寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

米子市立町3丁目の銭湯「日の出湯」

2008年11月21日 | 

遊里関連の文献には、大正元(1912)年に置屋や貸席の経営者が「鴨御宮神社かもみおやじんじゃ」の西側一帯(町名が変更される以前の灘町2丁目)に移転して「新地」を作ったと書いてある。

立町の「鴨御宮神社」のことを地元の人達は、ただすさんと親しみを込めて呼ぶ。「糺神社」という名称の方が一般的であろう。

私は坂を上り高い場所にある「糺神社」を見上げた。それから引き返して「日の出湯」という目出度い名のついた銭湯を見落としていたことに気づいた。扇子の模型がなかなか洒落ている。元「花街」はすぐ近くにあると思った。

もと花街大通りにある「貸し布団店」

銭湯の前の道を西に進み二股に分かれる所を右に曲がった。大きな「貸し布団店」が見えて太い通りに出た。「ここで間違いない」と私は呟いた。

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米子市灘町はかつての繁華街である

2008年11月21日 | 

江戸時代、灘町には船乗りが泊まる「船宿」があった。経営者側が更に儲けようと欲を出したのは当然だ。鳥取藩は安政5(1858)年、船宿に飯盛り女を置きたいという彼らの申し出を認めた(『御国日記』)

灘町が繁栄を極めるのは明治になってからである。山陰本線の「米子駅」が明治35(1902)年に開設されるまでは米子の中心地だった。

灘町の銭湯「弁天湯」

「吉祥院」の近くに「弁天湯」という銭湯があった。ここから西へ向かって十字路に出ると古い家屋が建ち並んでいた。ある家の壁に打ち付けられたプレートには灘町二丁目と書いてある。

灘町2丁目界隈

錆び付いた古いプレート

しばらく周辺をぶらついてレトロな床屋「男前會舘」を発見した。廃業して随分月日が経っているようで人の気配はまったくしなかった。灘町にはやけに床屋が多いのが分かった。

廃業した床屋

「条件は満たしているが、どうやらこの辺りではないようだ」と見切りをつけ、もと来た道に出て北上したのである。

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