広島の顔であった「東千田町の大学」が東広島市に移転して学生を相手に商売をしていた店の経営は苦しくなった。時は流れて飲食店や銭湯の多くが姿を消した。
懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。
店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。
昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。
とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。
「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。
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懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。
店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。
昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。
とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。
「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。
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