大きいことを言っては失敗を繰り返す恥知らずに共通して言えることは育ちの悪さだろう。小金や危うい地位を掴んですぐにアゴを上げる点、同じ系統の人間とだけ付き合い自分よりも優秀な人間を敵視する点、異を唱える人間にはしつような嫌がらせを繰り返す点など、を見ると性根が捻じ曲がっていると思わざるを得ない。
今の大卒俄か政治家は先に述べた欠点を克服するどころか、欲望のままに行動する畜生に成り下がっている。増え過ぎた害獣の駆除は我々(真の日本国民)が行わなければならない。民主国家における言論の自由を脅かす連中(4流アジテーター・茶坊主など)がお仕置きを回避しようと最後の悪あがきを試みているのは笑えるが、大罪にはそれ相応の罰が与えられる。
今の大卒俄か政治家は先に述べた欠点を克服するどころか、欲望のままに行動する畜生に成り下がっている。増え過ぎた害獣の駆除は我々(真の日本国民)が行わなければならない。民主国家における言論の自由を脅かす連中(4流アジテーター・茶坊主など)がお仕置きを回避しようと最後の悪あがきを試みているのは笑えるが、大罪にはそれ相応の罰が与えられる。

瓢泉堂から一本北の辻(信号機付、山本薬品が目印)を左折し西へ歩いてゆく。道は緩やかに下りとなって東海道本線の下をくぐる。


緑色の歩行者専用道の先に木々に囲まれたスペースがある。細い道に入ると若宮八幡宮の鳥居が現れる。ご神木の近くには矢倉村の歴史を説明する石碑が設置されていた。私はここが古墳跡であることを初めて知った。

矢倉村と若宮八幡宮
矢倉は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短捷路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。
享保六年(一七九二)の矢倉村明細帳によれば、当時家数一四四、人数七四九と数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方三〇〇メートル余り離れた当若宮八幡宮周辺に戸数三十戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長十九年(一六一四)、膳所藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。
全国的に著名な草津名物の姥ヶ餅屋も、当時は矢橋道との交点で店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。
一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る若宮八幡宮が残るのみで旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む若宮八幡宮は、応神天皇が東国順按の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵したことにより、兵庫村(後に、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神祭祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇古屋敷においては、昭和五十三年、五十四年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡・井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認されたほか、若宮八幡宮が鎮座する基壇も一辺二十五メートルを測り、横穴石室を有する古墳で、かつて円筒埴輪が出土したと伝えられる。さらに、近年の草津川新川用地内における発掘調査に伴い、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代におよぶ大規模な集落跡の実態も判明、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが解明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、若宮八幡宮の祭事を取りおこない、矢倉の伝統を守りつづけている。



緑色の歩行者専用道の先に木々に囲まれたスペースがある。細い道に入ると若宮八幡宮の鳥居が現れる。ご神木の近くには矢倉村の歴史を説明する石碑が設置されていた。私はここが古墳跡であることを初めて知った。

矢倉村と若宮八幡宮
矢倉は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短捷路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。
享保六年(一七九二)の矢倉村明細帳によれば、当時家数一四四、人数七四九と数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方三〇〇メートル余り離れた当若宮八幡宮周辺に戸数三十戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長十九年(一六一四)、膳所藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。
全国的に著名な草津名物の姥ヶ餅屋も、当時は矢橋道との交点で店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。
一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る若宮八幡宮が残るのみで旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む若宮八幡宮は、応神天皇が東国順按の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵したことにより、兵庫村(後に、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神祭祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇古屋敷においては、昭和五十三年、五十四年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡・井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認されたほか、若宮八幡宮が鎮座する基壇も一辺二十五メートルを測り、横穴石室を有する古墳で、かつて円筒埴輪が出土したと伝えられる。さらに、近年の草津川新川用地内における発掘調査に伴い、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代におよぶ大規模な集落跡の実態も判明、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが解明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、若宮八幡宮の祭事を取りおこない、矢倉の伝統を守りつづけている。


店の中には誰も居なかったので入口近くのインターホンを押す。すぐに女性の声が聞こえた。
「どういったご用件でしょうか」
「お店の前に建っている古い道標について少しお話を伺いたいと思いまして…南草津駅から歩いて来た旅の者です」
店の人が出て来るまで大きな立派なひょうたんを観賞させてもらった。昔は水筒代わりなどにしたらしいが、我が家にあるミニサイズは七味唐辛子入れになっている。
女将さんと挨拶を交わし矢橋(やばせ)道が現在では東海道本線で途切れてしまっているため若干遠回りする必要があると教えてもらった。私は丁重にお礼を言って観光マップを貰った。

矢倉道標は東海道と矢橋道の分岐点(追分)に設置されている。うばがもちや(今は草津市大路2丁目で営業を続ける)の軒下に道標が建て替えられたのは寛政10年(1798)で、東洲斎写楽が浮世絵の世界から姿を消した数年後にあたる。
矢倉道標(草津指定文化財)
「右や者せ道 古連より廿五丁 大津へ船わ多し」
広重の浮世絵で早駕籠が走る方向(東海道を南下)から右に曲がって(西へ)二十五丁行くと大津への船の渡し場があるという意味になろう。一丁を単純に100メートルとすれば湊までは2.5キロちょっとの距離である。ここから長い歩き旅が始まった。

「どういったご用件でしょうか」
「お店の前に建っている古い道標について少しお話を伺いたいと思いまして…南草津駅から歩いて来た旅の者です」
店の人が出て来るまで大きな立派なひょうたんを観賞させてもらった。昔は水筒代わりなどにしたらしいが、我が家にあるミニサイズは七味唐辛子入れになっている。
女将さんと挨拶を交わし矢橋(やばせ)道が現在では東海道本線で途切れてしまっているため若干遠回りする必要があると教えてもらった。私は丁重にお礼を言って観光マップを貰った。

矢倉道標は東海道と矢橋道の分岐点(追分)に設置されている。うばがもちや(今は草津市大路2丁目で営業を続ける)の軒下に道標が建て替えられたのは寛政10年(1798)で、東洲斎写楽が浮世絵の世界から姿を消した数年後にあたる。
矢倉道標(草津指定文化財)
「右や者せ道 古連より廿五丁 大津へ船わ多し」
広重の浮世絵で早駕籠が走る方向(東海道を南下)から右に曲がって(西へ)二十五丁行くと大津への船の渡し場があるという意味になろう。一丁を単純に100メートルとすれば湊までは2.5キロちょっとの距離である。ここから長い歩き旅が始まった。

