青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

上信を 見守り高き 大鳥居。

2021年07月31日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(自社発注車の誉れ@千平~下仁田間)

千平の辺りを行ったり来たりしながら撮影を続けていたら、高崎方面から6000形がやって来た。車両の近代化推進のため、1981年(昭和56年)に1編成のみが新潟鐵工所で製造され、投入された車両です。大きな一枚窓に、トラックを思わせる独特のフロントグリルは、上信電鉄のイメージリーダーと言っても過言ではない車両ですよね。今は群馬日野自動車のラッピング広告車になっていますが、「HINO」なんて書かれてっから余計にトラック感が増すよね・・・(笑)。

千平の里山を、下仁田に向けて下って行く6000形。ラッピング広告を纏って長いんですが、デビュー当時はブルーとオレンジのサイドラインを上下に配していてとてもスタイリッシュだった。私鉄マニアのバイブルとも言える「日本の私鉄(保育社)17 北関東・東北・北海道編」の表紙を飾っているのがこの車両で、それだけ耳目を集める画期的な車両だったんですよね。「昭和50年代地方私鉄の自社発注車」と言えば富山地鉄14760形がフラッグシップだと思うんだけど、1編成とは言えこの上信6000形も、外見の斬新なデザインと車内にはセミクロスシートを備え、デビュー当時は急行電車として下仁田~高崎を36分で結ぶなどエポックメイキングな車両でした。

そんな貴重な貴重な地方私鉄の自社発注車。折角運用に入ったならば、しばらくはこの編成を追い掛けることとしよう。どうもこの日は運用の巡りが悪く、高崎~下仁田を一往復半するだけで昼過ぎには下仁田で滞泊留置となってしまう模様。千平から転戦した神農原の田園地帯。遠くの山並みに千切れ雲浮かび、太陽が燦々と照り付ける西上州。好きと好まざるとにかかわらず、この風景の中で強制的に夏を摂取しながら6000形を待つ。

四季折々、背後の山並みや田園風景が色々な姿を見せてくれる宇藝神社の大鳥居。あまた長きに亘り上信電鉄を見守り続けて来たであろうその大鳥居のたもとは、この鉄道の中でも一番好きなスポット。ここで6000形を丁寧に迎え撃つ事に致しましょう。梅雨明け十日の空は青く澄み渡り、青々とした稲田を渡る甘い熱風。全てが揃ってまっこと正しきニッポンの夏、西上州の夏。その中を颯爽と走り抜ける独特なデザインの自社発注車。頭の上からチリチリと真夏の太陽に焼かれながらゲットした一枚は、これぞ上信電鉄、という夏の一枚。いかがなもんでしょうか。

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リバイバル ああ上州の 思い出や。 

2021年07月29日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(終着駅の一つ前@千平)

鏑川の河岸段丘上に開けた台地が潰える場所にある千平の集落。古びたコンクリートで固められたホームに、懐かしい色を纏った新型電車がやって来た。かつての上信電鉄の標準色だった、コーラルレッドに紫の帯を纏ったこのカラーリング。新しく導入された700形にも、リバイバル的な立て付けでこの塗装が施されています。千平の駅から、街へ出る乗客の姿にホッとする。何にせよ、乗客の姿があるのは有り難いことです。

上信電鉄のリバイバルカラーに塗られた705F。うん、いい意味で絶妙な垢抜けなさがいかにも地方私鉄っぽくて非常に宜しいですな。ヒマな大学生時代、夏休みにふらっと18きっぷの余り券で高崎に競馬やりに来た時、駅の西側にあった上信の車庫にはこの色の車両がゴロゴロしていた記憶がある。まだ高崎も長野新幹線開通前で、特急あさまとかがバンバン走っていた頃だ。若き頃は地方の公営競技を巡りながら旅打ちに勤しんでいた人生であったが、その頃の道中をあまり写真に収めていないのが今思うと悔やまれる。当時は親に借りたキャノンのオートボーイというカメラを使っていたんだけど、今みたいにデジタルで腐るほど連写して映りのいいものを適当に・・・という訳にも行かなかった。安いフィルムを詰め、現像代を惜しんで、一枚一枚大事に撮っていたのを思い出した。

思わず、本棚にしまい込んでいたアルバムを引っ張り出す。高崎競馬、もう廃止されて随分長い事経っているんだなあ。馬券的には相性が悪い競馬場であったが、500円で入れる安い特観と、大きな木の生えた狭いパドックが懐かしい。なんか上信のリバイバルカラーからぜーんぜん違う話になってしまった。そう言えば、未だに高崎駅の南側の道路は「競馬場通り」って名前がついてっけど、もう競馬場があった事を忘れてる人も多いんじゃないのかねえ。写真に添えられたメッセージには、1995年8月15日とある。草競馬に遊び、旅打ちを無頼に気取っていた若かりしあの頃。パドック裏の食堂で売ってるシケた焼き鳥を齧りながら、強い日差しを浴びてパサパサに乾いた白いダートの上を走る馬を見ていた、26年前の終戦記念日の記憶である。

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山裾の 祠昔を 語りおり。

2021年07月27日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(夏色の踏切@千平)

夏空が広がる千平の集落。この小さな踏切は、中山道の脇往還であった下仁田街道の踏切です。千平から先は、下仁田の小盆地を囲む山が鏑川に迫り、深い深い渓谷を形成しています。上信電鉄はこの深い谷を避けながら、渓谷の桟道をしがみつくように下仁田へ下って行きますが、下仁田街道は盆地を囲む前山を大きく登って、峠を小さなトンネルで越えて行きます。ちなみに千平の踏切から先の山越えルート、街道と言ってもなかなかの隘路で、あまりお勧めしないですね(経験者談)。

千平~下仁田間の地形図。吉井、富岡と続いて来た鏑川の河岸段丘上の台地が千平付近で終わり、ここから線路は鏑川と西上州の山の縁に沿って下仁田へ向かって行くのが分かります。上信電鉄の前身である上野鉄道がこの地に鉄路を敷設したのは1897年(明治30年)のこと。全国の鉄道の中でも、この地域に鉄道が通ったのは相当に早かったんですけど、1872年(明治5年)に富岡製糸場が官営工場として開業してるんですよね。外貨獲得のための生糸の輸出は日本の重要な産業だったそうで、国策としての要請もあったのではなかろうかと。

このお社は小さいながらも金毘羅宮の名前があり、集落の人々が五穀豊穣や鏑川を往く船の安全を祈願していたらしい。金毘羅さんは船の神様ですからねえ。昔はもう少し先の下仁田寄りの山の中にあったのだけど、上野鉄道が通るルートの上にあったもんだから、移設してここ千平の集落に祀り直したんだそうな。この金毘羅宮、今でも上信電鉄が管理している旨が銘板に書かれており、周りもこざっぱりと調えられていて、紫陽花がきれいに咲いていた。

千平の踏切の脇のお社を抜けて行く、元西武新101系。少し前の上信は、自社発注車と西武から持って来た電車の2グループで構成されていたような気がしますが、JR107系の一括購入(6編成)により、旧来の西武401系やら701系の種車はだいぶ駆逐されてしまった感じがします。今も元西武で残ってんのはこの新101系が2編成くらいというのだから時代は変わりましたな。側面の緑ストライプはそのままに、「ぐんまちゃん号」としてラッピングされた11レ。小さなホーンを軽やかに鳴らして、千平の集落を走り去って行きました。

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朝日射す 八幡様の 水清く。

2021年07月25日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(駅猫の朝餉時@山名駅)

沿線の風景を巡りながら、気に入ったもの、気になったものを丁寧に拾っていく。もとより、何かこの列車をここでこう撮りたい!という明確な意思がない場合の多い自分の撮影行。烏川と鏑川の合流地点の開けた田園地帯にある山名の街。高崎の駅から烏川と観音山丘陵に沿って南東に下った線路は、山名の辺りでグイッと西に針路を取り、ここからは鏑川に沿って富岡や下仁田方面へ向かいます。山名の駅は下見板張りの水色の木造駅舎。誰が餌付けをしているのか、駅猫が朝餉の真っ最中。

山名駅は、駅裏にある山名八幡宮の最寄り駅。山名・・・と言うと、歴史が好きな人なら応仁の乱を起こした山名宗全の名前を思い出すでしょうか。室町時代の末期、足利氏の弱体化が進む中で起こった細川氏と山名氏の東西軍による戦乱は、やがて世相が戦国の世に突き進むきっかけとなった歴史上の出来事。その山名氏のルーツは、ここ上野国の八幡荘山名郷にあります。山名八幡宮は、室町時代にこの地に置かれた山名城を収めた世良田氏の勧進により建立されたとの由。

参道の手水舎に、清冽な水が流れる。青々とした笹の葉が沈められていて、見た目にも涼やかな感じだ。本当ならば、柄杓で掬って手を清めるところなのだろうけど、新型コロナの昨今は感染症対策で柄杓が撤去されている神社仏閣が多いんだよな。冷たい水で手と顔を清めて、少しお参りして行こう。

八幡宮の参道は、県道から真っすぐに上信電鉄の線路の下をくぐって神社に向かって続いている。木々の間から差し込む強い日差し。まだ朝の7時なんだけどなあ。残念ながら、猛暑は確定と言った感じの山名八幡宮の参道。苔生した階段を登って本殿へ。

山名八幡宮は、世良田氏が当時の後醍醐天皇の孫である親王様夫婦が子供を授かった際、この神社に安産を願ったという謂れから、安産と子育ての神様として信仰を集めています。確か、前に来た時は秋の時期で、七五三にお参りに来る家族連れが大勢いたのを覚えてるなあ。ひとまず、もう安産を願う事はないけども(笑)、子供たちの健やかなる成長と疫病退散、そして撮影行の安全を祈願して。なんかお守り御札の類でも買って帰ろうと思ったんですけど、朝早すぎて社務所が開いてなかったよね。

お参りを終えて駅に戻ると、ちょうど高崎行の電車が山名駅に進入して来た。700形の群馬サファリパークのラッピング広告車。このラッピングも上信伝統だなあ。前は西武の101系の譲渡車がこのラッピングを担当してたんだよね。ちなみに、このゼブラの柄はずーっとシマウマだと思ってたんだけど、ホワイトタイガーなんだってね(笑)。あと、群馬サファリパークのマークは妙に新日(新日本プロレス)っぽいのは昔から気になってはいる。

サルスベリ(百日紅)咲く、八幡様の踏切。このショッキングピンク的な鮮やかな花の色も、タチアオイと並んで夏の雰囲気を盛り上げる名脇役と言った感じ。朝のホワイトタイガーが高崎に向けて行進を開始。駅ごとに、乗客という獲物を捕まえて目的地に送り届ける、上州のハンタートレイン。夏の朝、空に花火か、百日紅。

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かみつけの 佐野の舟橋 継ぐ歴史。

2021年07月23日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(続いて行く物語@佐野橋)

お国様が「不要不急の外出」を戒めるために、高速道路の休日割引を適用していただけなくなった昨今。しょうがないので深夜割引にギリギリにかかる早朝に圏央道のインターをくぐり、上信越道の藤岡のインターまでやって来た。言うて北関東なので、そんなに朝早く出てくることもなかったのだけど、一日かけてじっくりと撮るには、朝から沿線に立つに限る。久々の訪問となった上信電鉄とのファーストショット、どこで撮ろうかと目星を付けていたのは、高崎市郊外の烏川にかかる佐野橋。ここは、木造の人道橋が上信電鉄の鉄橋と並んで走る名スポット。この橋、鉄製の橋桁の上に木橋を乗せていて、大水や洪水の際は浮いて流れる事が前提のいわゆる「流れ橋」。近年では令和元年の台風19号で流れてしまったらしいのだけど、普通の道路橋より圧倒的に修復しやすいという利点により僅か9ヶ月で復旧に漕ぎ付けています。烏川は、碓氷峠北方の上信国境の山々を源流に、神流川から利根川に流れ込む群馬県の一級河川ですが、たびたび大雨や台風で水害を起こしているそうです。

上州富岡発5時半の高崎行き始発電車、橋を渡って行くのはJR時代の107系の塗装をそのまま使っている704-754のコンビ。最近知ったんだけど、この107系色って「ハムサンド」なんて言われてるんですってね。【白(パン)・緑(キュウリ)・桃(ハム)・白(パン)】という彩りの重ね合わせ、というのが理由らしいですが、鉄道ファンというのはこの手のモノのたとえが上手と言うか、何とも言いえて妙と申しましょうか(笑)。この辺り、烏川を渡る橋が周辺の上・下流延べ3kmに亘ってなく、佐野橋は高崎市街側の佐野町と対岸の城山・寺尾町方面を結ぶ重要な交通路。私が写真を撮っている最中にも、自転車に乗った学生や、犬を散歩がてらの人や、新聞配達のバイクなんかが思い思いにこの橋を渡って行きます。

高崎で折り返し、戻って来たハムサンド。木橋の欄干にハムサンドを挟んで。佐野橋の歴史は古く、万葉の時代からこの辺りには繋げた木船に板を渡した「佐野の舟橋」というものがあったそうで、江戸時代には「上州の奇橋」として葛飾北斎にも描かれた由緒ある橋です。橋の向こうに見える高架橋は上越新幹線の高架橋。木橋、鉄橋、PCコンクリートの高架橋と、時代によって様々な橋の歴史を見る事が出来ます。

遠くに高崎の白衣観音と観音山丘陵を望む佐野の木橋。歴史ある橋らしく、昔から佐野橋には橋にまつわる民話が伝承されています。橋を挟んで住む村の男女が恋仲となったのですが、その仲を良く思わない者が舟橋の板を外した結果、二人は夜の逢瀬の際に誤って川に落ちて溺れ死んでしまったのだそうです。その物語は、万葉集に「かみつけ(上野)の 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」という歌として残されていて、悲恋の物語を今に伝えています。佐野の舟橋の板が取り外され、親は私たちの仲を裂こうとするけれど、私達の仲を裂く事は出来ない・・・と、そんな意味なんでしょうかね。

上信電鉄と、佐野橋から振り返る上野国の民話と伝承。もとよりこの上信電鉄沿線は、上野三碑や富岡製糸場、そして上野国の一之宮である貫前神社など歴史にゆかしい名所旧跡の多い土地。そんな沿線の魅力をラッピングに込めたのが上信電鉄の最新鋭車両7000形。富岡製糸場の世界遺産登録に合わせ、輸送力増強のため群馬県と国の補助金で投入された車両。たった1編成、しかも自社発注の一品モノの貴重な車両です。

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