原題:『Jojo Rabbit』
監督:タイカ・ワイティティ
脚本:タイカ・ワイティティ
撮影:ミハイ・マライメア・Jr.
出演:ローマン・グリフィン・デイヴィス/トーマシン・マッケンジー/スカーレット・ヨハンソン
2019年/アメリカ
「現実味」が薄くなる要因について
前半こそ主人公で10歳のヨハネス・"ジョジョ"・ベッツラーと彼の空想上の友人であるアドルフ・ヒトラーの掛け合いを興味深く観ていたのだが、ユダヤ人の少女のエルサ・コールの出現から少しずつ話がおかしくなっていっていると思う。
例えば、エルサが隠れているジョジョの家に突然、ゲシュタポのディエルツ大尉たちが訪れ、家宅捜査され、直後に現れたヒトラーユーゲントのジョジョの教官であるクレンツェンドルフ大尉の計らいでバレずに済んだのだが、ジョジョの母親であるロージーはエルサを匿った罪で絞首刑に処せられてしまう。
ドイツ軍が敗退し、ロシア軍が占拠を始めてもジョジョたちは教師のフロイライン・ラームに戦いを強いられ、一時はロシア軍に拘束されたジョジョは何故か再びクレンツェンドルフ大尉が機転を利かせてユダヤ人扱いされたためにすぐに追い出されて助かり、直後にクレンツェンドルフ大尉は銃殺されるのだが、ジョジョがドイツ人かユダヤ人かの判断がいい加減すぎると思う。
エルサは自分にはネイサンというフィアンセがいるとジョジョに言っていたのだが、これはエルサの嘘で、ジョジョはジョジョでエルサにドイツは戦争に勝利したという嘘をつくのであるが、何故すぐにバレる嘘をつくのか理解に苦しむ。
つまりジョジョが見る幻影であるヒトラーと同じくらいに現実に「現実味」が感じられないのである。そもそも冒頭はザ・ビートルズの「抱きしめたい」の、ラストはデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」のドイツ語ヴァージョンが流れるのだが、セリフがドイツ語ではなく英語なのに、何故曲だけはドイツ語ヴァージョンを使用しているのか。それが本作の「現実味」の薄さではないだろうか。