MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ステルス・マーケティングの定義

2012-01-26 20:34:12 | Weblog

口コミ不信をあおる「ステマ」はどこまで拡がるのか(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

 ステルス・マーケティングの定義に関して、「何をもってそう呼ぶかは人によってさまざま

だが、比較的オーソドックスでわかりやすい解釈を引用すると、『消費者に宣伝と気づかれ

ないように宣伝行為をすること』(Wikipediaより)となる」らしいのであるが、そうなると

最近のバラエティ番組はずいぶん“ステルス・マーケティング”をしている事になってしまう。

例えば、テレビ朝日の「もしものシミュレーションバラエティー お試しかっ!」などはゲームを

装っていても明らかにレストランやコンビニなどの宣伝行為である。一度、一位に挙がった

スイーツを食べたことがあるが、もちろん決してまずくはないものの特別に美味しいとは

思わなかった。芸人の“オーバーリアクション”に騙されたと思ったが、これは“ステマ”


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『特集:ユスフ三部作オールナイト』 100点

2012-01-26 20:08:39 | goo映画レビュー

特集:ユスフ三部作オールナイト

-年/-

ネタバレ

セミフ・カプランオール監督『卵』『ミルク』『蜂蜜』

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 セミフ・カプランオール監督の『卵』(2007年)『ミルク』(2008年)『蜂蜜』(2010年)の、いわゆる「ユスフ3部作」を語ることは、主人公のユスフが大人になった頃を描いた『卵』から、青年期の『ミルク』、そして6歳頃のユスフの『蜂蜜』と人生をさかのぼって描かれていることなど、難しいのであるが、とりあえず気がついたことを記しておきたい。
 3部作共に冒頭のシーンが印象的で、物語の中核をなすもので、現れた登場人物が一旦カメラのフレームから外れた後に再び現れる。『卵』ではユスフの死んだ母親のゼーラが画面奥から現れて、天国なのか地獄なのかはっきりしない街を目指して歩いていく。『ミルク』は机に向かってなにやら書いている祈祷師の合図で2人の人物が近づいてきた後に、一緒に画面奥に向かう祈祷師は、一瞬机の上に置いてあるガラスビンに隠れるのであるが、まだ若いゼーラを木に吊るして、飲み込んでしまったヘビを吐き出させる。『蜂蜜』はユスフの父親であるヤクプが森の中に蜂蜜を取るために蜂の巣を探しにやって来て、高い木に登っていた途中で、ロープが切れて事故に遭遇するシーンから始まる。このように画面を出入する有り様は、『蜂蜜』において父親のヤクプの遺伝であることが分かるユスフの癲癇の発作による意識の喪失にも類似し、吃りながらもなんとかして口から言葉を紡ぎ出しながらやがて詩人になるユスフを暗示する。
 しかし「ユスフ3部作」のメインとなるものはユスフではなくて、『卵』の冒頭で、古本屋を営んでいるユスフが訪ねてきた女性客にワインのビンと引き換えに売った料理本なども鑑みると、タイトル通りに「食」そのものであろう。母親の遺言をいとこのアイラから聞かされたユスフは生け贄にする羊を探すことになり、襲われたのか、じゃれつかれたのか分からないがユスフは羊の群れの番犬と一夜をともにし、ラストはアイラが手渡す卵と一緒に朝食を取る。
 『ミルク』においてもユスフと母親は牛乳製造販売を営んでおり、2人の関係の亀裂は母親に新しい恋人が出来たというよりも、ユスフが捕獲して家に持ち帰ってきたナマズに対して母親が羽根をむしっている鳥という食の好みの違いが際立ったからであろう。ラストのユスフの友人のヘルメットに付いているヘッドランプのアップに意味があるとするならば、光のおかげで画面に物や人物が映るのではあるが、過多の露光は全てを真っ白く消してしまうという、「食する」ことと同様の儚さを暗示したものだと思う。
 既に書いたように『蜂蜜』の頃の吃音症のユスフは言葉を紡ぎだすことに必死なのであるが、産み出されたものを取るだけの卵や、搾ることで手に入るミルクと違い、蜂蜜を手に入れるためには少しだけ‘冒険’が必要であり、言葉と食と命の儚さが絶妙なモンタージュで織り成され、ようやく‘旅’を終えたユスフは森の奥で深い眠りにつくことになるのであろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする