前述の「続々がんす横丁」の「舟入町」の項には昭和初期の西遊廓に変化が生じたことが記されている。
西遊廓の貸座敷にダンス・ホールができたのは昭和四、五年か、あるいは七、八年ごろのことである。…昭和十七、八年頃にはだんだんなくなっていった。当局からのお達しで、これらのホールは昔の日本座敷に復元された。
また、「サービス」という言葉が人の口にのぼって流行したのも昭和七、八年ごろで、ダンス・ホールの流行したころと同時であった。貸座敷の楼主たちが、「スリッパを揃えて、寿座の松つぁん(当時人気のあった下足番)じゃないが、お客のサービスというものをせにゃならん」といったもので、楼主自身が踊りにきた客に香水をふりかけたり、ホールの気分をわきたたせるためにテープを投げたりしたものであった。
そして「おしぼり」というものを客にだしたのも、このごろが始まりである。社交ダンスというものを始めてやる客の相手は、それぞれ貸座敷の女将がつとめた。
遊廓経営者が莫大な財を費やして貸座敷を改築した動きには新しい物好きの国民性があらわれていて苦笑を禁じえないが、ライバルの同業者に遅れをとらず設備投資をしてお客の関心を引き利益を生み出そうという楼主の思惑がみてとれる。
遊女が稼ぐ花代によって妓楼は益々栄え、周辺の料理屋(台の物を運ぶ)や地回りの用心棒らも恩恵を受けて懐が暖かかったはずだ。そして一番ニンマリしていたのは広島市の税務署である。
今の常識で「遊里」=「悪所」と言い切るのはたやすい。しかし、気の毒な身の上の遊女がいたから経済が発展した一面があることを見落としてはならない。
話をもとに戻そう。2階の窓ガラスに精巧な花びらの細工が施された歴史的建造物(料理屋と酒場が計4軒入って営業)が舟入町に存在する。この建物の先の辻より北側が旧小網町エリア(平和大通りによって分断された南端部)で、更に北進すると「大通りの緑地帯」にぶち当たる。この右手が劇場「寿座(※)」跡になる。また辻を右に折れて電車通りを横断したところに「小網町交番」があった。
戦前の西遊廓は後発の東遊廓よりも格上だったが、敗戦後その地位は逆転して衰微を続け「赤線最後の日」を迎える。歓楽街の中枢は急速に西から東へ(広島駅寄り)と移ったのである。私の学生時代、東遊廓の流れを汲む弥生町のマンションでは秘め事が公然と行われていたが、舟入町や小網町で同様の話は全く耳にしなかった。
※小網町の寿座
明治三十二年には劇場規則に照らして改築され、名を寿座と改めた。寿座は総坪数七百二十坪(二千三百八十平方メートル)、間口三十三メートル、奥行七十三メートル余、そして定員は千五百三十八人であった。内外ともに木造ではあったが、広いりっぱな舞台をもっていた。戦争中は映画館に転向していた
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