青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

津軽逍遥、冬だけじゃない魅力。

2024年07月01日 17時00分00秒 | 津軽鉄道

(微睡のホーム@津軽五所川原駅)

午後の列車で、津軽中里から津軽五所川原へ戻る。帰りは「太宰列車」という触れ込みで、アテンダントさんが沿線の観光案内にプラスして太宰の小説を朗読するというなかなかアグレッシブな企画が催されていた。今回の朗読に選ばれた太宰の小説は「帰去来」。太宰治が、不義理を働き実家の津島家および親族から疎ましがられ、特に兄とは断絶に近い形での不和を抱えた中で、十年ぶりに郷里の津軽へ帰る、というお話である。太宰の私小説の中でも、「故郷へ帰る」という行為、長年の葛藤や恩讐の思いを抱いたうえでの「移動」を伴う物語をチョイスしてきたところは、流石は太宰治を乗せて走った鉄道会社というべきか。ただまあ、どっちかと言えば自分はノンフィクションが好みなので、普段はあまり小説の類は読まないタイプである。朝早く家を出て来た旅程もあるし、昼食後のそういう危険な時間でもあるし、気動車の揺れに任せながら朗読を遠く耳にしているうちに、うつらうつらと午睡のまどろみに引き込まれてしまったことを白状しておく。

五所川原まで太宰列車をエスコートしたアテンダントさん、乗ってきた客とお別れの挨拶。閑散期のこの時期ならではの、ゆったりした時間が流れるホーム。ストーブ列車の時期は、このホームを乗車希望の観光客とツアー客が埋め尽くすのだそうな。駅の裏手から五所川原の機関区を眺めれば、かつては津軽鉄道の貨客混合列車を牽引し、今は冬場のストーブ列車の先頭に立つディーゼル機関車のDD350形、そして冬場の鉄路の守り神であるキ101とともに、この時期は静かに眠りに付いている。やはりこの2機が活躍する冬場にこそ津鉄の真骨頂があるのだろう。DD350形もキ101も相当なご老体で、維持管理・保守整備の苦労は語ればきりのないことと思う。最近は、ストーブ列車も生き残っているDD352の牽引だけでは1シーズンを乗り切れなくなっていて、津軽21形を補機代わりに間に挟んだ協調運転や、そもそも津軽21形の牽引になっていたりする。多客時や悪天候時は、津鉄21形で旧型客車を挟み込んだプッシュプル的な運行もするのだそうで。まあねえ、マジモンの地吹雪の途中で立ち往生なんかさせられませんものねえ。レトロな車両や設備を維持すること、減価償却はとっくに終了しているのだろうけど、実経費としての負担が大きそう。聞けば、ストーブ列車のワンシーズンの経費は1,500万円程度かかるそうだ。今は燃料経費も嵩むから、もっと費用負担は膨らんでいるかもしれない。

津軽鉄道、一番の稼ぎ頭であるストーブ列車は残念ながら冬専用のコンテンツ。春の芦野公園の桜の時期は賑わうけれども、あとは金木の街と五所川原の立佞武多と・・・と指折り数えてみたら、津軽鉄道、意外にも沿線にポテンシャルある観光地がそれなりにあって、結構恵まれているんじゃないかという気がしている(笑)。普段使いの沿線住民はクルマに遷移し、そもそもの過疎化で先細り。今までの乗客の主軸だった学生も、少子化によって高校は統廃合され、学生数はガタ減り。事実、平成の中ごろからの津軽鉄道は、定期外利用者の運賃収入が定期券利用者の収入を上回るようになっています。そうなると、収益面では流動的にはなるけれども、ツアー客と観光客で収益面を支えきるという「観光鉄道」という立ち位置でやって行くしかないのでしょう。

ちなみに、津軽鉄道の2024年3月決算は▲3,190万円。それなりの経常赤字。補助金収益を加えての実損ですからなかなかに厳しい。
防雪林の中を走る津軽鉄道の気動車。真っ直ぐなレールが続く先に何を見るのか。

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北辺の街、夫唱婦随の寿司の味。

2024年06月29日 18時00分00秒 | 津軽鉄道

(津軽平野初夏模様@津軽飯詰駅付近)

津軽五所川原を出た列車は、同乗するアテンダントさんの津軽訛りの観光案内とともに、十川・五農校前・津軽飯詰と津軽平野を北へ走って行く。五所川原市街を抜けると、車窓は岩木川が作り出した津軽の広々とした穀倉地帯へ出て、車窓の左側にはカキツバタの咲くあぜ道の向こうに、遠くおぼろに岩木山の姿が見えます。いかにも東北地方らしい大規模な圃場の水田に、農作業をする人々が小さく小さく映っている。三つ目の津軽飯詰の駅には、駅に隣接して大きな農業倉庫があった。集荷したリンゴを仕舞っておく倉庫のようだったが、季節になるとリンゴを満載した貨車がこの駅の構内にも並んだ。津軽鉄道の貨物は、だいたいが客車と併結された混合列車だったそうで、1980年代の前半までは五能線にも貨物取り扱いがあり、津軽平野で集められた農産物は、五所川原から国鉄を通って各地へ配送されて行きました。

森の中の駅である毘沙門を過ぎ、広い田んぼと時折入り込む丘陵地の森を抜けながら走る津軽鉄道。遠くに並行する道路には、地吹雪対策のフェンスが目立つ。車窓の風景はそう取り立てて変わることがない農村風景で、やはりこの辺りは冬に来ていれば・・・という思いが少しだけ頭をよぎる。吉幾三の出身地である嘉瀬で、地元のお客さんが降りて行った。乗客の半分は地元民、そして半分がおそらく「大人の休日パス」で津軽を訪れた壮年の観光客。だいたいのお客さんは太宰治の生家がある金木か、その一つ先の芦野公園が目的地っぽい。時間があれば金木の街なんかもゆっくり回ってみたいところだけど、ひとまず津軽鉄道を完乗するか・・・という気分なので、椅子から立ち上がることはしなかった。金木で上下列車の交換を終えると、芦野公園を過ぎれば乗客の数はさらに減って行く。築堤の上を田んぼと遠くのため池の堰堤を見ながら川倉・大沢内・深郷田と乗り降りのない駅を律儀に停車すると、間もなく終点の津軽中里です。

津軽五所川原から約45分。オレンジ色のディーゼルカーは、終点の津軽中里に到着しました。僅かながらの乗客があっという間に改札口の向こうに消えると、ホームには折り返し準備と車内の片づけをする運転士氏と私のみ。津軽中里は、本州最北の「民鉄」の終着駅ですが、かたや同じ津軽半島を走るJR津軽線の末端部分(中小国~三厩間)が台風災害から復旧することなく廃線となる様子。そのため、三厩なき後は、ここ津軽中里の駅が名実ともに本州最北の終着駅になることとなりそうです。津軽中里、駅舎は「鄙びたローカル線」の終着駅という感じではなく、商業スペースが併設された比較的大きな鉄筋の造り。これは、以前スーパー(生協中里店)が入っていた名残りで、駅が中泊町の暮らしを支えていました。生協が撤退してからは長らく空きテナントとして放置されていましたが、近年になって観光案内センターと食堂(ちゃんこ食堂?)が入店しています。

津軽中里の駅前に出て、中泊町の中心街を歩く。中泊町は、青森県津軽半島の中心部にある街で、コメを中心とした農業と、十三湖でのシジミなどの内水漁業が産業の中心となる街ですが、1985年は2万人近くいた人口も、今や1万人を切っており9,000人とちょっと。急速な過疎化が続いている。目抜き通りには人の姿はなく、閉まった看板建築のようなスーパーマーケットと、なぜか個人経営の床屋ばかりが店を開けていた。通りすがりに明らかに潰れたパチンコ屋のような建物があって、「ああ、こういう街も昔は元気な農家のオッサンが朝の仕事を終わらせてパチンコ打ちに来てたんだろうなあ」なんて眺めていたら自動ドアが開いて、中を見たら津軽オババたちが大騒音に巻かれながらガンガンに銀玉を打ち込んでいた。現役なんかい。

お昼は駅から徒歩10分くらいの場所にある「やよい寿司」さんへ。平日の昼間だから大して混んでないだろう・・・なんてタカをくくっていたのだが、座敷に団体さんが入っていてなかなか忙しそう。加藤一二三似の柔和なおじいちゃん大将が「ちょぉっと今日は混んじゃってて・・・おひとり?おひとりならカウンターでいいですか?お待たせしちゃうかもしれないけど・・・」と津軽訛りで恐縮されながらカウンターの隅に通される。奥さんらしき人がおしぼりと麦茶を持ってきて、「すいませんねぇ、新聞でも読んで待っててけさい」と東奥日報の朝刊を置いて行った。カウンターの中で団体客のすし桶にせっせと寿司を握っては詰めて行く大将。テレビを見ながら東奥日報を眺め、麦茶を2回くらいお代わりして30分くらいはかかったろうか、どうせどのみち次の五所川原行きは1時間半後だ。急ぐ旅でもない。

名物のラーメン定食。具に揚げ麩の乗ったさっぱり鶏ガララーメンと、シャリ大きめの寿司10カン。これで1,000円ポッキリ。値上げ前はこれが800円で食べられたというのだから、何ともお値打ちな話である。寿司ネタは、マグロの赤身、中トロ、シメサバ、サーモン、イカ、玉子にカニの身、白身はタイかな。そう高級なものが入っているわけではないけれど、昼飯に回らない寿司をいただくというのも気分がいい。「それね、端っこのやつ、生のクジラの握りなんですよ」と大将的な今日のポイントの説明があって、さっそく醤油にくぐらせ口にしてみると、トロッとした中に鯨らしい血の香りと僅かなアクセントがあってなかなか美味い。昼時の団体が入っていて忙しい中、奥さんはラーメンを作り大将は寿司を握り、お互いに忙しく駆け回っている。夫唱婦随の北の寿司店は、なんだかんだとアットホームなお店。ちょっとシャリが柔かったのは、待たしてるお客さんに急いで出さなきゃ!とペースを上げて握ったじいちゃんの奮闘努力の跡だと思うことにします(笑)。

寿司とラーメンでお腹を満たして、梅雨のじっとりとした空気の中を津軽中里の駅へ戻る。まだまだ帰りの列車の時間には早く、駅の周辺をゆるりと回ってみる。駅の近くの踏切から津軽中里の駅を望めば、一面一線のホームのほかは赤錆びた機回し線と転車台が黄色い草花に覆われていて、本州というより北海道のローカル線の終着駅のような寂寥感がありました。津鉄のレールは十三湊へ伸びることはなく、ここで半島の丘陵地にぶつかって、「はい、おしまい」とでも言いたげにプツリと終っていて、構内を埋め尽くすセイヨウタンポポだけが、半島を吹く風に鮮やかに揺れていました。

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ストーブも、客車列車もないけれど。

2024年06月27日 22時00分00秒 | 津軽鉄道

(津軽の第二のターミナル@JR五所川原駅)

新青森でレンタカーを借り出し、国道7号線を弘前方面へ。そのまま弘前へ向かっても良かったのだけど、大釈迦峠を越えて国道を右に折れる。津軽平野を西に走ること30分ほど、津軽第二の都市・五所川原駅前へ。JR五能線の五所川原駅、平屋建てで横に長い駅舎は、最近の不動産賃貸業と化したエキナカビジネスを中心とした駅の作りとは一線を画した昭和のそれであった。五所川原市は津軽半島の付け根に位置する人口5万人程度の都市ですが、青森のねぶた祭りを超えるとも言われる立佞武多(たちねぷた)や津軽三味線、太宰治の故郷である金木の街や、春は桜の芦野公園、そして冬の地吹雪などで観光的にも非常に有名な都市でもあります。

そして、五所川原と言えば何と言っても「ストーブ列車」の津軽鉄道。津軽鉄道は、ここ津軽五所川原駅から津軽中里まで約20kmを走る本州最北の民鉄。津鉄の津軽五所川原駅はJRの駅舎に向かって左側に建っており、決して新しいとは思えない五所川原駅に比べても、遥かにレトロ度合いが高い。ちょうど津軽中里からの上り列車が到着したらしく、みのもんた風に言うところの津軽のお嬢様(笑)が駅舎から出て来て立ち話。女性三人寄れば姦しいと申します。何を言っているのかは全く分からなかったが、迫力ある津軽弁である。五能線は「リゾートあすなろ」なんかで完乗しているのだけど、津軽鉄道はロストしたままそのまんまになってしまっていたんですよねえ・・・と言う訳で、地方私鉄探訪の一環として津鉄に乗りに五所川原まで来たんですが、本来だったらやはり冬に来るべき場所なのでしょうね。「お前なあ、なんでこんな季節に来るんだよ。ストーブ列車でスルメ焼いて、燗酒をチビチビと呷って、地吹雪に吹かれてシバれる思いをしないで、津軽鉄道の何が分かるというのだ!」と言われたらぐうの音も出ない。残念ながら季節は真逆の初夏。しかもこの日の津軽地方、雨こそ降らなかったものの梅雨入り直前のムワムワとしたガス晴れで、額にはうっすらと汗がにじむほどの陽気なのであった。

JRは五所川原駅。津鉄は「津軽」五所川原駅。津軽鉄道、あまりにも冬場の「ストーブ列車」が有名過ぎて、夏場には何をしているのか全く知らなかったのだが、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車なるものをやっているらしい。正直、それにどこまでの観光客の誘因効果があるのかは分からないのだけど。改札口の上にはたいそう年代物の時刻表が掲げられているのだが、「令和五年四月一日改正」とあるように普通に現役で使用されているのだから恐れ入る。この手の時刻表、まだ書き手の人がいるのだなあ・・・ということに感心するのと、同時にタテ列の数に比べると本数の少なさが侘しくもある。手元にあった1988年当時の時刻表をめくってみると、当時は津軽五所川原~津軽中里に23~24往復の列車が走っていて、この時刻表いっぱいに黒々と文字が並んでいたんだろうな。1988年と言えば青函トンネルが開通した年でもあり、津軽地方が一番脚光を浴びた時期でもあるのですけど・・・

ホームへ向かう古びた跨線橋。津軽鉄道は、広い五所川原の構内の東の端から出発していて、長い跨線橋からホームに止まっているオレンジ色の気動車が見えます。以前は、国鉄払い下げのキハ22などの耐寒耐雪車両で運行されていましたが、現在では新潟鐵工所製のNDCである津軽21形に統一されている。いわゆる「非電化三セク」でよく見る新潟鐵工所のNDCシリーズですが、この津軽21-105は2000年に投入された最新型ですね。とはいえ2000年ですから、もうデビューから四半世紀が経過しているのですが。ホームでは、運転士氏と、車内での観光案内やグッズ販売を担うアテンダントさんが、跨線橋を降りて来る乗客たちを温かく迎えておりました。

津鉄の津軽五所川原駅は、機関区を備えた文字通りのターミナルでありますが、機関区で休む現役の気動車たちに混じって、側線には廃車となって打ち捨てられた車両が大量に放置されています。昔の地方私鉄の車庫なんて、どこでも廃車体がそのまま側線に押し込められて倉庫代わりに使われていたりすることは珍しくもありませんが、最近はそういう「骨董品」探しの出来るトワイライトゾーン的な案件も珍しいですよね。昔は、五所川原市内をはじめ沿線の高校へ大量の学生たちを一気に輸送する必要があったことから、朝のラッシュ時や下校時は収容力の大きい客車による通学列車が運行されていました。厳しい冬の寒さの中を走る津鉄の客車列車、機関車に暖気注入(SG)の装置があれば、客車へ暖気を送り込んで車内を温めることが出来るのですが、津鉄の機関車はSGの装置を備えていません。そこで、冬場の暖を取るために車内に据え付けられたのが、石炭を使ったダルマストーブ=ストーブ列車。屋根の上にちょこんとT字型の煙突を乗せた、そんなストーブ列車の廃車体を見ながら、津鉄のキハは津軽五所川原の駅を発車するのでありました。

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