大きなカーブを右に回り「川辺宿」に入る。道筋は当時とほぼ同じである。古い家が幾つか残っている。「旧山陽道」を西南に進み「川辺本陣跡」に着いた。跡地は「植村歯科」になっている。私は説明板の文面に目を通した。

川辺本陣は代々難波氏であるが生業は醤油屋であったと言われる。
川辺本陣は植村歯科医院の付近にあったが、明治26年大洪水で流失し資料も残っていない。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣間取図によると国指定重要文化財の矢掛本陣によく似ている。参勤交代の諸大名の川辺本陣の宿泊率はほぼ同じ40%強で、2ヶ月に1回の割合であったが、高梁川に橋はなく、舟や徒による渡しのため、氾濫があるとしばしば逗留を余儀なくされたことから、川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたのではないだろうか。
‐ 川辺まちづくり推進協議会 ‐
本陣から数十m先に「脇本陣」があったようだ。明治の大水害でかつての町並みが失われたことはまことに残念である。

