旧加茂川は外堀の役目も兼ねていた。この川に架かる「京橋」を境に東側を「加茂川」、西側を「米子湊」と言った。「京橋」の南詰が「内町うちまち」である。堀の内側にある町という意味で、本来武士の居住地であるが、彼らの用達を勤める商人が住みつくことを許可された。
数ある商人の中でも「後藤家」は海運業を営み莫大な財を蓄えた。鳥取藩の米や鉄の回漕権利を与えられた回船問屋で徳川幕府瓦解後も質商や煙草栽培などで成功した。その屋敷が「内町」に残っていて現在は国指定重要文化財になっている。
堀の外の「灘町」から「内町」に入るには「京橋」を渡って「大木戸」を通過しなければならなかった。そこには監視役の「木戸番」が置かれていた。私はこの逆のルートを通りかつての町人地である「灘町」に入った。

