青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

奥美濃慕情

2019年07月24日 17時00分00秒 | 長良川鉄道

(油染みた跨線橋@郡上八幡駅)

小一時間の郡上八幡の街歩きを終えて、再び「まめバス」で駅に戻って来ました。子供に郡上八幡の街なんて渋過ぎて別に面白くもないかなと思ったんだけど、鯉が泳ぐのが見られたから楽しかったと言っていた(笑)。そんなもんか。もう時間は夕方の5時近くになっているんだけど、郡上八幡ってのはまだまだ長良川鉄道では中間地点くらいの位置でしかない。旅はさらに北へ北へ、数多の旅人の靴の油の染みたような跨線橋を渡り、北濃方面へ向かいましょう。

雨は少々本降りになって来た。本当に今年の梅雨はいつ開けるともしれない徹底的な梅雨である。しのつく雨を突いて、郡上八幡16:52発の13レ。長良川鉄道の伝統色とも言えるブルーとオレンジのラインカラーで、ナガラ503がやって来ました。

郡上八幡からさらに鉄路は長良川に沿い、瀬に泡立ち淵に澱む清き流れを見ながら北上して行きます。靄が掛かったような山里の夕方は早くも薄暗さを帯びるようになって来てはいるのだけど、それでも鮎釣り師たちは釣る事を止めず、激しい流れの中でひたすらに竿を振るっている。趣味の世界に時間を問う事は野暮なのかもしれないけど、時刻は夕まづめ、魚の活性も良い時間帯なのかもしれない。鮎は川底の石に生えたコケを食みながら暮らす魚で、縄張り争いの習性を狙って、針の付いた鮎でケンカを仕掛ける「おとり鮎」の釣り方が有名。

川沿いに「おとり鮎」「オーナーばり」などと釣り関係の看板を見ながら、郡上大和の駅で上り列車と交換。さっき郡上八幡まで乗って来た「ながら・かわかぜ」が戻ってきました。9レ美濃白鳥行き→503レ北濃行き→18レ美濃太田行きと運用されているようです。郡上大和は旧大和町の中心駅、降りる事は出来ませんでしたが、焦げ茶の板塀に小ぢんまりとした駅舎がなかなか雰囲気良さそうな。苔生したホームも味があります。

長良川鉄道・北の主管駅である美濃白鳥。今日はこの美濃白鳥で泊まる事になっています。すっかり雨に濡れて滲む列車の窓。美濃白鳥で僅かながら乗っていた乗客が下車して、ここから北濃方面に向かうのは我々親子と同じように乗り鉄を楽しんでいる男性1名のみとなりました。美濃太田から美濃白鳥までは自動閉塞ですが、白鳥から北濃までは1列車しか入れないスタフ閉塞の区間になっていて、駅員から運転士にスタフが渡されます。ここからはこれが通行手形。

美濃白鳥から先、少し川幅の狭まった長良川を渡って川の右岸に出ると、そのまま国道156号に沿って小さな集落に止まって行きます。美濃白鳥の次の駅は白鳥高原なんてリゾート地っぽい景気の良さげな駅名ですが、なんのこたーない集落の無人駅だったり。車窓に山は迫り、駅の裏に白山信仰の霊験あらたかな白山神社がある白山長滝の駅を出ると、運転台の横の料金メーターがピピっと動いて、美濃太田から37番目の駅・北濃。美濃太田からの料金1,690円。往復で3,380円か。「乗り鉄☆たびきっぷ」が額面で8,480円だった事を考えると、何だかものすごく得をしているように思えてしまった(笑)。

17:34定刻に北濃着。駅に建つ長良川鉄道終点の看板。はるばる美濃太田から72.2kmの道のりをお疲れさまでした。何となく、東北自動車道の青森ICにある最後のねぎらい看板を思い出してしまうな(笑)。本来の越美線計画では、まだここ北濃から北に線路は伸びて、長良川支流の前谷川の沢筋から桧峠をトンネルで越え、石徹白(いとしろ)の集落から福井県の大野市側に下って行く計画だったようだ。ここ北濃の地に鉄路が通じたのは昭和9年の話。北陸本線とは別ルートで東海地区と北陸地区を結ぼうという機運は早くからあって、既に昭和の初めの段階でこんな奥美濃の片田舎まで鉄道が来ていた事になる。

その後の越美線延伸計画は、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い頓挫。戦後も計画自体は途切れずにあったようなのだが、今度は国鉄の財政難の中で建設が遅々として進まず・・・福井県側からは、越美北線が鉄建公団の建設で何とか昭和45年に九頭竜湖までを開通させたのですが、そこから先は昭和55年の国鉄再建法に引っかかり、計画が凍結されてしまいました。そして越美南線自体も、昭和59年には地方交通線の第二次廃止対象となり、国鉄の分割民営化を機に第3セクターの長良川鉄道となりました。

一向に繋がらない鉄路への罪滅ぼしとして、越前大野と美濃白鳥の間を国鉄バスが結んでいた時期もありましたが、既にバス便も廃止されて久しく。
北濃の駅は、夢の潰えた鉄路が、物憂げに草叢に消えて行くだけの終着駅となっています。 

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水と踊りと鮎の街

2019年07月23日 17時00分00秒 | 長良川鉄道

(ライバル?登場@郡上八幡駅前)

郡上八幡駅前に発着する岐阜バス名鉄岐阜行き。東海北陸道経由で名鉄岐阜~郡上八幡~郡上白鳥間を結ぶ(1日11往復・高速八幡線)。所要時間は名鉄岐阜~郡上八幡が1時間20分、料金は1,520円。ちなみに長良川鉄道だと美濃太田~郡上八幡が1時間20分、運賃が1,350円。美濃太田から岐阜へは高山本線で約30分くらいかかるから、県庁所在地への都市間輸送という観点ではちょっと太刀打ちの出来ないライバルである。ちなみに名古屋からも名鉄BC~郡上八幡間で岐阜バスが1日2往復の高速バスを走らせております。

市内を循環する「まめバス」に揺られて、我々親子はとりあえず郡上八幡の中心街にある「城下町プラザ」ってトコまで行ってみました。ここは、文字通り郡上八幡城の下にある観光情報施設。郡上八幡のお城はこっから徒歩で20分くらいの山の上にあるのだが、何だか雨模様なのと登り坂が面倒だなあという事で遠くから眺めるにとどまる(笑)。そこまで時間がなかったというのもあるが。

古い街並みが残り、趣のある郡上八幡の風景。ありきたりな表現をしてしまうと「奥美濃の小京都」と言うべき街並みでして、それこそ角館とか萩・津和野みたいなねえ。全国に「小京都」と呼ばれるところはあるけど、その中での郡上八幡の立ち位置ってどのあたりなのだろうか。大河に沿って山城のある小京都というカテゴリで言えば、岡山の備中高梁市辺りと似通っているかもしれない。街の中心部らしい名前の大手町・本町辺りは、いちいち路地に面した店屋の軒先がフォトジェニックで、湿り気を帯びた夏前の空気に風鈴がチリリンと音を立てました。

 郡上八幡と言えば、私のイメージは「清らかな水の流れる街」。街のいたるところに水にまつわる風景があります。民家の軒下から湧き出る水が祀られていて、「宗祇水」と呼ばれています。郡上八幡市街に多く見られる湧水を使った生活の場。上から仕切りを付けて段々に流す水で、古くから近隣住民は上手の仕切りから飲み水、炊事、洗い物、洗濯などと用途によって使い分けていたと言います。

宗祇水の余り水が流れ込む小駄良(こだら)川。渓流釣り師には、上流にアマゴの住む川として有名だそうです。川べりに立ち並ぶ郡上八幡の街並み、家屋の裏手には河原に降りられる階段が設置されていて、生活用水としての川が日常的に利用されていた文化の名残りを感じさせてくれますね。ちょいと窓から竿を出せば、魚が釣れそう。

釣り・・・と言えば、この時期の長良川水系は鮎釣りのメッカ。八幡の街の真ん中を流れる吉田川にかかる宮ケ瀬橋。橋の上から眺めると、何人もの太公望が清流の女王・鮎を狙って無心に竿を振っている。周辺の宿に長逗留して鮎を狙い続ける熱心な釣り人も少なくないとかで、鮎釣りは郡上市を中心とした長良川流域の観光の呼び物の一つでもあります。 

一つ路地裏に入れば、頭が軒先をかすめるような狭い小径の脇に清冽な水を湛えた水路が流れ、その中では鯉やアマゴが気持ちよさそうに泳いでいる。水場の脇に置かれた鯉のエサやり場で、子供に100円やって鯉のエサを買わせたら、エサを撒く前にワラワラと鯉が集まり始めた。透き通り見るだけで涼しげな水の中でエサを求めてひしめき合う鯉の姿、生きながらにして既に鯉の洗いになっても良さそうなくらいに丸々と太っている。観光客からたんまりとエサを貰っているのだろう。

美観地区的に整備されている街並みの中に、この本屋のように本当のレトロな感じの建物が混じっている。こういう見てくれが自分の子供の頃の街の本屋さんだよなあ。ちょっと日焼けした2週間前くらいの週刊誌がそのまま外のラックに残っているようなゆるーい商品管理の本屋が昔はよくあった。中に入ると立ち読みを警戒する初老の店主にジロリと睨まれたり・・・もちろんこの「小沢書店」さんがそういう店な訳ではないのだけど、イメージとしてそういう感じはある。入口の右側にあるクルクル回すタイプの子供向けの本棚とかひっさしぶりに見たわ(笑)。

この日の夜から夏の風物詩である「郡上おどり」が始まる郡上八幡の街。後の記事では、夜は雨に祟られて残念なオープニングだったそうなんだけど、街場の酒屋さんでは、そんな踊りに参加する地元衆が既に一杯ひっかけていい感じになっていた。これから8月のお盆の「徹夜おどり」をピークに、9月の上旬まで郡上八幡の街は踊りの夜が続くそうだ。

盆にゃナーおいでよ 愛(う)い孫連れて 郡上踊りも 見るように (郡上踊り:歌詞より)

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小洒落た街の玄関口

2019年07月22日 17時00分00秒 | 長良川鉄道

(観光列車「ながら2号」と@郡上八幡駅)

美濃市から長良川を眺めつつ50分、列車は郡上踊りと清らかな水の街・郡上八幡の駅に到着。長良川鉄道の旅はここで2回目の途中下車。ちょうどここで上りの「観光列車ながら号」と交換します。ロングシートのナガラ502「ながら・かわかぜ」に対し、クロスシートのナガラ301「ながら・もり」+ナガラ302「ながら・あゆ」で組成された2連です。長鉄は基本単行列車なんで、2連でも長いなあと言う感じ。

観光列車「ながら」の中では、地元ホテルの監修したランチがいただけるという事で、車内はそれなりに時間とオカネに余裕のありそうな妙齢の夫婦の組合せが目立ちます。ちなみに私たち親子が持ってる「乗り鉄☆たびきっぷ」ではこの観光列車には乗車できません(笑)。まあこの列車に乗りたいなら長良川鉄道に直接カネを落とせよ!ということなのだろう。趣旨としては当然のことのように思う。

郡上八幡を出るながら号。「ながら・かわかぜ」もキレイな臙脂の塗装の車両ですけど、さらにこちらは磨き抜かれた日本の古式ゆかしい緋色と言うべき輝きに満ちていて、上質なグレード感をアピールしていますね。この上質感のある塗装とアルファベットの書き文字と車両固有のロゴ、木目をふんだんに使った内装の車内。これが水戸岡センセの観光列車のブランディングのメソッドだと感じます。長良川鉄道のHPでも、この観光列車をYoutubeで紹介していて、その力の入れようが分かろうというものです。

長良川鉄道 / 観光列車「ながら」 はじまる、ながらの時間(長良川鉄道HPより)

郡上八幡駅は、2面3線のホームを木造の跨線橋が結んでいます。いかにも、な国鉄配線という感じでしょうか。本屋側が上り美濃太田方面、島式ホームの内側が北濃方面。外線は折り返し車両の留置などに使われているようです。駅舎側は色々と手が入っているようですが、島式ホームの上屋根とかホームの便所なんかは国鉄時代のそのままなんでしょうね。

 沿線随一の観光地だけあって、郡上八幡の駅は小洒落た街の玄関口と言う感じに整えられていてきれいなものです。それもそのはず、1929年の開業当時の駅舎を、2017年に大規模リニューアルしたものなのだとか。猫耳型のドーマー窓が、昭和初期の駅舎のデザインらしいですね。中にはカフェや観光案内所、小さいながらも土産物売り場なんかもあったりして、観光地の交通の結節点として機能すべく整備されているようです。それにしても列車の本数がねえ。下り11本上り12本のダイヤはともかく、朝夕の通勤通学需要を中心としたダイヤなので、美濃市~郡上八幡間では日中が1時間半~2時間開いてしまうのが正直観光には使いづらいのかな。そこまでニーズがないのだろうか。三セク転換される前から本数はそう変わっていないようですが。

郡上八幡の駅で途中下車して、水清らかなる郡上八幡の街並みなんぞを眺めてみようと思ったのだが、駅の雰囲気を味わっているうちに街を循環するバスが行ってしまった。ダイヤを見れば30分でまた回ってくるのを確認したので、改めてゆっくりと駅の設えを眺めてみる。案内表示や壁の琺瑯板にところどころに残る国鉄フォント。新しく作られた小洒落たカフェの裏は昔の信号小屋だったらしく、中ではいつまで使われていたのか、信号梃子がそのまま残されていました。

ここまで何とか降らずに天気が持っていたのだが、バスの待ち時間でとうとうぽつぽつと雨が降り出してしまいました。郡上市の市内循環バス「まめバス」に乗って、郡上八幡の市内観光に向かいます。

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清流長良に綾なして

2019年07月21日 17時00分00秒 | 長良川鉄道

(ノウゼンカズラの咲くころ@美濃市駅)

 名鉄旧美濃駅の見学を終え、昼下がりの駅の近くの料理屋で昼のランチ。名古屋っぽく親子で味噌カツ定食。次に乗る列車の時間が気になって、少し急ぎ目の食事になってしまった。都会の電車じゃないから、一本乗り逃すと後が大変なのである。巻きのペースで食事を終えて駅に着いたはいいが、今度は子供が「トイレ」とか言い出すから気が気じゃない(笑)。長良川鉄道って結構長い時間を走る割に車両にトイレ付いてないんですよね・・・交換駅のダイヤに余裕があるのでそこで行ってくださいって感じになってるみたいだけど。

美濃市発13:25、長良川鉄道9レ美濃白鳥行き。我々と夫婦一組の待つホームに滑り込んで来たのは、長良川鉄道の観光列車「ながら」型のナガラ502でした。外身のエンジ色のカラーリングとレタリングはどっかで見たよーな。ってーか肥薩線の「いさぶろう・しんぺい」とか富士急の「富士登山電車」の色だよね。という事でこちらも水戸岡鋭治デザインのミトーカ車両でございます。

このナガラ502の愛称は「ながら・かわかぜ」。まあ私のようなスレた鉄道マニアには「まーたミトーカ車かよ」という意味で正直感動は薄いのだけど、おそらく彼の功績というのは制限の多い鉄道車両におけるデザインの世界において「観光列車のフレームワーク」を作り上げた事なのかな、と思う。JRのように潤沢な資金で一から車両を設計さしてくれればいいけど、ローカル線の経営状態から考えてそんなバカバカ予算付けられるわけはないので、既存車両の改造を、鉄道車両の安全面をクリアしつつ、限られた予算の中、最大限の結果を出すには、今までの積み上げられた実績の中のメソッドを活用して仕上げていくのが一番良いのでしょう。結果として「どっかで見たような」車両が出来上がってしまうのだろうけど。

車内の設えも出入り口にはオモチャの飾り棚、木目を生かした椅子のつくりといかにもな氏のデザインの雰囲気の世界が広がっている。正直に言えば量産化された観光列車なのだろう。本来その鉄道会社のフラッグシップトレインとなるべき車両がこういう「量産型水戸岡デザイン」で良いのか、という本質的な疑問はあるのだけれど、重ね重ね三セク会社の限られた予算で最大限の効果を出すにはこうするしかないのでしょう。マニアの戯言より、一般的な観光客にはやっぱりアピール度は高いのだろうし。

美濃市を過ぎ、車窓の風景はいよいよ清流長良川に沿って、里山の小さな集落を結びながら列車は小さな駅に丁寧に停車して行く。第三セクターになってから作られた新しい駅や、名称が変わった駅もありますけど、基本的には国鉄の越美南線時代に作られた駅が多く、雰囲気は往時のものをよく残しています。長良川橋梁のトラスも年代物で、開業当時のものがそのまま使われているようです。今回は乗り鉄の旅なんであまり駅の間で撮影する事が出来なかったんだが、長良川と鉄橋を絡めて列車を撮影してみたかったなあ。

長良川と綾なして走る鉄道を、大きなPCコンクリート橋が越えて行く。東海北陸自動車道の橋脚である。この高速道路の開通によって、長良川鉄道の主要駅である関・美濃市・郡上八幡・美濃白鳥へ名古屋や岐阜から高速バスが直接向かうようになりました。中京圏の中心部へダイレクトアクセスする高速バスには、料金も速達性も比べるべくもない鉄道。それでも、川を越え森を抜けてくねるように走るレールからは、トンネルで山を真っ直ぐに貫く高速道路にはない車窓風景を眺め愉しむ事が出来ます。

マツバギクだろうか、ピンクの花が敷き詰められた赤池駅で走り去る列車に向かって手を振る地元の子供たちに、思わず手を振り返す。後ろで草むしりをしているのは子供たちのばあちゃんだろうか。こんな光景を見ることが出来るのも、月並みながらローカル線の旅の良さなのではないでしょうかね。

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追憶のスカーレット

2019年07月20日 17時00分00秒 | 長良川鉄道

(水清らかに鯉泳ぎ@長良川鉄道車内)

美濃太田11:34発の7列車は、特急ひだの続行でやって来た普通列車から乗り換えた乗客であっという間に満員。立ち客も出る状態で長良川鉄道の旅はスタートしました。美濃太田から関にかけては、半農半住、と言った感じの濃尾平野の風景が茫洋と続きます。近距離の客がちょこちょこ降りて行きますが、美濃加茂市から関市にかけての輸送ニーズはそこそこあるようです。幸いにもボックスシートにありつけた我々親子。掛けられた鯉のイラストのカバーがなかなかお洒落。

約20分で刃物の街・関に到着。長良川鉄道の本社と車庫があって、運用上の中心を成す駅でもあります。駅舎とホームの上屋が木造でなかなか渋くていいですねえ。瓦屋根の駅舎から伸びるホームのトタン屋根とか昔ながらの雨どいとか大好物です(笑)。よく見るとホームの上に通票閉塞機(赤いボックスみたいなの)とか置かれててまた雰囲気があるねえ。さすがに現役で使っている訳じゃなさそうだけど。

関で半分くらいの客の入れ替わりがありまして、そこから10分ほどさらに揺られてやってきたのは関市のお隣・美濃市駅。まずはここで途中下車をしてみることに。美濃市の駅は小高い築堤の上に立っていて、駅舎はホームから地下道を抜けた場所にありました。緑のスレート葺きの木造駅舎、一応駅員さんはいるみたいですが、市の玄関口の駅と言うにはあまりに鄙びていて、そのローカル感は否めません。駅前に申し訳程度に止まっていた1台のクラウンコンフォートのタクシーが、隠し切れない小都市の駅前っぽさに花を添えているようです(笑)。

子供と一緒に美濃市の駅前通りを歩く。お隣の関は刃物の街として栄えましたが、美濃市は美濃和紙の産地として名を馳せた街。ですが、最近は人口も2万人を切っており、ご多分に漏れず過疎化はじわじわと進んでいるようです。そんな雰囲気が如実に表れた駅前通り、子供からも「何にもないねえ」という正直な感想が口を突いて出るのだけど、中京圏はクルマ社会ですからねえ。たぶん栄えてるのは国道とかインターのほうなんでしょう。そもそも駅があまり町の中心部に寄った場所にないというのもあるかもしれないが。

美濃市の駅から歩いて5分。交差点の一角に、あれれ、何やら赤い電車が止まっているのを子供が見つけましたよ。

そう、美濃市の駅で降りたのは、この名鉄旧美濃駅を見学するためでした。ここ美濃駅は、軌道線を中心に岐阜県内に広がる「名鉄600V区間」の一翼を担った旧名鉄美濃町線の終着駅。子供の頃に図鑑で眺めた名鉄電車は、パノラマカーや特急北アルプスもさることながら、路面電車の岐阜市内線を中心としたネットワークに活躍する車両たちにも心惹かれたものです。ここ美濃駅から、関を通って新岐阜まで走っていた美濃町線ですが、末端区間だった関~美濃間が平成11年に、残った新岐阜~関の区間も、平成17年の名鉄における岐阜県内600V区間からの全面撤退により、岐阜市内線・揖斐線と同時に廃止となりました。

旧美濃駅跡地は、当時の美濃町線時代の雰囲気をそのままに有志の方々によって保存され、往年の名鉄600V区間の名車がこれも丁寧な管理の元に保管されています。特に流線型の優美なこと甚だしいモ510型512号がひときわ目を引くね。正直モ510は美濃町線の車両って言うより揖斐線のイメージ(「伊自良川を渡る2連の急行」って言えば名鉄ファンには分かってもらえますかねえ)なんだけど、デビューは美濃町線なんだそうで。美濃町線っぽさと言えば真ん中のモ600型のほうかもしれないね。オカンがケチって切ったカステラなんじゃねーかってほどのペラッペラな細身の車体、これ乗ってるほうも窮屈でしょうがなかったんじゃないかなあ。

「新岐阜」「徹明町」のサボ板を出して並ぶ600Vの老雄。名鉄らしいスカーレットの鮮やかな赤が、どんよりとした梅雨空の下で輝きを放っています。どちらも前から見ると細身の車両なんだなという事は分かりますが、モ600の方が前を絞り込んでいるだけに余計に細く見える。モ600型は600V/1500Vのどちらにも対応する複電圧対応の車両で、新岐阜の手前の田神から各務原線に入り、岐阜市内の道路混雑を避けて新岐阜に直通する事が出来た車両でした。美濃町線は近年まで続行運転(同じ方向に複数の電車が続けて走る路面電車特有の運行方法)を行っていて、新岐阜駅前から市内線を走って来た車両と、新岐阜から田神経由で市内線をショートカットしてきた列車が、競輪場前からはひとくくりのペアの列車として2台続けて走っていました。

モ510を横から。半流線型のフェイス、丸窓、窓周りに打ちぬかれたリベット、紅白の塗り分け、インターアーバンの電車らしい電停用の乗降ステップ。見飽きる事のない造形美ですね。こんな車両がついこの間まで岐阜の駅前をゴロゴロ走っていたのだから恐れ入る。

600型が登場するまでの美濃町線のスタンダード・モ590型は、スカーレットではなくその昔のベージュとグリーンのツートンカラーで保存されています。名鉄の600V区間は、部分廃止はありながらも平成17年までは現役で存在していたので、社会人になってからでも行こうと思えば乗りに行けたんですよね。正直笠松競馬でも行った帰りに、そのまま帰らずに岐阜まで出てぶらりと乗って来れば良かったと今更ながらに思う。子供の頃にさんざん本で見た事に満足してしまったのか、こんなに豊穣な鉄道遺産が現役で残っていた事に気付くのが、あまりに遅すぎたという事なのかもしれない。いつだって消えてから人は昔を有難がり懐かしむのだから、進歩のない生き物ではある。ちなみに美濃町線を始めとする600V区間で最後まで活躍していた車両たちは、今でも福井や豊橋で元気に走ってはいます。

駅舎の中には、往時の時刻表も残っている。どのくらいの時期のダイヤか分からないけど、ラッシュを抜かせば1時間に1~2本程度だから運転間隔は閑散としていたようだ。それでも美濃町線には急行運転があって、美濃を出ると神光寺・新関・赤土坂・白金・下芥見・岩田坂・日野橋・野一色・北一色・競輪場前・市ノ坪・田神・新岐阜と停車していたようだ。下芥見(しもあくたみ)とか野一色(のいしき)みたいな駅名に非常に情緒があって良いねえ・・・国道の脇の砂利混じりの軌道を、ガタゴト揺られながら真っ赤な電車が走っていた北美濃の風景を想像してしまう。

富山市内での富山ライトレールと地鉄軌道線の結節や、福井でのえちぜん×福井鉄道の相互乗り入れ、宇都宮市のLRT構想が実現に向けて動き出すなど、都市計画の中での新しい交通の考え方として路面電車の持っていたポテンシャルが再評価されている昨今。岐阜市内線と600V区間に関しては、新しい方法での活用を模索する流れが出来る前に全廃されてしまったのが返す返すももったいなく思う。その要因は、当時の岐阜市を始めとする行政の消極性だったり、バブルがはじけて以降の名鉄の合理化の一環だったり、色々要因はあったのだろうけど。軌道を高速化して雑多な駅を整理し、LRT方式で岐阜駅前まで乗り入れる未来はあっても良かったんじゃないかなあ。

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