(開業当時のそのままで@村山駅)
村山橋の東詰め、川を渡って須坂市内入った場所にある村山駅。1926年(大正15年)に長野電気鉄道によって開業した当時のままの木造駅舎が残っている。屋代線・木島線が過去の思い出の中に消え去ってしまった今、長野電鉄の中で開業当時の駅舎を残しているのは長野側から桐原・朝陽・村山・中野松川・信濃竹原の五つのみになっている。長野電鉄を訪問する際、あまり訪問する機会のなかった駅ですが、弱い冬の夕暮れに千曲川の風が冷たく吹き抜けるこの駅の風情は、なかなかに豊かなものがあります。現在は無人駅になってしまいましたが、突き出した石油ストーブの煙突が郷愁を誘う。貨物ホームを擁する広い構内があった駅で、現在は、貨物ホームの跡が保線基地として使用されています。
ホームから駅舎を眺める。古錆びたトタン屋根に、剥がれかけた木板の外壁。温度計に残る「日本相互銀行」は、無尽から始まった旧相互銀行系の金融機関で、その後太陽銀行→太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行と合併に次ぐ合併を経て現在も存続している。ちなみに、日本相互銀行が太陽銀行と改称したのが1968年(昭和43年)のことなので、この温度計は少なくとも56年以上前からここにあったことになる。そんな年代物の温度計が今日びに変わらず現在の気温を示しているのだが、温度計もこの半世紀の気候変動にはさぞかしびっくりしているだろう。
駅舎内には閉鎖された出札窓口の横にキップの自動券売機が一つあって、なにやら海外から来たらしいアジア圏の実習生と思しき三人連れが一生懸命にキップを買い、長野方面の電車に乗って行ってしまった。地方の産業の担い手(第一次産業、二次産業に関わらず)が、高齢化と過疎化で立ち行かなくなる中で、海外から斡旋されてきた技能実習生(という名の「働かせるための安い労働力」だと思っているが)。全国のローカル線や地方私鉄に共通の現象だと察するのだが、最近、彼らが地方私鉄の日中を支える潜在的な顧客ではないかと思うときがある。国に仕送りするために、おそらく日本では車なんか持たないだろう。休みには買い物をしたり息抜きのために街へ出て行くのに、地方私鉄やローカル線を使っている姿をよく見かけるのである。
構内踏切が長野側に設置されている構造上、乗客の動線を支障しないように右側通行になっている村山駅。「電車が来ます」の赤色ランプが点灯すると、ゆけむり号がゆっくりと通過して行きました。通り過ぎる列車を待ち、遮断機が上がったホームからは、千曲の空にぼんやりと霞む冬の夕暮れが見終えました。