寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

続神辺風土記 菅波堅次遺稿集(1999年12月1日発行)

2014年07月07日 | 書籍
著者の菅波堅次氏は大正七年一月生まれ、旧制広島二中・旧制高知高校(現高知大学)を経て京都帝大法学部卒、昭和五十八年九月永眠。当時としては最高の教育を受けた人物で神辺宿に関する知見には脱帽する。彼のおかげで私は神辺宿の構造及び特徴について深くまで学ぶことができた。本書は高屋川の増水時の対策について詳しい記述があり郷土史に興味がある福山市民に読んでもらいたいと思い紹介することにした。

 古市地区の高屋川には二箇所の「水越(みずこし)」がある。
 その一つは、橋本橋の上手(かみて)のものであるが、その左岸つまり平野川には樋(ひ)門があり、それは高屋川が増水したとき平野に流れ込まないようにするためであった。この辺りの川岸は低くしてあった。そして、前記名越方面から雨水が増水してくると、この部分を越えて高屋川に流れ込み、高屋川上流からの流れと共に、対岸に低く設けてある石畳の水越部分を越えて、下湯野の方面に遊水となって流れ出る仕組みになっていた。遊水は、対岸の裏を流れ下り、深水川に流れ入ることになっていた。
 しかし、このように都合よくいくとは限らない。膨大な流水に、水越は機能し切れず、高屋川に出られない水が多量に低位置の古市を直撃してくる。古市側は、名越境のあぜ道の上に土俵を積んで、増水を水越に出そうとする。これに反対する名越川の住民との間で、裁判沙汰も起きている。土俵の高さで決着がつき、一尺余りの高さを示す石柱が最近まで二、三個所残っていた。
 もう一個所の水越は、町水道課跡地裏の高屋川岸にあり、平野地区で最も標高の低いところであった。平野全域から集まる水で、都合よく、この水越を越えて高屋川に流れ出ればよいが、増水により高屋川の水位が高くなれば、川水は反対にこの水越を越えて古市に侵入し、名越方面からの水と渦を巻いて合流したという。

古市の板樋

 古市住民にとって、やりきれない事情がもう一つあった。神辺との境にある道路上の板樋(いたひ)である。
 古市地区が増水してくると、神辺側はこの石堤に板を二筋入れ、その間に土俵を積み込み、古市側から神辺への侵入を防御するわけである。「道路は水を通す溝ではない」「チョンマゲ時代からの習慣である」の言い分に、古市側は泥水の中で涙をのんだという。
 江戸時代に島津藩が本陣(東本陣)に止宿した際、水害があり、大量浸水によって、大きな被害を出した。これをきっかけにして、神辺宿域を現在の地点まで拡張、堰(せき)を設置、その代償として高屋川対岸の畑を古市に分譲したとも伝えられている。古市の胡(えびす)が現在の境界から九十メートル西の神辺側に鎮座しているのも、その辺の事情によるのかと思われる。

 水越とは、川の堤防のうち、その部分だけ低くつくられており、大量の降水等があって、川の水位が高まると、自然に川水がこの個所から横の田んぼに流れ込む。そのような役割を担う堤防の低い部分をいう。俗に「胴切れ」とも言われている。一方、川の水が減水すると、それにつれて田んぼに引き入れられた水も徐々に川に流出する。急激な流れによって下流地域が損害を被ることを防ぐことを狙いとしたもので、これによっていわゆるダムの作用が行われることになる。
 高屋川も改修前は、旧神辺を巡る内側の堤防が外側よりわずかに高く、そのため、土手を越す水は常に徳田、新茶屋方面にあふれ出ていた、と伝えられる。河川の管理にも力の原理が作用していたと言えるであろう。

昭和54年(1979)に高屋川沿いに古市排水機場が完成して藩政時代から続いた水争いが漸く終結したのであった。このような悲話は福山市内にいくつもある。私が育った場所も低地で大型台風が来るたびに冠水(昭和50年代前半までの話)して犬の○ソがプカプカ流れてきて閉口したことを覚えている。

高屋川沿いの風景

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする