たまたま図書館で目にした蓮實重彦の『伯爵夫人』(新潮文庫版)を手に取って、今更ながら読んでみたのであるが、驚いたのは小説のほとんどを占めるポルノグラフィックな描写よりも、そのような描写が終わろうとしていた後の物語の展開の方である。
伯爵夫人がかかってきた電話に受け答えした後、迎えに来た二人の海軍士官と共に家を留守にすることになり、一人取り残されて居たたまれなくなった主人公の二朗は友人の濱尾の家に電話をかけて「助けてくれ」と口走ってしまう。
「助けてくれって、いったい貴様はどこにいるのだ。家ではないのか。」と言う濱尾に「それが、よくわからんのだ」と二朗は答えるのだが(p.193)、このシーンは多くの読者に村上春樹の『ノルウェイの森』の最後の場面を思い出させるはずである。最後のパラグラフを引用してみる。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕はどこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこもなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫版 p.292-p.293)
『伯爵夫人』と『ノルウェイの森』の類似はここだけではなく、そもそも全体的に占められるポルノグラフィカルな叙述や、第二次世界大戦前夜と学生運動の最中という荒れた時代背景に対して主人公が無関心な点も似ていると言えば似ているのである。
しかし『ノルウェイの森』の主人公のワタナベトオルの物語は上記の部分で終わるのであるが、二朗の場合はまだ続きがある。二朗と濱尾の会話に交換手の女性が割って入り、ホテルの榎戸がお世話をするというのである。その後、二朗は榎戸の代理として来た女性から伯爵夫人からという手紙と風呂敷を受け取って、その後に迎えに来た細身の外套を律儀に着こなした鋭角的な顔の男に案内されてホテルの戸外で待たされている人力車に乗せられ、途中で人力車が警官たちに止められても、二朗の顔を見るなり「顔パス」で通行が許され、無事に自宅に送り届けられるのである。もしもこれが蓮實重彦の「私小説」と見なすとするならば、東京大学の総長まで上り詰めた蓮實は、たとえ「迷子」になったとしても周囲が気を利かして本人が何も言わなくても無事に自宅まで帰れるという「良い御身分」なのである。
そのうち蓬子も手紙を残して婚約者と共に姿を消し、越中ふんどしを掲げて入ってきた小春もしばらく会話をした後に遠ざかっていき、最後は夕刊の「帝国・米英に宣戦を布告す」という文字を目にするものの、二朗は相変わらずココア缶の図柄のコルネット姿の尼僧の背後に「蝶々夫人」を透かして見つめているのである。戦争が起きようがどうしようが二朗が女に淫するように蓮實が映画に淫していたとするならば、蓮實重彦が村上に対して「村上春樹の小説は、結婚詐欺の小説である」と評したことに倣って「蓮實重彦の小説は、ロマンス詐欺の小説である」と言ってみたい強い誘惑に駆られてしまうのであるが、80歳で別に発表する必要のなかった小説を敢えて公表する鋼のメンタル(つまりインテリヤクザ)はやはり評価するべきなのだろう。