青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

残された時、後三年の駅。

2024年11月29日 23時00分00秒 | 弘南鉄道

(残された時が決まり@弘南鉄道大鰐線・大鰐駅)

弘南鉄道大鰐線廃線へ/27年度末で運行休止へ(Web東奥日報)

今週の水曜日、突如もたらされた悲報。弘南鉄道大鰐線の廃止決定。正直、2013年に弘南鉄道側が廃止の意向を表明してからここまで、何度も存廃論議が浮かんでは消え、浮かんでは消えてきた路線です。その中で沿線自治体の懸命な支援もありましたし、それでも一向に回復しない乗客数と改善しない採算はどうしようもないレベルまで達していましたし、昨年は脱線事故からの抜本的な路盤整備で大鰐線・弘南線ともども長期間の運休を余儀なくされましたし、まさしく万策尽きた末、いや万策はとっくに尽きていたのかもしれないけど、何というか意地だけで維持していた近況ではありました。ただ、少なくとも弘前市と大鰐町に限っては今年の6月の会合で「ある程度支援していくこと」には前向きであったので、ここに来ての突然の決定は「経営支援があったとしても、これ以上の大鰐線への資本投下、設備投資、人的リソースの投入は困難である」という弘南鉄道側のギブアップ宣言なんでしょうね。一部の話では、弘南鉄道沿線5市町村(弘前市、黒石市、平川市、大鰐町、田舎館村)の中で、大鰐線の沿線ではない平川・田舎館・黒石からの「これ以上大鰐線の収支の改善が見込めない中で、弘南鉄道へ公金を投入する事への是非」という議論から逃げられなかった、というのもあったそうで。大鰐線を諦めて弘南線の経営に集中するというのも、それは賢明な選択でしょう。

しかしまあ、縁もゆかりもないすんげぇ遠くの電車のことだけど、大鰐線の廃止が事実上決定してしまったことはひとしおに寂しい。6月に行ったばかりというのもあるし、たぶん、津軽が好きなんだよね、自分。大鰐線と言えば、戦後まもなく弘前電気鉄道として設立されて以来、そもそもろくに客が乗らなくて常にカツカツ経営ではあったんですよね。車両も富士身延鉄道からの買収国電とか元西武の川造型とか、そういう伝説級の古い電車をかき集めて走らせていて、当初から採算の見込みが極めて薄い路線でした。経営に行き詰まった弘前電気鉄道は、弘南鉄道の創業家である菊池家を頼りに経営を譲渡。当時の弘南鉄道は、大鰐線に続き黒石線を引き受けるなど、「大弘南」とも言える津軽地方の公共交通を一体に、拡大経営を指向していたこともありましたのでね。なんだかんだと紆余曲折がありながら、ここまで何とかレールを繋げてこれたのも、ひとえに弘南鉄道のレールへの思いと、沿線自治体の頑張りの証拠でもあるのでしょう。今回も休止(事実上の廃止)を発表はしましたけども、即時廃線じゃなくて27年度までは運行するというのは、沿線に点在する高校生たちが卒業するまでの時間の猶予なのだそうで。課せられた公共交通の使命を全うするため、しっかりと最後までケジメを付けて行くのは、立派な最期であるとすら思える。

大鰐線の廃線は、直接の関係はなくとも先日破綻を発表した中三弘前と根っこの部分は同じであって、それは弘前市の旧市街地の完全な衰退を示している。それだけに、中央弘前駅とその周辺の土手町あたりは何とも昭和なノスタルジックに包まれていて、得難い雰囲気がある。中央弘前の駅って、個人的には日本最高の「郊外電車の始発駅」という称号を与えたいほどの収まりのいい雰囲気があって、大好きなんだよなあ・・・。こうなってしまっては、あと三年の命だから、せめてそれまでに弘前の旧市街を泊まりで味わって、ぜひその雰囲気に一人でも多くの人が触れて欲しいなあと思う。別に遠来のマニアが何の力にもならないことはよく知ってるけどさ。そして、やっぱり津軽は冬だと思うので、来年の1月あたりにまた行ってみようかなあと。

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京滋を結ぶトリプル・ハイブリッド。

2024年11月24日 17時00分00秒 | 京阪電鉄

(歴史の道、あふさかやまの道@逢坂関跡)

大谷駅から浜大津まで。いわゆる「逢坂越え」の道には、京の都から東国や北陸道へ出て行く際の関所である「逢坂の関」があったことで、古くからの歴史や文学に名前を残しています。その中でも有名なのは、百人一首に読まれた蝉丸和尚の「これやこの いくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき」の句でしょう。意味としては、「これが、知る人も知らない人も分かれて行く、有名な逢坂の関なのだなあ」という見たままの感想なので、何かの掛詞が織り込まれていたり何かの暗喩があったりということはなかったりする。蝉丸和尚と言えば、百人一首の絵札を使った遊びである「坊主めくり」では最凶最悪のカードと言われており、引いた瞬間にビリ確定とか、引いた瞬間トップ目に持ってるカード全部あげなきゃいけないとか色々とローカルルールがありましたよね。我が家だとどうだったかな?引いた瞬間ゲーム終了で、その時点での持ち札数のトップが勝者になるルールだったと思う。なんで蝉丸がそんな特別キャラ扱いされるのかってーと、蝉丸って百人一首で出て来る坊主の中で唯一帽子をかぶってて、パッと見で坊主に見えないから・・・という理由だったような。

京津線の逢坂山越えのトピックス、逢坂山隧道東側にあるほぼ直角の超絶急カーブ。電車は極端にスピードを落として、車輪をレールに擦り付けながら慎重に慎重にカーブを曲がって行きます。特にイン側にあたる浜大津方面行きのレールの半径のキツさは恐ろしい。実際の鉄道線ではあるのですが、その見た目のスケール感はNゲージに近いですよね。ここを単車以外が通ることが無謀に近いと思えるほどの急カーブで、よく見ると京津線の電車の台車が車体からはみ出しているのが分かります。京津線は全線が軌道法に基づいて建設されているので、こういう急カーブなど通常の鉄道線では計画外になりそうな規格のものも随所に取り入れられているようです。そのため車両限界的には相当厳しいものがあって、800形1両の全長は16.5mなんですが、これ以上車体が長く出来ないんでしょうね。本当は京都市内を地下鉄で走るならもっと大型の車両を入れたいんでしょうけども。

上栄町~大谷にかけての登り坂を。国道1号線に沿ってブラブラと下って行く。逢坂山トンネルを境に浜大津まで下り坂なので、歩きの身には楽だ。上空を大きく跨ぐ二本のアーチは名神高速道路の上下線。大津トンネルと蝉丸トンネルの間になる。このアーチをくぐって逢坂山の急カーブに向かう電車を待っていたのだが、逢坂山の山影に早くも隠れ始めた光線でまだらになってしまった。気にしない(気にしろよ)。

逢坂山の峠道、この辺りが文字通り「逢坂」という名前の集落になる。滋賀県大津市逢坂一丁目、ということだが、東海道と京津線にへばりつくようにしてウナギの寝床のように続く古い家並みが特徴的だ。逢坂山の坂道を下って行く京阪800形。峠のサミットの大谷駅が標高160m、びわ湖浜大津の駅が標高90m程度だから2.5kmで70mを降りて行く事になる。平均したら30‰弱の勾配になるのだからそれなりの連続勾配だ。地下鉄・登山電車・路面電車のトリプルハイブリッド、それが京阪京津線の魅力である。

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同じ場所でも100円高い。

2024年11月23日 07時00分00秒 | 京阪電鉄

(悩ましき運賃計算@京阪山科駅)

出町柳から三条京阪へ出て京都市営地下鉄の東西線に乗り換え、地下鉄の山科駅を経由して京阪山科駅へ。この間、出町柳(京阪鴨東線)三条・三条京阪(京都市営地下鉄)地下鉄山科(徒歩)京阪山科というルートを通っているのだが、ここで問題になるのは地下鉄山科も京阪山科もほぼ同じ位置にありながら、運賃が異なること。地下鉄と京阪京津線の分岐駅は一つ手前の御陵(みささぎ)駅なので、京阪山科で降りる場合は御陵~京阪山科間の料金が加算されてしまい、三条京阪から地下鉄山科の260円に対し三条京阪~御陵~京阪山科は360円になってしまうのだ。私は京阪電車の「びわ湖1日観光チケット」を買いたかったので京阪山科に来たんだけど、そのまま京阪山科で降りたら100円高いというのは結構初見殺しの運賃体系だよなあ。同じ三条方面から地下鉄も京津線も同様に発車するのだが、同じ山科に行くのに「どっちでもいい」とはならんのはトラップでしょ。特に最近はICカードにチャージさえされていれば、とりあえず改札は通れてしまうからねえ。ステルス的に高い運賃を払わされている観光客などもいるのかもしれない。地元民はそれを分かって三条方面に行く場合は地下鉄に乗ってしまうようだけど。

久し振りに来た京阪京津線。ご存じのように、そもそも昔は三条京阪から京都の東山を併用軌道で越え、蹴上から山科を通って浜大津へ至る路線でした。当然三条京阪~浜大津は京阪の一社運賃だったものが、御陵から先の市営地下鉄への転換で二社跨ぎの割高な運賃になった上に、最近は新快速を増発してフリークエンシーを高めるJRのほうが利便性も高く、京津線は利用者減による苦境に立たされています。京阪グループの中でも京津線と浜大津で接続する石山坂本線は収益が群を抜いて悪いらしく、いつの間にか三条京阪からの浜大津行きが20分に1本(毎時3本)になっていたのは悲しい。前までは15分に1本(毎時4本)だと思ったのだけど・・・そして淡い水色を中心にしたパステルカラーだった京津線の主役・800形はいつの間にか本線筋と同じグリーン系の塗装に代わってしまっていた。

それでも、蹴上の坂がなくなっても、本数が少なくなっても、電車の色が変わっても、大谷から逢坂山の坂道を越えて浜大津へ降りて行くあたりの情景は健在である。京津線の魅力はここから先にありますのでね、大谷の駅ですれ違う京阪800形。急勾配の途中の駅は、駅のホーム自体が坂道である。緑濃き駅前通りには、有名な鰻の名店があっていつも混雑している。この日も、秋の行楽シーズンらしく、多くのクルマが駐車場に入りきれずに列をなしていた。その渋滞は国道1号線まで延びていたのだが、この人たちの半分でも京津線に乗ってくれば渋滞もなくなるし、京津線の収入にもなるのにねえ・・・

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淀を走るや、街中華。

2024年11月20日 23時00分00秒 | 京阪電鉄

(淀屋橋行きおけいはん@出町柳駅)

先日の京都プチ遠征。叡山電車に乗った後は 、出町柳駅から京阪電車に乗りまして。関西の私鉄というもの、一応それなりに撮影しているかなあ・・・と思いつつ過去の写真のフォルダを漁っていたら、南海・阪急・近鉄・神鉄が厚めで京阪・阪神が薄め。特に京阪電車は、別に大した理由がある訳でもないのだが本線筋(淀屋橋~三条)をあまり撮影出来ないでいる。どっちかってーと、浜大津を中心にした併用軌道の周りに情緒がある京津線・石山坂本線が好みでしてねえ。結局、この日も京阪電車を三条で下車し、京都市営地下鉄に乗り換えて京阪山科から浜大津方面に行ってしまった。ただ、出町柳から乗った京阪電車は少し目を惹かれましたねえ・・・2600系。

京阪のシンボルカラーでもあるグリーン系の内装に、フワっと柔らかめのロングシートの両端部にはスタンションポールもなく・・・ラッシュの時にドア横の客がはみ出してきてケンカになりそうなアコモである。ラッシュも関東ほどきつくないとか、そういうのがあったりするのだろうか。元々関西には、近鉄を始めとして1960年代メイドの電車がゴロゴロしておりますんで、1980年代製造のこの車両が決して「ド古い」と言う訳でもないのですけども、関東の感覚だと通勤電車なんてもんは廃車にしなけりゃだいたいデビュー30年くらいで内外装の思い切ったリニューアルとかする感じなので、経年以上に「なかなか古風な電車」な感じのする車両である。

まだ10月半ばのこの日は、日中は長袖を着ていると汗ばむくらいの陽気だった。そのため車内には冷房が入っていたのだが、ラインデリアに付いてる社紋入りのサーキュレーターみたいなのがカッコよくて萌える。社紋の入った扇風機とかラインデリアの類があるの、昭和の私鉄電車って感じに満ち溢れてますよね。この装置、京阪独自の冷房装置で「回転グリル」というものらしい。役割としては、まさにサーキュレーターと同じで、車内に冷風を行き渡らせるためのハブみたいなものなのだけど、予想通りというか京阪ファンには「中華鍋」とか「中華どんぶり」とか言われているらしい。鉄道ファンって、そういうあだ名をつけるの、ホント好きよね。

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大正の 浪漫魅せられ 八瀬の屋根。

2024年11月17日 10時00分00秒 | 叡山電鉄

(優雅な単車・デオ700系@宝ヶ池駅)

宝ヶ池の叡山本線ホームに到着するデオ700系723号車。デオ700系は、叡山電車の体質改善を目指して昭和の末期に導入された両運転台型の単車ですが、当時の叡電の厳しい財政状況を背景にしてか完全新造とはせず、それまで使用していた旧型車群の機器を流用し、ボディだけを武庫川車両工業で載せ替えて作られました。既に製造して30年を経過している車両ではありますが、近年リニューアルを施し内外装を一新。行き先表示がLEDになったり、塗装も古都を意識したクラシカルで雅なものにお色直しをされています。この723号車は、古都・洛北の山紫水明なイメージを取り込んだ青に近いパープル。光の加減によっていろいろな色に見えますけどね。

出町柳から八瀬比叡山口へ。そして、比叡山ケーブルに繋がりロープウェイへ。比叡山を縦走するルートの一部を構成する叡山本線ですから、たった1両では観光シーズンの京都ではその輸送力が懸念されるところではあります。デオ700の単行は約90人の定員ですから、大型の路線バスより若干多い程度。出町柳の駅のターミナルとしての大きさを考えると、16m車の単行を突っ込むのが一杯というスペースのなさなので、日中は15分に1本の頻繁運転で観光客を捌くことになります。

宝ヶ池で鞍馬線を分けた叡山本線は、三宅八幡を経て終点の八瀬比叡山口駅へ。以前は「八瀬遊園」という名前で駅に隣接する遊園地があり、夏に開かれる「八瀬グランドプール」を中心に賑わいを見せましたが、かつての経営母体であった京福電鉄の収益悪化に伴い2001年に閉園となっています。この「電鉄系レジャー施設」というものは、かつての私鉄運営の基本ともいうべきものでしたが、関西でいえば近鉄のあやめ池遊園、南海のさやま遊園やみさき公園、阪急の宝塚ファミリーランド、阪神の阪神パーク、平成時代にみーんななくなってしまいました。関西の電鉄系遊園地で元気なのって京阪の「ひらパー!」ことひらかたパークくらいなもんですよね。関東でも東急の二子玉川園、京成の谷津遊園、小田急向ヶ丘遊園、西武のとしまえん、京急だと油壷マリンパーク・・・はそれほど大きな施設じゃなかったけど、いずれも現存しません。

まあそれにしても、この叡山本線の八瀬比叡山口駅の造形の鮮やかさには目を奪われます。駅全体が木造の大屋根で覆われているのだけど、リベット打ちの鉄骨で組み上げられた柱と、屋根を支える細やかな骨組みと、それらを束ねる弓なりのアーチ型をした横梁が描き出す見事な幾何学模様は、駅舎としての「美」に溢れている。ただ駅の上に大屋根を組んだだけではなく、よく見るとホーム部分と線路部分を境に大屋根は二段構えになっていて、その間に明かり取りの窓を挟んでいるのがなんとも洒落ている。この効果で大屋根の下が暗くならずに済んでいるのだが、また粋なデザインだなあと。自分もそこそこ各地の「駅」というものを見て歩いている方だとは思うのだけど、五本の指に残るくらいの「魅せる」駅だと思う。秋本番になると駅の周囲は紅葉に包まれ、それもまた素晴らしい風景なんだそうだ。

秋の爽やかな風が吹き抜ける、山の小さなターミナル。この駅が建造されたのは大正14年(1925年)のこと。元々、現在の叡山電鉄本線を敷設したのは京都電燈という電力会社ですが、京都電燈は蹴上の水力発電所で発電される電力の供給を受け、文明開化の波に乗って京都市街の近代化を押し進めた会社でもあります。当時の電力会社というものは、基本的に西洋の思想を取り入れたハイカラな会社だったでしょうから、このようなヨーロッパのターミナルを思わせるような駅が出来るのもむべなるかな、といった感じを覚える。八瀬で有名なのは、紅葉がお堂の磨き抜かれた板張りの床に鏡のように映り込む「光明寺瑠璃光院」ですけども、JR東海のCMで火が付いてから、秋のシーズンは見学自体がプラチナチケットと化しているそうです。あまりにも有名になり過ぎたせいで現在公開は期間限定の完全予約制。自由見学は受け付けておらず、しかも夜の特別公開についてはJR東海ツアーズの期間限定のオプショナルツアーに参加しないと見ることが出来ないらしい。お金を払って「映える」風景を体験するのもいいんですけど、電車賃だけで眺めることが出来る最寄り駅の造形美も、なかなかのものがあると教えてあげたいですねえ・・・

すっかり八瀬比叡山口駅の雰囲気に魅せられてしまったので、すぐに立ち去るのは勿体ないなあ・・・と思い、ベンチに腰を下ろしてこの駅のありようにどっぷりと浸って過ごす小一時間。大屋根のターミナルに単車のデオが着くと、駅を守る老駅員が、律儀に比叡山へ向かう乗客を出迎えます。

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