青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

北辺の街、夫唱婦随の寿司の味。

2024年06月29日 18時00分00秒 | 津軽鉄道

(津軽平野初夏模様@津軽飯詰駅付近)

津軽五所川原を出た列車は、同乗するアテンダントさんの津軽訛りの観光案内とともに、十川・五農校前・津軽飯詰と津軽平野を北へ走って行く。五所川原市街を抜けると、車窓は岩木川が作り出した津軽の広々とした穀倉地帯へ出て、車窓の左側にはカキツバタの咲くあぜ道の向こうに、遠くおぼろに岩木山の姿が見えます。いかにも東北地方らしい大規模な圃場の水田に、農作業をする人々が小さく小さく映っている。三つ目の津軽飯詰の駅には、駅に隣接して大きな農業倉庫があった。集荷したリンゴを仕舞っておく倉庫のようだったが、季節になるとリンゴを満載した貨車がこの駅の構内にも並んだ。津軽鉄道の貨物は、だいたいが客車と併結された混合列車だったそうで、1980年代の前半までは五能線にも貨物取り扱いがあり、津軽平野で集められた農産物は、五所川原から国鉄を通って各地へ配送されて行きました。

森の中の駅である毘沙門を過ぎ、広い田んぼと時折入り込む丘陵地の森を抜けながら走る津軽鉄道。遠くに並行する道路には、地吹雪対策のフェンスが目立つ。車窓の風景はそう取り立てて変わることがない農村風景で、やはりこの辺りは冬に来ていれば・・・という思いが少しだけ頭をよぎる。吉幾三の出身地である嘉瀬で、地元のお客さんが降りて行った。乗客の半分は地元民、そして半分がおそらく「大人の休日パス」で津軽を訪れた壮年の観光客。だいたいのお客さんは太宰治の生家がある金木か、その一つ先の芦野公園が目的地っぽい。時間があれば金木の街なんかもゆっくり回ってみたいところだけど、ひとまず津軽鉄道を完乗するか・・・という気分なので、椅子から立ち上がることはしなかった。金木で上下列車の交換を終えると、芦野公園を過ぎれば乗客の数はさらに減って行く。築堤の上を田んぼと遠くのため池の堰堤を見ながら川倉・大沢内・深郷田と乗り降りのない駅を律儀に停車すると、間もなく終点の津軽中里です。

津軽五所川原から約45分。オレンジ色のディーゼルカーは、終点の津軽中里に到着しました。僅かながらの乗客があっという間に改札口の向こうに消えると、ホームには折り返し準備と車内の片づけをする運転士氏と私のみ。津軽中里は、本州最北の「民鉄」の終着駅ですが、かたや同じ津軽半島を走るJR津軽線の末端部分(中小国~三厩間)が台風災害から復旧することなく廃線となる様子。そのため、三厩なき後は、ここ津軽中里の駅が名実ともに本州最北の終着駅になることとなりそうです。津軽中里、駅舎は「鄙びたローカル線」の終着駅という感じではなく、商業スペースが併設された比較的大きな鉄筋の造り。これは、以前スーパー(生協中里店)が入っていた名残りで、駅が中泊町の暮らしを支えていました。生協が撤退してからは長らく空きテナントとして放置されていましたが、近年になって観光案内センターと食堂(ちゃんこ食堂?)が入店しています。

津軽中里の駅前に出て、中泊町の中心街を歩く。中泊町は、青森県津軽半島の中心部にある街で、コメを中心とした農業と、十三湖でのシジミなどの内水漁業が産業の中心となる街ですが、1985年は2万人近くいた人口も、今や1万人を切っており9,000人とちょっと。急速な過疎化が続いている。目抜き通りには人の姿はなく、閉まった看板建築のようなスーパーマーケットと、なぜか個人経営の床屋ばかりが店を開けていた。通りすがりに明らかに潰れたパチンコ屋のような建物があって、「ああ、こういう街も昔は元気な農家のオッサンが朝の仕事を終わらせてパチンコ打ちに来てたんだろうなあ」なんて眺めていたら自動ドアが開いて、中を見たら津軽オババたちが大騒音に巻かれながらガンガンに銀玉を打ち込んでいた。現役なんかい。

お昼は駅から徒歩10分くらいの場所にある「やよい寿司」さんへ。平日の昼間だから大して混んでないだろう・・・なんてタカをくくっていたのだが、座敷に団体さんが入っていてなかなか忙しそう。加藤一二三似の柔和なおじいちゃん大将が「ちょぉっと今日は混んじゃってて・・・おひとり?おひとりならカウンターでいいですか?お待たせしちゃうかもしれないけど・・・」と津軽訛りで恐縮されながらカウンターの隅に通される。奥さんらしき人がおしぼりと麦茶を持ってきて、「すいませんねぇ、新聞でも読んで待っててけさい」と東奥日報の朝刊を置いて行った。カウンターの中で団体客のすし桶にせっせと寿司を握っては詰めて行く大将。テレビを見ながら東奥日報を眺め、麦茶を2回くらいお代わりして30分くらいはかかったろうか、どうせどのみち次の五所川原行きは1時間半後だ。急ぐ旅でもない。

名物のラーメン定食。具に揚げ麩の乗ったさっぱり鶏ガララーメンと、シャリ大きめの寿司10カン。これで1,000円ポッキリ。値上げ前はこれが800円で食べられたというのだから、何ともお値打ちな話である。寿司ネタは、マグロの赤身、中トロ、シメサバ、サーモン、イカ、玉子にカニの身、白身はタイかな。そう高級なものが入っているわけではないけれど、昼飯に回らない寿司をいただくというのも気分がいい。「それね、端っこのやつ、生のクジラの握りなんですよ」と大将的な今日のポイントの説明があって、さっそく醤油にくぐらせ口にしてみると、トロッとした中に鯨らしい血の香りと僅かなアクセントがあってなかなか美味い。昼時の団体が入っていて忙しい中、奥さんはラーメンを作り大将は寿司を握り、お互いに忙しく駆け回っている。夫唱婦随の北の寿司店は、なんだかんだとアットホームなお店。ちょっとシャリが柔かったのは、待たしてるお客さんに急いで出さなきゃ!とペースを上げて握ったじいちゃんの奮闘努力の跡だと思うことにします(笑)。

寿司とラーメンでお腹を満たして、梅雨のじっとりとした空気の中を津軽中里の駅へ戻る。まだまだ帰りの列車の時間には早く、駅の周辺をゆるりと回ってみる。駅の近くの踏切から津軽中里の駅を望めば、一面一線のホームのほかは赤錆びた機回し線と転車台が黄色い草花に覆われていて、本州というより北海道のローカル線の終着駅のような寂寥感がありました。津鉄のレールは十三湊へ伸びることはなく、ここで半島の丘陵地にぶつかって、「はい、おしまい」とでも言いたげにプツリと終っていて、構内を埋め尽くすセイヨウタンポポだけが、半島を吹く風に鮮やかに揺れていました。

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ストーブも、客車列車もないけれど。

2024年06月27日 22時00分00秒 | 津軽鉄道

(津軽の第二のターミナル@JR五所川原駅)

新青森でレンタカーを借り出し、国道7号線を弘前方面へ。そのまま弘前へ向かっても良かったのだけど、大釈迦峠を越えて国道を右に折れる。津軽平野を西に走ること30分ほど、津軽第二の都市・五所川原駅前へ。JR五能線の五所川原駅、平屋建てで横に長い駅舎は、最近の不動産賃貸業と化したエキナカビジネスを中心とした駅の作りとは一線を画した昭和のそれであった。五所川原市は津軽半島の付け根に位置する人口5万人程度の都市ですが、青森のねぶた祭りを超えるとも言われる立佞武多(たちねぷた)や津軽三味線、太宰治の故郷である金木の街や、春は桜の芦野公園、そして冬の地吹雪などで観光的にも非常に有名な都市でもあります。

そして、五所川原と言えば何と言っても「ストーブ列車」の津軽鉄道。津軽鉄道は、ここ津軽五所川原駅から津軽中里まで約20kmを走る本州最北の民鉄。津鉄の津軽五所川原駅はJRの駅舎に向かって左側に建っており、決して新しいとは思えない五所川原駅に比べても、遥かにレトロ度合いが高い。ちょうど津軽中里からの上り列車が到着したらしく、みのもんた風に言うところの津軽のお嬢様(笑)が駅舎から出て来て立ち話。女性三人寄れば姦しいと申します。何を言っているのかは全く分からなかったが、迫力ある津軽弁である。五能線は「リゾートあすなろ」なんかで完乗しているのだけど、津軽鉄道はロストしたままそのまんまになってしまっていたんですよねえ・・・と言う訳で、地方私鉄探訪の一環として津鉄に乗りに五所川原まで来たんですが、本来だったらやはり冬に来るべき場所なのでしょうね。「お前なあ、なんでこんな季節に来るんだよ。ストーブ列車でスルメ焼いて、燗酒をチビチビと呷って、地吹雪に吹かれてシバれる思いをしないで、津軽鉄道の何が分かるというのだ!」と言われたらぐうの音も出ない。残念ながら季節は真逆の初夏。しかもこの日の津軽地方、雨こそ降らなかったものの梅雨入り直前のムワムワとしたガス晴れで、額にはうっすらと汗がにじむほどの陽気なのであった。

JRは五所川原駅。津鉄は「津軽」五所川原駅。津軽鉄道、あまりにも冬場の「ストーブ列車」が有名過ぎて、夏場には何をしているのか全く知らなかったのだが、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車なるものをやっているらしい。正直、それにどこまでの観光客の誘因効果があるのかは分からないのだけど。改札口の上にはたいそう年代物の時刻表が掲げられているのだが、「令和五年四月一日改正」とあるように普通に現役で使用されているのだから恐れ入る。この手の時刻表、まだ書き手の人がいるのだなあ・・・ということに感心するのと、同時にタテ列の数に比べると本数の少なさが侘しくもある。手元にあった1988年当時の時刻表をめくってみると、当時は津軽五所川原~津軽中里に23~24往復の列車が走っていて、この時刻表いっぱいに黒々と文字が並んでいたんだろうな。1988年と言えば青函トンネルが開通した年でもあり、津軽地方が一番脚光を浴びた時期でもあるのですけど・・・

ホームへ向かう古びた跨線橋。津軽鉄道は、広い五所川原の構内の東の端から出発していて、長い跨線橋からホームに止まっているオレンジ色の気動車が見えます。以前は、国鉄払い下げのキハ22などの耐寒耐雪車両で運行されていましたが、現在では新潟鐵工所製のNDCである津軽21形に統一されている。いわゆる「非電化三セク」でよく見る新潟鐵工所のNDCシリーズですが、この津軽21-105は2000年に投入された最新型ですね。とはいえ2000年ですから、もうデビューから四半世紀が経過しているのですが。ホームでは、運転士氏と、車内での観光案内やグッズ販売を担うアテンダントさんが、跨線橋を降りて来る乗客たちを温かく迎えておりました。

津鉄の津軽五所川原駅は、機関区を備えた文字通りのターミナルでありますが、機関区で休む現役の気動車たちに混じって、側線には廃車となって打ち捨てられた車両が大量に放置されています。昔の地方私鉄の車庫なんて、どこでも廃車体がそのまま側線に押し込められて倉庫代わりに使われていたりすることは珍しくもありませんが、最近はそういう「骨董品」探しの出来るトワイライトゾーン的な案件も珍しいですよね。昔は、五所川原市内をはじめ沿線の高校へ大量の学生たちを一気に輸送する必要があったことから、朝のラッシュ時や下校時は収容力の大きい客車による通学列車が運行されていました。厳しい冬の寒さの中を走る津鉄の客車列車、機関車に暖気注入(SG)の装置があれば、客車へ暖気を送り込んで車内を温めることが出来るのですが、津鉄の機関車はSGの装置を備えていません。そこで、冬場の暖を取るために車内に据え付けられたのが、石炭を使ったダルマストーブ=ストーブ列車。屋根の上にちょこんとT字型の煙突を乗せた、そんなストーブ列車の廃車体を見ながら、津鉄のキハは津軽五所川原の駅を発車するのでありました。

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梅雨晴れの 津軽弾丸 2Days。

2024年06月23日 21時00分00秒 | JR

(いくぜ、東北@東北新幹線はやぶさ49号)

GWからこちら、粛々と仕事に勤しみ、趣味の方は小商いはありましたがまあとりたてて何があるというもんでもないという感じの毎日。GWから夏休みの間、特に6月って元々祝日もないから何を目標に過ごしていけばいいのか分かんないところありますよね。ということで、土曜出勤の代休を使うことに決めたのが水曜日。どこに行こうか?と考えて、西かなあと思ったのだけど、どうも天気が悪そうだ。天気予報を見ると、仙台より北は天気がまあまあっぽい。じゃあ北かな。そう言えばこの時期、株主総会を控え6月30日期限の株主優待乗車証が安売りされる時期であったことを思い出し、横浜駅近くのチケ屋で2枚で4,000円のJREの優待乗車証をゲットし、その足で横浜駅のみどりの窓口へ。横浜〜新青森片道18,000円×2=36,000円から株主優待40%引きで10,790×2=21,580円。36,000円-21,580円+株主優待4,000円=10,420円のオトク。約29%の割引という、この時期の株乗の旨味である。

ホントは西に行く気分だったんよ。でも天気が悪そうだから北になった。行き先なんて最終的に決めるの前の日だし、決める理由がこんな具合なので、全くもって一人で出掛けるのが性に合っている。朝4時に家を出て、東京駅に到着したのは5時50分頃。そう言えば、新幹線に乗るのは2月に福井へ行った時以来である。あの時はかがやき501号の金沢行きだったけど、今は行き先も敦賀になっていて・・・今日はそれより一本前のはやぶさ49号新青森行き。週末を中心に仕立てられるE7系の臨時列車。東北新幹線に乗るのも相当久し振りな気がするな。昔はよく夏に東北一周なんかやってたけど、あん時は鍋カマ積んでクルマで行ってたし。

代休を使い、新幹線に乗って、一泊二日の旅行・・・とふと考えて、世の中。特にご家庭を持たれている方というのは、年間に何回くらい一人で泊りがけの旅行に行くものなのだろう。そもそも、旅行は家族で行くものであって、一人で行くもんでもないでしょう・・・という意見もありそうだ。そして、「タンスにゴン」じゃないけど、ある程度子供も大きくなったら休みの日に家にいられるよりも「亭主元気で留守がいい」みたいな感覚にもなったりするのかしら。そうであるならば、どんどん元気で留守にしたい今日この頃(笑)。まあそれにしても新幹線は速いね。特に速達タイプの停車駅の少ないヤツだからなおさら。ちょっとおにぎり食べてたら宇都宮をを過ぎているし、スマホいじくってたら福島を見落としたし、朝のトイレに並んでいる間に仙台だし。すっ飛んで行く東北の景色は、眺めているというよりは網膜の中を記号のように流れて行って、何回か北上川を渡って盛岡を過ぎたら轟々とトンネルだらけ。二戸八戸七戸十和田を過ぎたらあっという間に終点の新青森だった。

東京駅から3時間17分、はやぶさ49号は終点の新青森に到着。それこそ、国鉄時代は寝台特急はくつる・ゆうづるが一晩かけて走って来た北への鉄路を、ハヤブサの翼はあっという間に飛び越してしまう。ツルのスピードとハヤブサのスピードってどれくらい違うのかは分かりませんが、鉄道の場合は6時間くらいの短縮効果があるようです。新青森の駅、津軽海峡方面のアクセスを考慮して青森市街の西はずれに作られているのだが、駅の周辺は特段に何にもなくて、出来かけの新興住宅地みたいなだだっ広い空き地が目立つ。青森駅の、あの演歌の世界を煮占めたような「夜行列車・連絡船・酒と涙と男と女と別れと出会い」みたいなウエットな雰囲気は微塵もないけれど、これが北海道新幹線開通後の青森の新しい形なんだろう。なんかね、こっちもあっという間に着き過ぎて「ホントにここは青森なんかい?」とキツネにつままれたような気分になってしまうよね。移動速度に心が追い付いてないというか。

今回は、約5年ぶりの津軽の鉄道巡りもしたいけど、折角津軽に来たならばやっぱり温泉巡りもしたい。そうなると、やっぱり鉄道だけだとアクセスに時間がかかり過ぎてしまうので、株主優待券で浮いた分をそのままレンタカー代にぶち込みました。今回はスズキのSOLIOだった。ロールが大きい割にパワーねえなあ、という最近のコンパクトカーにありがちな乗り味でしたが、贅沢は言えません。ETCカードを忘れてしまったのは不覚だったが。

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全てはレールをつなげるために。

2024年06月20日 22時00分00秒 | 銚子電鉄

 (通票ヨシ!@仲ノ町駅)

通票閉そくでの運行が維持されている銚子電鉄。仲ノ町から笠上黒生の間では四角の通票、笠上黒生から外川の間は三角のスタフを使用しています(仲ノ町から銚子は自動閉そくのため通票・スタフともなし)。そのため、仲ノ町は棒線駅でありながら地上職員との間で通票の受け渡しが実施されます。GWでは、増発した臨時スジに充当されていた南海カラー。大勢の観光客と、増結に南海カラーが入るということを目ざとく掴んだ鉄道ファンでいっぱい。角ズームは、銚子電鉄でも南海時代同様に22000系のナンバーを貰い、銚子方から22007-22008の番号が付番されています。

銚子電鉄、オーナー会社であった内野屋工務店による横領事件と使い込みによる資金枯渇で経営危機を迎えてから既に20年弱が経過しているのですが、東日本大震災、新型コロナとその後も経営的には幾多の荒波もあったと思われるのですが、そのたびに主軸である「ぬれ煎餅」の全国的な販促や、「まずい棒」やイワシのつくだ煮などの食品事業、レトロ電車や駅名のネーミングライツなどの何がしかの話題性のある打ち出しと、売れるものは何でも売って一円でも稼ごうとするそのがっつき根性で何とかしています。鉄道事業を片手間にして、エキナカ事業や不動産開発、テナント事業にうつつを抜かす鉄道会社が跋扈するなか、本来であれば「鉄道会社は多角化せずにまずは本業である鉄道事業を大事にしろや!」なんて思うことも多いのですけど、銚子電鉄に限ってはそこらへんのノーボーダーなところはむしろ頼もしい。別事業で稼ぎ出す資金が、鉄道事業の明日のレールを繋いでいるからだ。壁に掛かった大きなチリトリ。これは、ぬれ煎餅の醤油ダレが入っている一斗缶で作っているもので、長らくの銚子電鉄名物である。ここへ来て売りものになっているとは知らんかったが、売れるものは何でも売るという銚子電鉄らしさここに極まれりという逸品。しかも今回導入の南海カラーだからな。思わず財布からお金を出しそうになってしまった。電車で来たことを考えて自重してしまったのだが、クルマでの訪銚だったら購入していたかもしれん(笑)。

初めて来た頃は伊予鉄流れのデハ801が、鼻詰まりがするような大きなツリカケ音を響かせ、キイキイと制輪子を鳴らしながら到着していた岬のとっぱずれ。あの頃とそんなに変わらないローカルムード満点の、外川の駅に佇む22000系。銀座線が桃太郎電鉄のラッピングになったり、伊予鉄からやって来た京王が走ったり、笠上黒生で脱線事故があったり、そしてコロナで減便となったり・・・色々と社会の趨勢と環境が変わる中で、今度はあの頃の懐かしきグリーンを纏った南海電車が走るというサプライズ。方向幕じゃなくてぜひ南海電車らしい「丸看」を掲げて、銚子~外川を往復して欲しいものです。

そうそう、南海の新車に続いて、銚子電鉄さん、ぬれ煎餅の工場に新しい機械を入れたらしい。積極的な設備投資は結構な事である。ただ、あんまり良い機械入れてしまうと昔売ってた「はねだし」みたいな規格外品は出なさそうでちょっと寂しいかなあ(笑)。 不揃いの形の濡れせんべいに、これまたムラに醤油が染み込みすぎて鬼しょっぱいヤツが入ってたりするんだけど、それを軽く炙ってマヨ&七味が最高にビールのアテで。美味かったんだよな。

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鷹の羽ばたき、岬へと。

2024年06月16日 20時00分00秒 | 銚子電鉄

(グランド照らす太陽の・・・@銚子電鉄・仲ノ町駅)

GW前半戦は福島に行って阿武隈急行と福島交通を探訪して来たのだが、GWの後半は受験勉強と部活でほぼ全てを潰す勢いの子供から、唯一開いた一日に「どこかへ連れて行って欲しい!」というオーダーを受けたので日帰りで銚子電鉄に。銚子に行くのもだいぶ久し振りの話である。成田回りで電車で行ったのだが、カシマスタジアムでJリーグの試合があったようで、成田から佐原まで鹿島サポでもみくちゃになった。さすがのGWである。というか、銚子って遠いんだったっけ。千葉からでも二時間かかりますからねえ。209系の固い椅子にお尻が悲鳴を上げる頃合い、ようやく到着した銚子の駅。弧回り手形を買って仲ノ町に出れば、2024年・銚子電鉄の期待の新車「シニアモーターカー」こと銚子電鉄22000形(元南海電鉄2200系)が出区準備に入っておりました。

元々は南海高野線の橋本から先の極楽橋まで、山岳区間を走る初代ズームカーこと21000系の増備用として作成されたこの車両。湘南二枚窓の丸みを帯びたデザインの初代からは一線を画し、標準型の箱型車体は初代に対して「角ズーム」と呼ばれました。高野線運用から降りた後は、2連ユニットで製造された強みを生かして多奈川線や汐見橋線などのローカル支線運用に就いていたのですが、伊予鉄からの譲渡車の老朽化によって代替車両を探していた銚子電鉄へご縁があっての譲渡となりました。今回譲渡を受けたのは2202-2252号の2連1編成。関東の私鉄で関西私鉄の車両が走ること自体が非常に珍しいことですが、その外装もグレーとブルー&オレンジのラインを基調とした南海色から、南海でのデビュー当時と同様の濃淡のグリーンの塗り分けに戻しています。関西私鉄のオールドファンは感涙モノの塗装変更でしょうなあ・・・それゆえに鉄道マニアの関心も非常に高く、2024年3月にロールアウトしてからは、多くの鉄道ファンを銚子に向かわせる原動力となっています。

ちなみに、今回銚子電鉄へ譲渡された南海2200系の2202-2252号車ですが、南海時代に汐見橋線で乗ったことがあります。記録を見ると、2015年(平成27年)8月とあるので既に9年前のこと。夕暮れ迫る汐見橋の駅から岸里玉出まで、大阪のダウンタウンを少ない乗客たちと揺られたことが印象に残っている。南海の汐見橋線、便宜的にこう呼ばれてはいますが実際は南海の高野線の一部。高野線由来の角ズームが静かに余生を過ごすには相応しい「都会の中のローカル線」という雰囲気であったのだが、よもや千葉県の銚子で再び会うことになるとは思わなんだ。都会の中のローカル線から、岬を目指すローカル線へ。製造年は1969年(昭和44年)で、御年55歳と既に若くはない身。通常の会社なら、そろそろ昇給も止まり子会社への出向なども考える時期ではあるのだが、降って沸いたような別会社への転籍話。いやはや、さすがに本人も南海に骨を埋めるつもりだったと思われるのだが。

銚子方助手席側に置かれた「NANKAI」のユニホームレプリカ。ビジター用だね。デビッドとか門田とかがクリーンアップだった時代のイメージだわ。「グランド照らす太陽と 意気と力をこの胸に・・・」と、思わず「南海ホークスの歌」を高らかに歌い上げたくなってしまうねえ・・・この角ズームも、高野線をブイブイいわしてなんば~高野山への大運転へ繰り出していた時代は、意気揚々となんばの駅に滑り込む際に大阪球場のカクテル光線の輝きを見ていただろうか。当時の南海、二軍の球場と選手の合宿所が高野線の中百舌鳥にあったので、ひょっとしたら選手もこの車両を使って球場への移動なんかをしていたのかもしれない。私がライブで見ていた南海ホークスは、その大半が杉浦監督時代の晩年なんだけども、南海が身売りを決めて福岡へ旅立ってしまってから35年以上過ぎているのだから、もう「プロ野球チームとしての南海」をリアルタイムで知っている人も少なくなってきている。「レイルウェイズ」というのは、三浦友和が出て来る電車の運転手のお話ではなくて、南海・阪急・近鉄が雑に十把一絡げにされた最強混成チームのこと。代打いしみね、代打かどたは反則なのであった。

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