青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

大東急の名にかけて。

2021年05月30日 17時00分00秒 | 上田電鉄

(街の心象風景@上田電鉄千曲川橋梁)

新しい護岸と、架け替えられた赤い橋。上田電鉄別所線・千曲川橋梁。別所線のシンボルとして、そして上田温泉電軌の時代から約100年に亘り郷土の心象風景としてありつづけた赤い橋が、台風19号による洪水被害で落橋したのは2年前の秋の話。2019年の10月15日の事でした。台風被害を伝えるNHKの緊急報道番組。長野市内の千曲川決壊による新幹線水没と並行する形で、夜明けの上田市街上空から捉えられた千曲川の濁流に抉られた護岸と泡立つ水の中に落ちた赤いトラスの姿を、私も鮮明に覚えています。

千曲川橋梁は5連のトラスで形成されていますが、被害を受けたのは一番別所温泉寄りのトラス。千曲川左岸の堤防が洪水で削り取られ、土台を失って濁流に没しました。不幸中の幸いだったのは、完全にトラス部分が流失せず、片側が水の中に落ちたまま原型を留めた事でしょうか。落ちたトラスは復旧工事の過程で分解され、組み直して改めて再生されたそうです。削られた堤防道路と共に、ピカピカに塗装されて復旧した5個目のトラス。しかし現場に行ってみて分かったのは、この辺りの千曲川は、堤防の真下にアパートや民家が立ち並んでいるんですよね・・・普通に上田市中心部に近い人口密集地なので、それこそ堤防が決壊していたら相当の被害が出ていたのではないかと空恐ろしくなりました。

上田丸子電鉄の時代から、他の路線と同様に幾度となく存廃問題の浮上した別所線。そのたび地元を中心とした存続運動によって鉄路を繋いできました。しかしながら、今回は大規模災害による設備の損壊という新たな形での路線存亡の危機が発生。財政基盤の脆弱な地方鉄道において、設備復旧にかかる費用負担は大きな障壁たりえるもので、過去にも自然災害によって廃線になった地方鉄道は少なくありません。この千曲川橋梁の復旧に際しては、昨今自然災害の頻発する中で法整備された「特定大規模災害等鉄道施設災害復旧事業費補助金(長いな)」を活用し、上田市がこの橋の所有者となる形で国と自治体が折半で費用を捻出。総事業費8億円の公共投資という形で復旧が行われました。少子高齢化・過疎化に加えてコロナ禍というトリプルパンチの中では、公共交通は自分的にはある程度公的資金で支えるのが筋と思っていますけど、この橋の復旧事業に対してはふるさと納税で上田市に対し8千万円、また上田電鉄への直接の寄付で2千万円弱が集まった事は書き添えておきたいかなと。

午後になって晴れ上がった東信地方。青空と赤い鉄橋を川面に映し、別所温泉へ向かう電車。地方私鉄と言うにはパリッとしたステンレスの車両は元池多摩線系統の東急1000系。上田電鉄の鉄道事業については、昭和30年代から同社を傘下に置く東急グループの存在が大きく、車両についても、運行システムについても、強力な東急本社の支援を受けて動いて来ました。これは東急電鉄の創業者である五島慶太が上田市近郊の青木村出身であり、上田丸子電鉄にはひとかたならぬ思いがあったことがその理由であるらしい。上田駅の周辺にも東急系列のホテルがいくつかありますし、西武の軽井沢に対して東急の上田って感じで、全国的な知名度は違うけれども企業城下町的な色彩がありますよね。その橋頭堡としての上田電鉄。今回、この橋の復旧工事を請け負ったのも東急建設だそうです。グループ会社だから当たり前っちゃ当たり前なんだけど、ある意味東急グループが五島慶太翁の遺志を尊重する限り、大東急を興したじっちゃんの名にかけて、上田電鉄は生き続けるのかもしれません。

個人的にも、上田は東急グループの中でも別格かな・・・?という印象があるんですよね。今では全国にシェアを広げる元東急のステンレス車両ですが、7200系や1000系などその嚆矢となるのはいつも上田電鉄向けで、何かにつけ最優遇の待遇を受けている印象があります。沿線住民や別所温泉の旅館組合などの地元の突き上げも勿論ですが、長年の地元への投資でバックにいる東急の顔色は無視出来ない上田市、そこで動いた行政がカネを引っ張って、復旧仕事は東急グループに投げるという構図。鉄道の経緯と歴史を丁寧に読み解くと、なんとなーく色々なヒト・モノ・カネの結びつきが見えて来るような気がします。

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六文銭と、お堀の電車。

2021年05月27日 17時00分00秒 | 上田電鉄

(真田六文銭の居城@上田城址公園)

マッコウクジラと善光寺下でお別れをし、午後になってから転戦したのは上田の街。2019年の台風19号によって流失した千曲川橋梁が復旧し、この3月に1年半ぶりに全線運行を再開した上田電鉄を撮影しに来たのですが、その前に寄らねばならぬところがあり。子供が去年から始めた「日本百名城」のスタンプ集めで、信州に行くならそっちの方のお城のスタンプを集めて来て欲しい・・・と。そういうのって自分で行かなきゃ意味ないんでないの??(笑)とも思ったのだけど、まあこのコロナ禍ではなかなか子供を遠くに連れ出してやることもままならぬのでねえ。という訳で寄り道した上田城址公園。信州真田一族・真田幸村の父である真田昌幸によって築城された城。天守が残っている訳ではありませんが、石垣や櫓門が残されています。

博物館の入口に置かれていた百名城スタンプを押し、城内の真田神社へお参り。一通りのイベントを済ませ、さてさて上田電鉄の撮影へ・・・と向かう前に。折角上田城址まで来たのだから見て行きたいものがありました。上田城の二の丸堀に残る真っすぐな遊歩道、今は「けやき並木遊歩道」として開放されていますが、ここはかつて上田交通真田傍陽(そえひ)線の通っていた廃線跡。お堀の中を走っていた電車と言えば、名鉄の瀬戸線なんかが有名ですが、どっこい信州にもお堀の電車があったんですね。上田城址の二の丸橋の下には石積みのホームが残されていて、ここはかつて「公園前」という駅だったそうです。

電鉄上田駅を起点とし、菅平高原の麓にあった真田町と傍陽村を結んだ真田傍陽線は、昭和2年に上田温泉電軌(温電)の北東線として開業した路線。真田傍陽線は、菅平高原の農産物の積み出しや上田市街への通勤通学輸送を中心に地域の発展を支えました。二の丸橋には通信ケーブルでもぶら下げていたのであろう碍子が残されていて、鉄道路線がそこを通っていた事を今に伝えています。ふと通りがかった女子大生の二人組が「こんな場所に碍子が付いてるの何でだろうねえ?」って言ってたんだけど、「碍子」が分かるならそこに鉄道路線があった事は分かるんじゃないの?なんて思わず突っ込みそうになった(笑)。

改めて二の丸橋の反対側から。ケヤキ並木の青葉が、午後の光に漱がれて素晴らしく爽やかな雰囲気。こんな場所に電車が走っていたというのだから、現役時代はどんな風景だったのだろうか。あのクリームと藍色のツートンカラーの旧型電車が、のっそりと電鉄上田駅からカーブを切っては、お堀の中の線路を車体を揺らしながら近づいて来たんだろうか・・・などとベンチに座りながら妄想に耽るのも廃線跡巡りの愉しさ。帰宅してから真田傍陽線の往時の姿を探してみたら、「別所線の歴史」という上田市のウェブサイトの中に公園前駅の画像を発見。今ほどはケヤキが生い茂ってはいなかったお堀の中を、トコトコと単行の旧電が駅に到着する激渋のシーンがありました。

真っすぐ伸びたお堀の道が、いかにも鉄道の廃線跡らしい姿だ。国鉄上田駅を中心に、塩田平に50km弱の広大な路線網を持っていた上田交通。戦前戦後にかけては、このような地方鉄道が、全国で国鉄のカバー出来ない小さな町や村を繋いでいました。最近、日曜朝のNHKで「10分で巡るにっぽんの廃線」という番組がやってるんだけど、流れる映像を見ていると、ほとんどが昭和40年~50年代に消えて行った地方私鉄と、国鉄の分割民営化に伴って消えて行った国鉄の赤字ローカル線だったりする。上田交通の各路線も、西丸子線・丸子線・そしてこの真田傍陽線と、ご多分に漏れず昭和40年代前後に廃止され、同時に別所線にも存廃問題が持ち上がります。しかしながら、根強い存続運動と利用促進により、今日に至るまで鉄路を繋いでいます。

地方私鉄が隆昌であった時代の姿を偲ぶ、上田城址のお堀端。紅葉の時期はライトアップされてとても美しいのだとか。真田傍陽線の跡も、廃線から約半世紀が経ち、すっかりと自然に還っている様子。今は、意識しない限りここが鉄道の廃線跡だと気付く人は少ないだろうなあ。整備されたケヤキ並木のプロムナードは、近代の古道として、その歴史を静かに伝えています。

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信州の大海原を駆け抜けて

2021年05月23日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(長野地下鉄1号線@善光寺下駅)

長野電鉄が運営する長野市営地下鉄・・・なんてものがあったら、どうなっていたのか。善光寺を北の頂点として、東は柳原、南は大豆島あたりを通って長野駅に戻って来る環状運転だろうか。という妄想を広げるにあまりある長野市中心部の長電地下鉄区間。長野駅から善光寺下駅の先まで、距離にしてみたら1.8~9km程度の僅かの距離ながら、長野・市役所前・権堂・善光寺下の4駅を設けています。

昭和56年の開通から40年、形としては長野市の連続立体交差事業とされた長電の地下鉄化。総事業費は68億円、建設には約5年を要したそうです。基本的には地下1階に駅施設、地下2階がホーム部分という造りで、真ん中に柱が立っているところを見ると昔ながらの開削工法で作られている様子。都心の最新の地下鉄は、大深度地下にシールド工法だのNATMだのと土木技術の博覧会のような技術を使って掘削されておりますが、ここはそんな最新技術とは無縁のオールドタイプの作り。照明が行き届かず、何となく薄暗いホームが、「一昔前の営団地下鉄」感を醸し出しているように思うのです。

そうなると、こういう写真が撮りたくなりますね(笑)。鯨の入庫がてらの本日最終運用、長野発須坂行き213列車。イメージとしては、「昭和50年代の地下鉄小伝馬町」という感じか。基本的には目の前の「あ、いいな」と思った風景を車両と絡めてパチリ、みたいなその場の思い付きでカットを重ねてしまうタイプではありますが、今回信州に鯨を求めて撮影行を組んだ中で、是非やってみたいなあと明確な意思を持って撮りに行ったカットがこちら。元々は大都会の地下を大量の通勤客を乗せて走り抜けた車両、地下区間が似合わない訳がなく。

小伝馬町・・・とするならば、客層が少々若いような気がしますが(笑)、GW中の昼間ですからそれも仕方なしか。感度を上げて少しノイジーにザラリと撮るのも雰囲気が出てまた良いですね。ステンレスにコルゲートの細やかなボディは、モノクロの現像でより引き立って見えます。駅のホームに完全に出て来ちゃうと2連なのが分かってしまうので、自分の中では一枚前の縦構図が本命カット。

ワンマン運転の運転士氏の安全確認。意外にも多かったホームの乗客を吸い込んで、扉が閉まります。鯨の去就については、「2022年度までに3000系を5編成入れますよ」という事が決まっているだけで、完全引退が公式にアナウンスされた訳じゃござんせん。ただ、事実上の終焉が見えてくれば、改めて意識して撮影したくなるのが人情というもの。たびたびの長電への訪問とか、屋代線の廃線とか、その際その際で撮影の対象にはしてたんですけどね。日比谷線の3000系から長電の3500系へ、改めて日本の高度経済成長を担ってきた名車に拍手と敬意を。

轟音を立てて走り去った鯨を見送ってホームを出ると、地下通路の壁に3500系が。2連で渡る鉄橋と山並みは、松川の鉄橋かひょっとしたら木島線の夜間瀬の鉄橋か。営団のサブウェイ「S」のマークから、長野電鉄の星のマークに付け替えて幾星霜。大都会から信州に舞台を変えて、春夏秋冬の豊かな自然の大海原を走り抜けた海なし県のマッコウクジラ。おそらくラストシーズン、堪能させていただきました。

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三連鳥居に願いを込めて。

2021年05月21日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(特徴ある三輪鳥居@美和神社)

湯田中ローカルに就いていた鯨編成。昼の湯田中発長野行きで街に降り、返しの須坂行きで入庫してしまう運用なので、私も運用に沿って街に降りて来ました。どうしても長電に来ると風光明媚な山ノ内周辺で撮影する事が多くなってしまうので、長野市内での撮影は随分久し振りになる。どこで撮ろうか・・・なんて考えて、本郷駅前の美和神社に来てみた。この神社、普通の鳥居の両脇を更に鳥居が囲む三連鳥居に特徴がある。この形の鳥居を「三輪鳥居」というらしく、三輪=美和となった神社名の由来ともなっています。秩父の三峰神社とかでこういう形の鳥居を見た事があるのだが、それなりに珍しいものらしい。

街へ降りて来る鯨を、青葉を渡る風爽やかに美和神社の鳥居抜きで迎えます。鯨の通過2分前くらいまで、宅配便のトラックがあろうことか鳥居前の空きスペースに駐車していてヤキモキしてしまったのだけど、美和神社の神様にお賽銭投げて「あのクルマどかしてっ!」とお願いしたら、配達を終えたらしい運転手が戻って来てすいーっとどこかへ行ってしまった。神様の思し召し。というか、神社仏閣で撮影する時は、先ず一回手を合わせてからにしたほうがいいと勝手に思っている。それが礼儀だと思うし、何となくその方がいい写真が撮れそうじゃない?

鳥居をくぐる真っ赤なゆけむり。美和神社は、長野善光寺の周辺に散らばる善光寺七社のうちの一つ。境内も広くなかなか立派な神社だと思うのだけど、普段はひっそりとしていて宮司さんの姿などを見る事はありません。建立は7世紀くらいの文献に記録があるとされているものの定かではなく、相当に歴史のある神社だという事が出来ます。駅名は「本郷」ですが、周辺の地名は長野市三輪。ずっと昔からこの辺りは「三輪村」という上水内郡の村だったらしいのだが、「本郷」という駅の名称が何から出て来ているのかは不明。

本郷と言えば橋上駅舎と本郷ステーションデパートでしたが、最後まで頑張っていた階段脇の花屋も何年か前に閉店。バリアフリーの観点から橋上駅舎に登る階段も切り離され、今は地上から直接上下のホームに入場する構造に変わっていました。橋上駅の部分は使わないなら老朽化するだけだから撤去してもよさそうなもんだが、時間も費用もかかるから棚上げなのかな。んで、新・本郷駅の改札口らしきものは須坂・湯田中方面行きのホームにしか付いてないと思うんだけど、長野方面行きの改札はどうしてんのかな?という部外者のささやかな疑問があったりする。

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素敵なセカンドステージ

2021年05月19日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(妙高の雪代を背負って@夜間瀬~上条間)

山ノ内にて鯨の活躍を中心に撮影しておりましたが、合間合間にはHiSEの活躍もきっちりと。リンゴ畑の中をくねるように登って行く1000系、連接台車に短めの車体、カーブで見せる美しい曲線は小田急当時のまま。雪代を残した妙高をバックに、扇状地を駆け上がって行きます。私鉄特急車の譲渡事例としては、山向こうのお隣富山ではレッドアローや京阪ダブルデッカー、富士急行ではかつての盟友RSEなんかが活躍していますが、どれも平成初期のバブル時代かその前からの車両。JRではHiSEの同期かそれよりも若いE351系やE651系あたりの初期JR世代の特急車は既に引退してたりもするんですよねえ。バブルは遠くなりにけり、ですな。

もう小田急の本線からHiSEが消えて来年で10年。本線での引退に先んじる形で一部編成の譲渡から始まったHiSEの第二の人生ですが、すっかり長野電鉄のエースとして確固たる地位を築いた車両となりました。相州や箱根路を駆け抜けていたあの頃を想えば、今でもここ信州の地で「特別な列車」であることが嬉しい。一ファンとしても、信州での新たな観光特急としての活躍は、素敵な活躍の舞台を用意してもらったと感謝することしきりの思いがあります。長野駅で我先に展望席へなだれ込む親子連れの姿、そういう当たり前の風景が早く戻って欲しいもの。

夜間瀬川の河原柳の下を。長電レッドの塗色が北信の風景に映えます。先代の2000系特急車は新製から50年以上に亘って善光寺平を駆け抜けましたが、この車両もどこまで活躍してくれるのか・・・鋼製車ですし、経年50年がメドと考えればあと15年くらいなんですかね。その時は後継として何が来るのか。マッコウクジラの後継が同じ日比谷線の03系でしたから、同じ小田急から引退したVSE辺りが譲渡されたりするのだろうか(笑)。どんな車両にもいつか終わりは来るものだけれども、それまでの間は、素敵なセカンドライフをエンジョイしてもらいたいと思っています。

 

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