青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

阿武急の、明日はどっちだ。

2024年06月13日 23時00分00秒 | 阿武隈急行

(ちょっぴりレトロな「電車のりば」@阿武隈急行・福島交通福島駅)

JR福島駅の東口からビル一本隔てた場所にある、阿武隈急行と福島交通の福島駅入口。県庁所在地の新幹線停車駅である福島駅には立派な駅ビルが建っていますが、こちらはちょいと掠れたままの看板が波板トタンの通路の上に掛かっている。福島交通の探訪を軽く終えた後、ちょっと駅ビルの一階で軽くノンアルとお腹に入れるものを買って再び阿武隈急行へ。駅前で遊んできたのだろう、楽しそうな声を響かせながら、女子高生が仲良く二人、阿武隈急行のホームに向かって行った。福島交通と阿武隈急行、福島駅からはどちらの路線も学生の利用が目立ちます。

福島発、20時台の下り電車槻木行き。折角フリー切符を持っているし、来たからには乗り鉄はしておかないとね、ということで、改めて8100形の運用を狙って乗ってみた。福島からは買い物や食事帰りの乗客で、軽くボックスシートが埋まるくらいの乗車率だったが、卸町で降り、保原で降り、梁川で降り、県境を越えて行く客は編成全部で数えても旅行者風情の2、3人ほど。梁川を過ぎると、列車は街の灯りすら見えない漆黒の闇に落ちていく。阿武隈渓谷の隘路を往く8100形、唸りを上げるモーターサウンドと、レールのジョイントを激しく叩く車輪の音だけがひたすらに耳を支配する。トンネルへ突入するたびに、律儀にピィィ!とホイッスルを鳴らす電車の旅は、トンネルとトンネルの間の闇を結んで、ただひたすらに轟々と走るのみなのであった。

丸森駅。特に何もないが、20分ほどの運転停車になった。ボックスシートで折り畳んでいた体を夜のホームで伸ばす。槻木行きに、県境を越えてきた客はほとんどいなかった。夜の暗がりとホームの明かりの境目で、8100系の特徴である折り込まれた妻面がより引き立つ。最近の車両はどっちかって言うと丸っこい造形のものが多いから物足りないのよね。こういう角ばったデザインの車両が持つシャープさみたいなの、80~90年代前半のものだけど、そういうところがスイートスポットなので(笑)。

角田市内で僅かに乗客を乗せ、終点の槻木に到着。乗客はそのまま仙台方面行きの東北本線の電車に乗り換えて行く。阿武隈急行、福島都市圏の通勤通学を担う福島~保原~梁川間に比べ、宮城県側の丸森~角田~槻木の区間の利用状況が極めて悪い。現在、阿武隈急行への沿線自治体の支援策を巡って、福島県側と宮城県側で大きく意見が割れている(福島テレビニュースより)。昨年度は年間5億円の欠損金を計上したようで、累積で14億円を超える赤字の積み上がりを重く見た柴田町が、欠損補助に当たる補助金の支払いを拒否しているようだ。特に宮城県側では、続く赤字に阿武隈急行の「路線自体の存廃」を見直すべく議論に入るような話もあるから穏やかではない。そもそも国鉄丸森線時代は一日5往復しか運行してなかった区間、東北本線が通る柴田町が阿武急の支援に対して否定的なスタンスを見せているのは、槻木駅と東船岡駅の2駅のみの設置ながら、過分な負担を求められることへの反発とみられる。長大ローカル線、「沿線で負担を分け合え」だと、両端部のJRと接している自治体と、沿線の自治体においてはどうしても温度差が出てしまう。平日の流動で言うと、福島口1,300人/日に対して槻木口が700人/日というダブルスコアが付いているのだが、負担は福島・宮城で半分ずつ。県境区間の人口稀薄地帯の大半が宮城県側に入っており、距離による負担ではなく、利用者(受益者)の多い側が負担を増やせというのが宮城県側の論理なんでしょうな。

ちなみに柴田町は阿武急の設備投資に対する部分の補助金は支払っていて、払っていないのは欠損補助金。一応の義理は果たしているし、町民に対する利用の助成も手厚い。町民であればおとな二名以上のお出かけが、申請用紙を書いていくだけで半額になるような制度があるそうだ。阿武隈急行は、開業以来並行する東北本線の福島〜槻木間より運賃が安いという運賃政策を堅持しているのだが、それだけに運賃の長距離逓減が激しくなっていて、距離を乗れば乗るだけ乗り得。槻木~福島の通過需要の逸失を考えたら踏み切れないのかもだが、増収のためにはそこらへんも抜本的な対距離運賃の見直しが必要でしょう。一般的に車両価格が高いと言われる交流電車による全線電化の設備投資負担も重く、ひょっとしたら近い将来、電化設備の撤去なんて話も出るかもしれない。宮城県の出方によっては、福島~梁川間を残して宮城県側の廃止もありそうという未来も想定されていて、「(赤字を許容した上で)地元がカネを出すか、出さないか」というフェーズにある。この人口減少社会では仕方ない話なのだが・・・

水と緑のストライプ、阿武隈急行の明日はどっちだ。

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阿武急に、キハのいた時代。

2024年05月29日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(角田盆地を真っ直ぐに@横倉駅)

横倉駅を見降ろす陸橋から。穀倉地帯の角田盆地を真っ直ぐ南北に貫く阿武隈急行。槻木から丸森までの17.4kmは、かつての国鉄丸森線として開通した区間です。将来の福島延伸を見込んで建設に着手した丸森線は、昭和43年に槻木~丸森間を開通させた後、長い間国鉄の財政悪化に伴って未成部分の開通に漕ぎ付けることが出来ず、盲腸線のまま放置されていました。昭和61年7月に、福島までの路線延長は地元の手に託すことを視野に入れ、国鉄丸森線は第三セクター化。受け皿会社として設立されていた「阿武隈急行株式会社」に引き取られたのですが、阿武隈急行が昭和63年7月に福島開業を果たすまでの約2年間、槻木~丸森間は非電化のまま暫定開業となっていました。国鉄からキハ22のリースを受け、白地に青のラインを入れた独自色に塗り替えて使用していましたが、国鉄設計の旧態然としたデザインのキハ22が白地に青いストライプというのは、今思うと非常にミスマッチなカラーリングでした。当時は国鉄からJRに移行する過渡期で、一斉に首都圏色から地域色への塗り替えが行われていた時期でもありましたので、まあそういう時代だったんですよね。福島開業と同時に阿武急は全線電化されたので、阿武急カラーの気動車が走った時期は短かったのですが、その後キハ22はJRに戻ることもなく、そのまま廃車されてしまったそうで。

掘割区間を抜けて行く8100形。と言う訳で、この槻木~丸森間は阿武隈急行で一番古い開業区間になるのですが、昭和43年の開業ながら掘割、築堤、立体交差を基本に作られていて、ほとんど踏切がないのは特筆すべきことです。但し、阿武隈川の運んできた土砂の堆積で形成された沖積平野であるここ角田盆地の築堤区間では、築堤上に敷かれたレールが東日本大震災の揺れに耐えられず、多くの個所で大きな軌道変異を起こしてしまったそうです。盛り土の築堤ってのは構造的に揺れには弱いんですよね・・・

国鉄時代の丸森線は、槻木を出ると横橋・岡・角田・丸森の4駅しかなく、運行も朝夕中心の一日5往復のみという超閑散線区でした。短区間の盲腸線らしい(?)国鉄のやる気のなさが苦々しいほどなのですが、阿武隈急行への転換によりこの区間に横倉・南角田・北丸森の3駅が新駅として開業。一日14往復へと大幅な増便が果たされ、沿線の角田市や丸森町は一気に仙台への通勤圏に組み込まれました。が、バブルは弾け、時代は流れ、今や角田市の人口は2万6千人あまり。現在でも、阿武隈急行線内からは朝夕の一往復ずつが仙台に直通していますが、果たしてどのくらいの直通需要があるのだろうか。

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山青く、水は緑の猿翅峡。

2024年05月27日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(阿武隈山地の緑を集めて@阿武隈渓谷)

福島・宮城県境の阿武隈川は、蔵王山脈の南麓と阿武隈高地の北端のせめぎ合う場所を渓谷を刻んで流れています。これが阿武隈渓谷なのですが、切り立った崖と深い谷というよりは、岩肌を露わに早瀬が続く急流という感じ。関東で言えば、埼玉の長瀞あたりの風景に近いですかね。阿武隈渓谷も長瀞も、盆地から平野の間の山間部の渓谷ということで、形成される地形の雰囲気が似てしまうのでしょうね。ちなみに、長瀞と同じようにこの阿武隈渓谷にも「ライン下り」があります。阿武隈渓谷のライン下りは、もう少し下流の宮城県の丸森町から出ているのですが、動力船による周遊のようなスタイルなので、船頭さんが竿を使って船を操り、流れを下って行く・・・というものではありません。GWということで船着き場は賑わっておりましたねえ。

山の緑が溶けて染み出したような阿武隈川の流れ。あぶくま~丸森間の第二阿武隈川橋梁は、大きな淵を作って緩やかになった場所に架けられている。連続トラスを軽やかに渡って行く8100系。AB900形もいいけれど、8100の特徴である水と緑のストライプが、非常にこの風景に合っている。シンプルな下路ワーレントラスは、向瀬上の第一阿武隈川橋梁と同じ。昭和後期から平成にかけて建設された鉄建公団線の橋梁、だいたいみんなこのスタイルですね。野岩鉄道の湯西川の鉄橋とかもこんな感じだし。

山間部でやや川幅が狭まっているとはいえ、そこは東北地方二番目の大河である阿武隈川。渓谷を刻みながらも、その名に恥じぬ雄大な流れは変わることはありません。阿武隈渓谷は、別名「猿翅(さるはね)峡」などと言われますが、川幅の部分に比べて平地の少ない地形で、日本鉄道が明治時代にここに線路を敷くのは少し難しかっただろうな・・・と思わせるものがあります。南東北の山々の栄養分を集めた阿武隈川の豊かな水は、流域の広い耕土を潤し、山紫水明の美しい眺めで人々の心を潤してきました。川の流れは、この先の丸森町から沖積平野の角田盆地へ出て北に流れを変え、亘理郡亘理町で太平洋に注いでいますが、阿武隈急行の旅は、車窓に流れる田園風景や渓谷美、そして保原や梁川の街の姿など、阿武隈川が作り出した自然と文化を丸ごと味わう旅でもあります。

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コードネームはABQ。

2024年05月25日 12時00分00秒 | 阿武隈急行

(ハナミズキの並木を横目に・・・@新田駅)

近代的な集合住宅が立ち並ぶ新田の駅を出て行くAB900形。ハナミズキの桃色が鮮やかである。阿武隈急行の主力車両であるAB900形は、JR東日本の東北地区の最新型車両であるJRE721系の三セクバージョンです。日本全国どこへ行っても古い車両にシンパシーを感じてしまう私は、どうしても8100形ばかりを追い掛けてしまうのですが、圧倒的に多数はこちら。JRE721系は、阿武隈急行の他にも仙台高速鉄道や青い森鉄道にも投入されている車両ですが、各社ともJR線への乗り入れをおこなう業者なので、規格が揃っていた方が扱いやすいのでしょう。ちなみに、AB900形は、「A=あ B=ぶ 900=きゅう」の語呂合わせなのだそうで。ダジャレか。

春の阿武隈路を、レッドフェイスのAB900形が走ってゆく。田起こしは住んでいるけれど、まだ田んぼに水は引き込まれていないGWの前半戦。水が入っていない土がむき出しの田園も殺風景なので、画角を春の若草で囲ってみる。AB900形は既に7編成が導入されていますが、そのそれぞれの前面のカラーが違うそうです。車両の規格は統一しても、カラバリで変化を付けるやり方というのは鉄道デザインの常套手段だと思うのですが、これってどこが一番最初に始めたのだろう。やはり初代レインボーカラーの京王帝都井の頭線の3000系からなのだろうか。

ああ、それにしてもこの日の福島の青空はどうだろう。それこそ、「智恵子抄」で東京の空を見ながら智恵子が語った「ほんとうの空」の色であった。桜の時期は花はともかく抜けるような青空には恵まれませんでしたが、このGWでだいぶ取り返せた感じがしますね。富野駅の先、福島盆地が尽きて阿武隈渓谷が始まる入口のあたりに、青々と葉を茂らせた大ケヤキの木の下に、慎ましく祀られた小さいお稲荷さん。「山岸稲荷神社」というらしく、いかにも村の鎮守の神様の・・・という感じ。

大木の下に祀られた小さな祠に手を合わせ、強い日差しを避けながら列車を待つこと暫し。福島行きのAB900形がやって来た。
ツンとお澄まししたような顔のお狐様が、今日も村と旅人の安全を見守っています。

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絹の糸、思い出紡ぐ綿帽子。

2024年05月22日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(残雪の山遠く@新田~梁川間)

阿武隈急行線は、旧国鉄の丸森線として作られた槻木~丸森間以外の区間は昭和63年(1988年)に作られた完全なる新設路線です。三陸鉄道、秋田内陸縦貫鉄道や野岩鉄道などの東北の他の第三セクターと同様に、国鉄時代からの計画を地元が引き受けて鉄建公団線として開通させたもので、線路は盛り土や高架、掘割を積極的に取り入れ、その他の部分でも交差する道路はオーバーパスかアンダーパスをしていて、とにかく踏切がありません。いきおい、撮影地として選定されるのは線路をまたぎ越す陸橋からの撮影が多くなるのですが、田んぼの中の高架橋に上がると、春霞の信達平野からは僅かに雪を残す栗子連峰が望めました。

午前中の富野ローカルで福島へ折り返していく8100系。東北本線のバイパス的な要素を持たせ、輸送力増強と、災害時の多重系統化を目的とした阿武隈急行の路線ですが、阿武隈急行が開通する遥か昔から、福島から阿武隈川右岸を通って白石や岩沼方面を結ぶ鉄道の構想はあったのだとか。現在の東北本線は越河から国見のサミットを経て白石盆地に下り、白石川を頼りに蔵王南麓の山間部の端を抜けて宮城平野に至っていますが、信達平野を通らなかった理由は、保原や梁川の住民が「蒸気機関車が走ると煙や音で蚕が繭を作らなくなる」と言って反対したからという話もあります。昔も今も、新しいものに対する忌避やテクノロジーの否定みたいな動きってのはあるものですが、実際には阿武隈川に架橋するルートが敬遠されたのと、阿武隈渓谷の隘路を抜けるだけの土木技術がなかったことが理由とされていますが、真相はいかに。

旧保原町や梁川町などの伊達郡一帯は、現在でも阿武隈川の肥沃な氾濫原の広い耕土を使った農業が盛んにおこなわれていますが、江戸から明治の時代にかけては「信達蚕糸業地帯」として養蚕業のメッカともなっていました。その品質の高さは全国に知られ、鉄道の開通により遥か横浜の港から海外へ輸出されて、日本の外貨獲得に大きく貢献することとなります。絹糸に代わって田園の畔に咲くタンポポの綿帽子に、養蚕で栄えた時代の面影をなぞって。

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