寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島市中区東千田町にあったお好み焼き屋・松浦商店

2009年09月25日 | 学生時代
広島の顔であった「東千田町の大学」が東広島市に移転して学生を相手に商売をしていた店の経営は苦しくなった。時は流れて飲食店や銭湯の多くが姿を消した。

懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。

店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。

昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。

とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。

「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。

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建物疎開作業に従事した広島市立第一高等女学校の生徒

2009年09月25日 | 

敗戦色が濃厚になった頃、我が国では「建物疎開」が行われた。「建物疎開」とはアメリカ軍による空襲被害を最小限にとどめるために住居などを撤去して「防火帯」を作ることであった。地権者がお上のすることに異を唱えた場合、どうなるかは容易に想像がつく。この作業には主に学生が動員された。

昭和20(1945)年8月6日、天神町辺りで「広島市立第一高等女学校」の生徒が「建物疎開」作業に従事していた。爆心地から500m以内のため、生徒と引率の教師が全員(約550人)死亡した(大半が即死)。

「平和大橋」西詰の南側に「広島市高等女学校原爆慰霊碑」が建つ。もともとは母校(現・広島舟入高等学校)の敷地にあったものを昭和32年に現在地に移設したそうだ。「平和記念公園」内の「主語がわからない石碑」の前にはあえて近づかない私だが、ここは別だ。広島を訪れた際には時々立ち寄り、全ての原爆犠牲者の冥福を祈る。

原爆投下前の中島地区には寺社仏閣が多かった。慰霊碑から少し西南に行ったところに「持明院(東区戸坂千足に移転)」と「福壽院(廃寺)」があった。その跡地は「ニッセイ平和記念ビル」になっている。

江戸時代の古地図を見ると「持明院」「福寿院」両寺の南に「光明寺」が隣接しているが、ここがかつての「刑場」であった。「平和会館」の建っている辺りが「光明寺跡」であると推定する。

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