、とても『ハッピーフライト』を撮った監督とは思えないような出来だった。
‘企業隠蔽’がコメディとして相応しくないとは言うつもりはないし、それまでの社内におけるバックボーンが描かれていないために、閑職に追いやられてクビ寸前だった小林弘樹、太田浩次、長井信也の3人の‘人生一発逆転劇’として楽しめないとか、ロボットになった後に欲張り過ぎるために、主人公の鈴木重光の‘コスチュームプレイ’による高齢者のアイデンティティーの復権の挑戦のようにも見えないなど、とにかく物語に深みがないことに関して文句を言うつもりはない。
問題はそのようなテーマを論じる以前にある。ロボットに入る人をオーデションする公民館の一室が最初に映し出された際には、壁に時計が付いていたのであるが、次からのカットでは壁時計が無くなっているという演出上のケアレスミスがある。いわゆる‘壁時計問題’である(詳細は『ダーリンは外国人』(宇恵和昭監督 2010年)のレビューで論じている)。鈴木重光は耳が遠いという設定であるにも関わらず、老人ホームで囁かれる自分の陰口をかなり離れた場所から聴こえてしまうなどとにかく演出がずいぶんと緩いものになってしまっている。これは『ハッピーフライト』では感じなかった違和感で、どうしてこれほどまでに演出が甘くなってしまったのか不思議でならないのである。本作のタイトル通りに監督自身が‘老いた’という言い訳は『J・エドガー』が間もなく公開されるクリント・イーストウッドの存在を考えると通用しないと思う。
反骨心で「もらって当然」=芥川賞の田中慎弥さん(時事通信) - goo ニュース
田中慎弥の芥川龍之介賞受賞時のコメントである、「私が(賞を)もらって当然だと思う。
ここは断るのが礼儀だが、私は礼儀を知らないのでもらっといてやる」は巧妙なレトリック
で反骨を装っていると思う。本当に反骨心があるならば、受賞を拒絶する“礼儀”こそが
より多くの関係者の期待を裏切るはずだからである。だから私はほとんど作品を読んだ
ことがないのであるが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と
言って、ノーベル文学賞を辞退したジャン=ポール・サルトルを高く評価するのであり、
20歳のころから小説を書き始めて以来、1日も欠かしていないという逸話は、正に田中は
小説家として生まれてきたと言っていいと思うが、1億円を蹴った作家の作品をほとんど
読まないのに、100万円を受け取る作家の作品を読むことは常識的にありえない。
小説家であるならば、シャーリー・マクレーンよりもサルトルの言葉を引用して欲しい。