青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

馬面の 信夫文知摺 永久に。

2024年05月31日 17時00分00秒 | 福島交通

(バスなのに、駅?@福島交通掛田駅)

さて、春の阿武急&福島交通探訪ツアー、阿武急の線路際を少し離れて、伊達郡の旧霊山町市街にやって来ました。現在は伊達市に組み込まれていますが、古くから「修験者の山」として信仰の対象となっていた霊山(りょうぜん)の麓の街。その町の中心地がこの掛田(かけだ)という地区なのですが、大通りに面した福島交通のバスターミナルとなっている営業所の事務所兼待合室は、木造の鉄道駅舎のような構え。よくよく見ると、建物の入口に掲げられた看板には「掛田驛」の文字が読めます。ここは、かつての福島交通軌道線の終着駅・掛田駅でした。福島交通の開業90周年記念事業として、鉄道が通っていた頃の姿に復元。建物の内部を「軌道線ミュージアム」とし、当時の鉄道備品や写真を展示。その記録を後世に残す取り組みが進められました。

福島交通軌道線。日本鉄道が明治20年に福島へ鉄道を開通させたのち、鉄道が通らなかった現在の保原、梁川方面への路線として明治40年に開設された「信達軌道」が前身となります。開業当初は蒸気機関の軽便線でしたが、大正年間に後の富山鉄道の創始者である佐伯宗義の尽力によって狭軌への改軌と電化をおこない、「福島電気軌道」として再スタート。福島駅前から当時の国道4号線(現在の県道国見福島線)を通り、途中の長岡分岐点(現在の福島信金伊達支店前)から伊達駅前・湯野町方面へのルート、国道399号線に沿って保原から梁川に向かうルート、そして保原からここ掛田へのルート、総称して「飯坂東線」と呼ばれる3つの路線が信達平野の町や村を結んでいました。信夫山の東から阿武隈川の右岸へ、鉄道が通らなかった信達平野のインターアーバンとして、昭和46年(1971年)まで走り続けたのですが、廃止に至るには、お決まりの「モータリゼーションへの変化により渋滞の元凶となったため」という文言が添えられています。福島駅前から長岡分岐点までの約10kmがずっと併用軌道で、クルマの数が増えれば何かと軌道線は目の敵にされ・・・という流れ。ちょうど昭和40年代は日本中で路面電車が廃止されるムーブメントの真っただ中。バイパスが出来る前の国道4号線は未改良で道幅が狭く、車両が大型化出来なかったのも痛かったようです。昭和46年の軌道線廃止以降、伊達・保原地区に鉄道が走るのは、昭和63年の阿武隈急行の開通まで、約17年のブランクを数えることになります。

そんな掛田駅のバス営業所の片隅に、かつて福島交通軌道線で走っていた1115号車が保存されています。福島交通の90周年事業として、軌道線の廃止以降同じ霊山町内の遊戯施設に保存されたものの、雨ざらしで十分なメンテナンスもおこなわれず朽ち果てようとしていた車両を徹底的にレストアして移設したものです。明るい空色のボディと、窓回りを少し赤みの差したベージュでまとめたカラーリング。何となく箱根登山鉄道の軌道部門だった小田原市内線の車両とカラーリングが似ていますね。おへその一灯ライトと、華奢で細身の体が特徴。

先ほど「国道4号線が狭くて車体が大型化出来なかった」と書きましたが、真正面から見ると確かに車体の細さが際立つ。薄さで言えばおかんが切るカステラのようでもある(笑)。名鉄の岐阜市内線とかも、美濃町線方面は道路が狭くて車体の横幅が増やせず、細身の電車が多かったように思う。岐阜市内も道が狭くて、仕方なく警察が軌道内に車両の通行を許可していたんですけど、常時自動車の右折渋滞に巻き込まれ市内線が定時性を喪失。要因は他にもあるんですけど、結果的に路面電車衰退の後押しの一因ともなってしまいました。排障器の前に鎖で吊るされた救助網は、歩行者保護のため常時このスタイルで走っていたようです。それで、よく見ると連結器が朝顔形なんですね。貨客混合列車なども牽引していたのでしょう。保原や梁川の農産物を運んで、福島駅から国鉄に積み替えていた。そんな感じでしょうか。

開放されている車内に入ってみる。外から見る以上に横幅が狭いので、椅子を千鳥状に配置して立ち客のスペースを確保する形になっている。吊り革はあったのだろうか?網棚に握り棒のようなものが付いているので、そこにひょっとして吊り革をぶら下げていたのかもしれない。脂の染みた木製の床から漂ってくる匂いが、古い車両にありがちなそれ。あの匂いって何なんだろうね。古本屋で買った日焼けした本をめくった時のような独特の匂いがする。車両の中で、座席というよりは長椅子のようなシートに座ると、今にも絣やモンペ姿の農家のおばちゃんが、背中にねんねこを巻いた子供を背負ってステップから乗り込んで来そうだ。

福島交通の1115号車は、昭和28年に日本車輛で製造されたものです。そう考えると、実働20年も経たないうちに路線が廃止されてしまったのは不運としか言いようがなく、そしてその頃は他の都市も軒並み路面電車を廃止していた時期でもあり、特に貰い手も現れずということになりました。まあ、この狭さではなかなか他の都市に行っても使いようがなかったかもしれませんが・・黒光りするブリルの台車、おそらくツリカケのいい音がしてたんでしょうね。掛田駅は、福島駅東口から福島交通バス掛田線で50分と便のいい場所ではありませんが、阿武急の保原駅からならバスで10分程度。本数もそこそこあるので、公共交通を利用しての訪問も可能なのが嬉しいところ。保原から掛田までの峠越えはかつて未舗装の山道で、路面電車が砂利飛ぶ道を土煙を上げて走ってたのだそうで。

この1115号車の旧・掛田駅への保存に関しては、福島交通の特設サイトにその詳細が掲載されています。
当時の貴重な福島の街の写真とともに、ご一読いただきたいところ。

一つの時代を支え続けてくれたチンチン電車をなんとか後世に残し、語り継いでもらいたい。
そんな想いを胸に福島交通は再度、1115号車を引き取り改修工事を行ない、懐かしい運行当時の姿に復旧させました。
そして令和5年、同じく改修工事を行い、当時の姿を取り戻した福島交通掛田駅敷地内に、1115号車は再び戻ってきました。
かつて、大勢の人々を乗せ、地域に賑わいを与えてくれた1115号車は、これまでの歴史を振り返りつつ、
地域の新しいシンボルとして想いのレールを未来に繋いでいくことでしょう。
(福島交通HPより:原文ママ)
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阿武急に、キハのいた時代。

2024年05月29日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(角田盆地を真っ直ぐに@横倉駅)

横倉駅を見降ろす陸橋から。穀倉地帯の角田盆地を真っ直ぐ南北に貫く阿武隈急行。槻木から丸森までの17.4kmは、かつての国鉄丸森線として開通した区間です。将来の福島延伸を見込んで建設に着手した丸森線は、昭和43年に槻木~丸森間を開通させた後、長い間国鉄の財政悪化に伴って未成部分の開通に漕ぎ付けることが出来ず、盲腸線のまま放置されていました。昭和61年7月に、福島までの路線延長は地元の手に託すことを視野に入れ、国鉄丸森線は第三セクター化。受け皿会社として設立されていた「阿武隈急行株式会社」に引き取られたのですが、阿武隈急行が昭和63年7月に福島開業を果たすまでの約2年間、槻木~丸森間は非電化のまま暫定開業となっていました。国鉄からキハ22のリースを受け、白地に青のラインを入れた独自色に塗り替えて使用していましたが、国鉄設計の旧態然としたデザインのキハ22が白地に青いストライプというのは、今思うと非常にミスマッチなカラーリングでした。当時は国鉄からJRに移行する過渡期で、一斉に首都圏色から地域色への塗り替えが行われていた時期でもありましたので、まあそういう時代だったんですよね。福島開業と同時に阿武急は全線電化されたので、阿武急カラーの気動車が走った時期は短かったのですが、その後キハ22はJRに戻ることもなく、そのまま廃車されてしまったそうで。

掘割区間を抜けて行く8100形。と言う訳で、この槻木~丸森間は阿武隈急行で一番古い開業区間になるのですが、昭和43年の開業ながら掘割、築堤、立体交差を基本に作られていて、ほとんど踏切がないのは特筆すべきことです。但し、阿武隈川の運んできた土砂の堆積で形成された沖積平野であるここ角田盆地の築堤区間では、築堤上に敷かれたレールが東日本大震災の揺れに耐えられず、多くの個所で大きな軌道変異を起こしてしまったそうです。盛り土の築堤ってのは構造的に揺れには弱いんですよね・・・

国鉄時代の丸森線は、槻木を出ると横橋・岡・角田・丸森の4駅しかなく、運行も朝夕中心の一日5往復のみという超閑散線区でした。短区間の盲腸線らしい(?)国鉄のやる気のなさが苦々しいほどなのですが、阿武隈急行への転換によりこの区間に横倉・南角田・北丸森の3駅が新駅として開業。一日14往復へと大幅な増便が果たされ、沿線の角田市や丸森町は一気に仙台への通勤圏に組み込まれました。が、バブルは弾け、時代は流れ、今や角田市の人口は2万6千人あまり。現在でも、阿武隈急行線内からは朝夕の一往復ずつが仙台に直通していますが、果たしてどのくらいの直通需要があるのだろうか。

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山青く、水は緑の猿翅峡。

2024年05月27日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(阿武隈山地の緑を集めて@阿武隈渓谷)

福島・宮城県境の阿武隈川は、蔵王山脈の南麓と阿武隈高地の北端のせめぎ合う場所を渓谷を刻んで流れています。これが阿武隈渓谷なのですが、切り立った崖と深い谷というよりは、岩肌を露わに早瀬が続く急流という感じ。関東で言えば、埼玉の長瀞あたりの風景に近いですかね。阿武隈渓谷も長瀞も、盆地から平野の間の山間部の渓谷ということで、形成される地形の雰囲気が似てしまうのでしょうね。ちなみに、長瀞と同じようにこの阿武隈渓谷にも「ライン下り」があります。阿武隈渓谷のライン下りは、もう少し下流の宮城県の丸森町から出ているのですが、動力船による周遊のようなスタイルなので、船頭さんが竿を使って船を操り、流れを下って行く・・・というものではありません。GWということで船着き場は賑わっておりましたねえ。

山の緑が溶けて染み出したような阿武隈川の流れ。あぶくま~丸森間の第二阿武隈川橋梁は、大きな淵を作って緩やかになった場所に架けられている。連続トラスを軽やかに渡って行く8100系。AB900形もいいけれど、8100の特徴である水と緑のストライプが、非常にこの風景に合っている。シンプルな下路ワーレントラスは、向瀬上の第一阿武隈川橋梁と同じ。昭和後期から平成にかけて建設された鉄建公団線の橋梁、だいたいみんなこのスタイルですね。野岩鉄道の湯西川の鉄橋とかもこんな感じだし。

山間部でやや川幅が狭まっているとはいえ、そこは東北地方二番目の大河である阿武隈川。渓谷を刻みながらも、その名に恥じぬ雄大な流れは変わることはありません。阿武隈渓谷は、別名「猿翅(さるはね)峡」などと言われますが、川幅の部分に比べて平地の少ない地形で、日本鉄道が明治時代にここに線路を敷くのは少し難しかっただろうな・・・と思わせるものがあります。南東北の山々の栄養分を集めた阿武隈川の豊かな水は、流域の広い耕土を潤し、山紫水明の美しい眺めで人々の心を潤してきました。川の流れは、この先の丸森町から沖積平野の角田盆地へ出て北に流れを変え、亘理郡亘理町で太平洋に注いでいますが、阿武隈急行の旅は、車窓に流れる田園風景や渓谷美、そして保原や梁川の街の姿など、阿武隈川が作り出した自然と文化を丸ごと味わう旅でもあります。

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コードネームはABQ。

2024年05月25日 12時00分00秒 | 阿武隈急行

(ハナミズキの並木を横目に・・・@新田駅)

近代的な集合住宅が立ち並ぶ新田の駅を出て行くAB900形。ハナミズキの桃色が鮮やかである。阿武隈急行の主力車両であるAB900形は、JR東日本の東北地区の最新型車両であるJRE721系の三セクバージョンです。日本全国どこへ行っても古い車両にシンパシーを感じてしまう私は、どうしても8100形ばかりを追い掛けてしまうのですが、圧倒的に多数はこちら。JRE721系は、阿武隈急行の他にも仙台高速鉄道や青い森鉄道にも投入されている車両ですが、各社ともJR線への乗り入れをおこなう業者なので、規格が揃っていた方が扱いやすいのでしょう。ちなみに、AB900形は、「A=あ B=ぶ 900=きゅう」の語呂合わせなのだそうで。ダジャレか。

春の阿武隈路を、レッドフェイスのAB900形が走ってゆく。田起こしは住んでいるけれど、まだ田んぼに水は引き込まれていないGWの前半戦。水が入っていない土がむき出しの田園も殺風景なので、画角を春の若草で囲ってみる。AB900形は既に7編成が導入されていますが、そのそれぞれの前面のカラーが違うそうです。車両の規格は統一しても、カラバリで変化を付けるやり方というのは鉄道デザインの常套手段だと思うのですが、これってどこが一番最初に始めたのだろう。やはり初代レインボーカラーの京王帝都井の頭線の3000系からなのだろうか。

ああ、それにしてもこの日の福島の青空はどうだろう。それこそ、「智恵子抄」で東京の空を見ながら智恵子が語った「ほんとうの空」の色であった。桜の時期は花はともかく抜けるような青空には恵まれませんでしたが、このGWでだいぶ取り返せた感じがしますね。富野駅の先、福島盆地が尽きて阿武隈渓谷が始まる入口のあたりに、青々と葉を茂らせた大ケヤキの木の下に、慎ましく祀られた小さいお稲荷さん。「山岸稲荷神社」というらしく、いかにも村の鎮守の神様の・・・という感じ。

大木の下に祀られた小さな祠に手を合わせ、強い日差しを避けながら列車を待つこと暫し。福島行きのAB900形がやって来た。
ツンとお澄まししたような顔のお狐様が、今日も村と旅人の安全を見守っています。

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絹の糸、思い出紡ぐ綿帽子。

2024年05月22日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(残雪の山遠く@新田~梁川間)

阿武隈急行線は、旧国鉄の丸森線として作られた槻木~丸森間以外の区間は昭和63年(1988年)に作られた完全なる新設路線です。三陸鉄道、秋田内陸縦貫鉄道や野岩鉄道などの東北の他の第三セクターと同様に、国鉄時代からの計画を地元が引き受けて鉄建公団線として開通させたもので、線路は盛り土や高架、掘割を積極的に取り入れ、その他の部分でも交差する道路はオーバーパスかアンダーパスをしていて、とにかく踏切がありません。いきおい、撮影地として選定されるのは線路をまたぎ越す陸橋からの撮影が多くなるのですが、田んぼの中の高架橋に上がると、春霞の信達平野からは僅かに雪を残す栗子連峰が望めました。

午前中の富野ローカルで福島へ折り返していく8100系。東北本線のバイパス的な要素を持たせ、輸送力増強と、災害時の多重系統化を目的とした阿武隈急行の路線ですが、阿武隈急行が開通する遥か昔から、福島から阿武隈川右岸を通って白石や岩沼方面を結ぶ鉄道の構想はあったのだとか。現在の東北本線は越河から国見のサミットを経て白石盆地に下り、白石川を頼りに蔵王南麓の山間部の端を抜けて宮城平野に至っていますが、信達平野を通らなかった理由は、保原や梁川の住民が「蒸気機関車が走ると煙や音で蚕が繭を作らなくなる」と言って反対したからという話もあります。昔も今も、新しいものに対する忌避やテクノロジーの否定みたいな動きってのはあるものですが、実際には阿武隈川に架橋するルートが敬遠されたのと、阿武隈渓谷の隘路を抜けるだけの土木技術がなかったことが理由とされていますが、真相はいかに。

旧保原町や梁川町などの伊達郡一帯は、現在でも阿武隈川の肥沃な氾濫原の広い耕土を使った農業が盛んにおこなわれていますが、江戸から明治の時代にかけては「信達蚕糸業地帯」として養蚕業のメッカともなっていました。その品質の高さは全国に知られ、鉄道の開通により遥か横浜の港から海外へ輸出されて、日本の外貨獲得に大きく貢献することとなります。絹糸に代わって田園の畔に咲くタンポポの綿帽子に、養蚕で栄えた時代の面影をなぞって。

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