熊野十二社大権現本堂から梵鐘(岡山県重要文化財)の方へ移動して「県指定史跡 新熊野山由緒概要」に目を通した。
約一二七〇年余年前文武天皇三年役小角伊豆大島に流されるや其高弟神人等三〇〇余人難の及ぶを恐れ熊野本宮の神輿を船に奉じ霊地を求めること約三年に及び遂に福岡神のお告げにより柘榴浜(下之町)より上陸し熊野道をへて此地に鎮座す.実に八葉の峯開く無双の霊地なればなり.其上陸地に宗願寺を建て熊野道に地蔵堂を建て(後石仏を作る.県重文)行路安全の守護神とす.天平二〇年聖武天皇児島を神領に寄進んあり紀州熊野三山に模して天平宝字年中社堂建立し当社を本宮とし木見に諸興寺を建て新宮山村に由加寺を建て那智宮と称し付近に寺院僧坊六〇ヶ院を建て近郊に王子社を建て参拝途次の奉幣所とし隆盛を極めた.…


梵鐘前に建つ長床の碑には「…長床(桁行一三間梁間三間)は、十二社権現として山伏の所業の場であり、又熊野神社の配電して使用していました。平成十五年九月二十一日炎上。所有者五流尊瀧院の寛大なご理解により、神社氏子をはじめ崇敬者のご協力で平成十九年十月再建されました。」と刻まれているように貴重な文化財を天災、失火や放火から守ることは容易なことではない。

もしも応仁の乱が起こらず当時の建造物が現代まで残っていたとしたら観光地として相当に栄えていたことであろう(熊野神社第二殿は明和元年の再建で国の重要文化財)。そういう意味で福山市の明王院・本堂と五重塔の存在は奇跡と言える。私は熊野神社に参拝した後八尾羅宮の前を通り西へ向かうことにした。

約一二七〇年余年前文武天皇三年役小角伊豆大島に流されるや其高弟神人等三〇〇余人難の及ぶを恐れ熊野本宮の神輿を船に奉じ霊地を求めること約三年に及び遂に福岡神のお告げにより柘榴浜(下之町)より上陸し熊野道をへて此地に鎮座す.実に八葉の峯開く無双の霊地なればなり.其上陸地に宗願寺を建て熊野道に地蔵堂を建て(後石仏を作る.県重文)行路安全の守護神とす.天平二〇年聖武天皇児島を神領に寄進んあり紀州熊野三山に模して天平宝字年中社堂建立し当社を本宮とし木見に諸興寺を建て新宮山村に由加寺を建て那智宮と称し付近に寺院僧坊六〇ヶ院を建て近郊に王子社を建て参拝途次の奉幣所とし隆盛を極めた.…


梵鐘前に建つ長床の碑には「…長床(桁行一三間梁間三間)は、十二社権現として山伏の所業の場であり、又熊野神社の配電して使用していました。平成十五年九月二十一日炎上。所有者五流尊瀧院の寛大なご理解により、神社氏子をはじめ崇敬者のご協力で平成十九年十月再建されました。」と刻まれているように貴重な文化財を天災、失火や放火から守ることは容易なことではない。

もしも応仁の乱が起こらず当時の建造物が現代まで残っていたとしたら観光地として相当に栄えていたことであろう(熊野神社第二殿は明和元年の再建で国の重要文化財)。そういう意味で福山市の明王院・本堂と五重塔の存在は奇跡と言える。私は熊野神社に参拝した後八尾羅宮の前を通り西へ向かうことにした。

