旧川辺橋西詰を左折するとすぐに道路が分岐する。右側の道が「旧山陽道」だ。下り坂の途中(左手)に「川辺宿一里塚」跡を示す標識が建っていた。もともと一里塚は対岸(高梁川右岸)に設置されたと説明板には書かれていた。

川辺一里塚は、江戸日本橋より180里(約707km)である。川辺一里塚は、川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、明治40年から始めた高梁川大改修が完成した大正14年に現在地に移転した。一里塚の北側には松が植えられていたが松は大改修で伐採された。
倉敷市真備町川辺(旧川辺宿)は高梁川及び小田川の土砂が堆積してできた集落で、増水時の「暴れ川」は住民を恐怖に陥れた。今では強固な堤防が築かれて河川敷では市民が野球を楽しんでいるが、江戸時代の堤は相当貧弱であったと思われる。川辺を治めた伊東氏は度重なる水害に頭を悩ませ、ついに「陣屋」を岡田(現・真備町岡田)に移転している。
