青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

欧州に続いていた波止場。

2024年03月11日 17時00分00秒 | JR

(雨上がりの街を歩く@敦賀市内・気比神宮前)

敦賀駅から、市内を循環する路線バスに乗ろうと思ったのだが、駅前に出る直前に行ってしまったらしい。敦賀の駅は、街の一番南端にあるので、中心部に出るには駅から徒歩10分程度の時間がかかる。駅前にいた福鉄バスのドライバーに話を聞いたら、「神宮の前は通る」ということで、ひとまず敦賀の街の鎮守様ともいうべき気比神宮に行ってみることに。バスの中から眺める雨上がりの敦賀の街、お出かけを決めた週はどこに行ってもずーっと天気が悪い予報で雨を覚悟していたのだが、雨こそ降らねど風が強く寒い。

北陸道の総鎮守、そして越前の国の一之宮である気比神宮。正確には「氣比神宮」と書くらしい。創建は古墳時代に遡るというが、定かではない。相当歴史のある神社なんですねえ・・・その割に社殿がパリッとして見えるのは、空襲で燃えてしまって戦後に再建されたからなのだそうで。敦賀に空襲があったのは、昭和20年の7月のことで、もう少し終戦が早ければ燃えずに済んだのかなあ。「気比」と聞いて思い出すのは、気比神宮と、敦賀の街に横たう白砂青松の気比の松原・・・と言いたいところですが、圧倒的に敦賀気比高校ですよね(笑)。敦賀気比、気比神宮の近くにあるのかと思ったら意外とそうでもなかった。古くは内海哲也に東出輝裕、近年では海を渡った吉田正尚に山崎颯一郎、そして今年から加入した西川龍馬の新旧オリックス勢でしょうか。ひとまずここで、旅の無事と家内安全商売繁盛世界平和趣味隆昌をお願い(多いなw)。絵馬には時期だからか、合格祈願の絵馬がいっぱい架かってましたね。受験生に神の御加護のあらんことを。

お参りを終えて、海へ向かって歩く。日本海側の良港として、軍港舞鶴と並んで古くから栄えていた敦賀の港。海上保安庁の船が係留されている風景の中を歩くと、港の一角に何やら少しヨーロピアンな建物が見えて来て、それが「敦賀鉄道資料館」。明治5年に日本最初の鉄道が新橋~横浜間に開通した直後、政府の工部省の鉄道局長であった井上勝により強く主張されたのが、かつての首都であった京都と敦賀を結ぶ鉄道の建設でした。暫定的には、京都から大津までを鉄道、大津から琵琶湖東岸の長浜を汽船で結び、長浜から敦賀までを再度鉄道で連絡しようという試みだったそうです。新橋~横浜間に比べ、京都側では山科を抜ける逢坂山越え、長浜から敦賀へは柳ヶ瀬越えと当時としては克服に難儀する山岳トンネルの建設があり、その開通は明治15年のこと。ただし、柳ヶ瀬トンネルの部分は未開通で、その部分だけは徒歩連絡だったのだとか。

資料館の中に作られた当時の敦賀港のジオラマ。敦賀まで建設された鉄道は、それまでの物流の中心だった敦賀港まで路線を伸ばし、そこに金ヶ崎駅(敦賀港駅)を置きました。これにより、北前船によって運ばれた物資が、鉄道と琵琶湖の汽船を経由して京都・大阪の大消費地に繋がることになります。日本海側の都市で一番最初に鉄道がやって来た敦賀の街は、対岸のロシアにおいてウラジオストクからシベリア鉄道が起工されたことなどを受けて、明治35年に敦賀~ウラジオストク間に汽船が就航。日露戦争によって日本が南満州と遼東半島の権益を確保したことによりその重要性は増し、敦賀は徐々に大陸との交易とその先の欧州を見据えた「世界への鉄道ルート」へアクセスする街と変貌して行きます。東海道本線の開通により、明治後期からは新橋~金ヶ崎(敦賀港)間に欧亜連絡の国際列車の運転が開始され、金ヶ崎にソ連の領事館が置かれ、軍部の後押しを受けて大陸への船が次々に出航していた頃・・・大正年間から太平洋戦争が終わるまでが、一番敦賀の街が華やかだった時期なんでしょうかね。

戦後は、日本海縦貫線の重要拠点として、文字通り鉄道の要衝を担った敦賀の街。そして、昭和32年の田村~敦賀間の交流電化により発足した「敦賀第二機関区」に集う赤やローズピンクを基調とした交流・交直流機関車たちでしょうか。蒸気・ディーゼルを中心とした敦賀第一機関区に対し、ELによって組織された敦賀第二機関区。【敦二】の区名札も鮮烈な、文字通り赤い機関車たちが集う名門機関区としてその名を轟かせました。壁に飾られたEF70のプレートがね。ちょっと後退角が付いててカッコいい。EF70は、それこそ北陸トンネルが開通して、敦賀~福井間の交流電化が達成された時に投入されたカマだから、生粋の敦賀っ子。本来は貨物牽引のために投入された機関車で、国鉄の貨物輸送の漸減に伴って大半が余剰になってしまったんだが、一部は寝台特急牽引用に改造されて1000番台に改番。寝台特急日本海などの先頭に立ちましたよね。ちなみに敦賀第一機関区の跡地が北陸新幹線の敦賀駅だったりしますが、新駅には敦賀の機関区のモニュメントとか作られたりしてんのかな。

そんな鉄道とともに歩んできた敦賀の街の歴史。旧線の柳ヶ瀬越えから山中越え、そして北陸トンネル建設から現在までの北陸本線のルート選定の歴史と、日本海縦貫線で活躍したあまたの特急群からトワイライトエクスプレスまでを、豊富な写真たちと鉄道に関連した保存資料でゆっくりと触れることが出来る敦賀鉄道資料館。敦賀駅から少し離れた場所にあるため、「ぐるっと敦賀周遊バス」に乗って「金ヶ崎緑地バス停」が近い。土休日だったら日中30分間隔で走っているらしい。一回り見てから1階にいた観光ボランティアのガイドさんたちと少し話をしたら、やはり相当に今回の新幹線敦賀開業に対しては気合が入っているようだ。「明日テレビの取材があるんですよォ」なんて話をしていた。天気が良くないのを残念がっていたら、北陸新幹線の試乗会にも乗ってきたようで「北陸新幹線の金沢~加賀温泉間は、白山連峰の眺めが最高なんです。またぜひ天気のいい時に乗りに来てくださいね!」と重ねてのアピール。

ボランティアの皆様にお礼を申し述べて、資料館を後に。資料館から少し歩いた場所に、敦賀港駅と港らしい赤レンガ倉庫があって、そこには福知山気動車区に新製配置となったキハ28が保存されている。基本的に引退まで福知山か豊岡の気動車区に配置されていたクルマらしく、それこそ非電化時代の小浜線や宮津線を走っていたのだろう。いすみ鉄道で動態保存となって走っていたキハ282346と違って、正面窓が側面まで続いているパノラミックウインドウなところに特徴がある。個人的に、PWの前面窓ってキハ66とかの九州の気動車のイメージあるんですけどね、垢ぬけていてカッコいいですよね。ヘッドマークはもちろん、急行「わかさ」。福井・敦賀~西舞鶴・東舞鶴間の若狭湾岸の街を結んだ急行列車。わかさ、わかさって何だ。振り向かないことさ。

そして、現在は正式に廃駅となってしまった敦賀港駅。由緒正しい欧州連絡列車の発着した波止場の駅も、末期はDE10に牽引されたコンテナ列車が、一日一往復だけ出入りする寂しい臨港線の貨物駅でした。平成21年に貨物の取り扱いがなくなった後も、敦賀港のコンテナの荷揚げ場としては使われているようで、おそらくORS(オフレールステーション)扱いで南福井の貨物駅とかにトラックで持ち込んでいるのでしょうね。一時は「門司港レトロ」のように観光化の計画もあったような気がしますが、今はレールも信号も切られているので復活は難しいでしょうなあ。もう少し早く新幹線が来ていたら、活用方法も変わっていたかもしれませんが・・・

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鉄路の要衝、昔もそしてこれからも。

2024年03月09日 11時00分00秒 | JR

(開業を待つ@敦賀駅コンコース)

敦賀駅コンコースには、開業を待つ北陸新幹線の延伸区間の路線図が大きく掲示されている。今回延伸となるのは金沢~敦賀間のおよそ130km。今までは、特急サンダーバードで最速1時間10分程度だった同区間が、50分程度と約20分短縮されます。敦賀から東京までがシームレスに繋がることで、特に福井県の嶺北地域に与える影響度は非常に大きいものになりそうです。2月以降、北陸新幹線の延伸を伝えるテレビコマーシャルなどもかなり多くなってきましたよね。内容はまあ、延伸される地域の観光のアピールみたいな「どっかで見たな」系のものなのですが、BGMに使われているスカパラの「愛の讃歌」がよい。このブログを書いている時点で開業まであと一週間、開業後の敦賀は、どのように変わるのでしょうか。

北陸新幹線の敦賀開業に伴い、在来線の線路の山側に建設された北陸新幹線ホーム。東京とはシームレスに繋がる代わりに、今まで大阪~金沢間はサンダーバードで一本だったんですけど、敦賀での乗り換えが発生するために「京阪神~北陸間の分断」が起こることになります。これが、東北新幹線の八戸開業みたいな暫定的なものだったら良いのでしょうけど、実際敦賀~大阪間の開業の具体的なメドは立っていない状況ですから、相当に長期間敦賀での乗り換えは固定されてしまうのでしょうね。JR西日本も、それを承知&覚悟の上で北陸新幹線の敦賀駅の真下に特急ホームを新設し、名古屋・大阪から到着するサンダバ&しらさぎをそのまま引き込んで、垂直移動だけで乗り換えさせようという構造になっているようです。完全建屋内の耐雪構造なのでその全貌は見えなかったのですが、在来線からの乗換口が妙に狭いから「あれ?」って思っちゃったんだよな。ほとんど新幹線新駅側で乗客の流動が行われるのなら、ここを通るのは敦賀で降りる客か新設される「ハピラインふくい」の乗客だけということになるので、確かにそんな大きな乗り換え口は必要ないですもんねえ。

大きく弓なりにカーブした敦賀駅の北陸線ホーム。名古屋からの特急しらさぎが、金沢からの特急サンダーバードが、およそ30分に一本程度の間隔でひっきりなしにやって来る。サンダーバードには僅かに敦賀すら通過してしまう超速タイプの列車もあるようだけれども、殆どの列車は長い編成をカーブに預けるようにして駅に停車する。かつては売店も駅弁売りもあったんだろうなあと思わせる長い長いホームには、洗面にでも使われていたのだろうか、水道の蛇口の跡なども残っている。遠く蒸気機関車の時代、長い長い柳ヶ瀬越えや山中越えで、車内に入り込んだ煤煙やススなどで汚れた手や顔を洗い流していたのだろうな、なんて遠い日の妄想も頭をよぎる。つるぎきたぐに日本海、白鳥雷鳥しらさぎ加越、立山くずりゅう大社にわかさ。寝台特急から特急急行あまたの名列車が行き交ったホームも、あと一週間で長大幹線としての旅客輸送の使命は終わり、地元の人々の日々の暮らしに軸を移した地域鉄道にその役目を譲ります。

嶺南の中心都市・敦賀市は人口約6万3千人。その中心の敦賀駅。古くから南の塩津からの深坂越え、北の山中越えを控える北陸道の要衝でもありました。北陸本線の起点である米原と同様、人口の割には鉄道に従事する人の多い、鉄道の街・・・ですよね。これからは、関西と北陸の結節点としての役割が今まで以上に求められる街になりそうですし、ただ通過されるだけじゃなくて、乗り換え需要を上手に取り込んで、敦賀で途中下車してもらえる街になれれば街の発展のためにもいいんですけどね。折角なので、そんな敦賀の街の魅力を味わいつつ散策してみることにします。

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北陸の翼・日本海縦貫線を駆る。

2024年03月06日 17時00分00秒 | JR

(羽ばたく「THUNDERBIRD」@北陸本線・金沢駅)

今回の旅行は、金沢ではなく福井への旅。かがやき501号から乗り換えるのは、北陸本線の特急列車たち。手にした「北陸応援フリーきっぷ」は、フリーエリアでは特急列車の自由席が乗り放題ということもあるのか、乗り継ぐ「サンダーバード14号」の自由席列はかなり長い。頭上の電光掲示板に踊る「THUNDERBIRD」の文字。何だか、アルファベット表記にすると、日本の列車ではなく、欧州の国際特急にでも乗り込むような不思議な感覚がある。日本海縦貫線を走るのも、残りあと一ヶ月となった特急サンダーバード。北陸と関西・中京を結ぶ動脈としての特急群、首都圏に住んでいるとなかなか使う機会もなく、使ったことがあるのは新幹線乗り換えで名古屋~米原回りの「しらさぎ」だけなんですよね。正直、サンダーバードに乗車するのは最初で最後なのだろうと思うけど、日本を代表する特急列車の一つであることは間違いなく、それなりの惜別の思いはあり。

「サンダーバード」に使用されている683系。金沢を朝9時に出るこの「サンダーバード14号」は、基本9両に補助編成の3両を増結した堂々の12両編成。東海道筋から185系の「踊り子(15両編成)」が消えた今、在来線の特急列車の編成としては非常に長い部類に入る。それだけ、大阪・京都と北陸地区の往来は盛んだということが言える訳なのだが、北陸新幹線の敦賀開業で余剰となる(はずであろう)681系・683系はどこへ行くのだろうか。貴重な60Hz対応の交直流特急型電車で、製造費用もかなり掛かったのではないかと思われるので、勿体ないよなと。まあ、初期ロットは既に経年30年を超えたJR初期世代の車両なので、古い編成はそのまま廃車ということなのかもしれないけど・・・

冷たい雨の降る2月の北陸路。北陸路の2月で雪ではなく雨というのも何とも誠意がない。冬は冬らしくあるべきで、金沢駅のホームの空気感は既に3月の半ばのような感じだった。国鉄時代から長年、北陸本線を代表する特急列車であった「特急雷鳥」と、その系譜を継いだ「サンダーバード」。特急雷鳥時代は、大阪~新潟を結ぶ列車もあったんですよね・・・1988年当時の時刻表を繰ると、「雷鳥14号」が新潟8:16発→大阪15:05着、「雷鳥13号」が大阪11:50発→新潟18:44着。新潟からは14号と18号、大阪からは13号と25号が「新潟雷鳥」として大阪~新潟間を約7時間をかけて日本海縦貫線を駆け抜けていました。新潟~金沢には「特急北越」なんてのも走ってましたけど、一気通貫で関西圏から北陸最大の都市である新潟を結んでいた「特急雷鳥」は、それこそケイブンシャや小学館のコロタン文庫の「国鉄特急大百科」的鉄道文化で育ってきた団塊ジュニア世代には「日本海縦貫線を代表するレジェンドL特急」でもあったんですよね。L特急という言い方も懐かしいけれども。側面にデザインされた雷鳥をモチーフにしたロゴ、彼らが北陸路を羽ばたくのもあと僅か。

この日は平日。そして、金沢発9時・大阪着11時半の「いい時間」の列車ということで、大きなカートを引いた外国人や我々のような観光客もいましたが、どちらかと言えば車内の構成はビジネス客優勢。自分の隣に座ったのもスーツ姿のビジネス客で、机の上でノートPCを開いて何やら資料を読んでいた。金沢を出たサンダーバードは、インバータ制御のフィーンというモーター音も心地よく、2月なのに雪の全くない寒々とした金沢平野を快調に飛ばしていく。左手には北陸新幹線の高架橋が延々と続いているが、晴れていればこの辺りからは白山連峰の眺めが実に見事であるらしい。小松・加賀温泉・芦原温泉などの途中駅に停車しない速達タイプの列車なので、あっという間に牛ノ谷峠を抜けて福井平野に出る。自由席は立ち客こそ見えなかったものの、金沢出発の時点で9分程度、福井を出るころにはほぼ満席の盛況でしたね。

福井を出発して鯖江・武生を通過すると嶺北の平野が尽きて、車窓には「越前そば」の大きな看板を出したドライブイン風の建物がちらほらと見えて来る。ホームの傍らに旧北陸本線の補機連結に使われたと思しき給水塔の跡を見ながら今庄を大きなカーブで通過すると、タイフォン一発南今庄から轟轟と延長13,870mの北陸トンネルに飛び込んで、敦賀に到着。北陸本線は、木ノ本~敦賀の柳ヶ瀬・深坂越え、敦賀~今庄の杉津・山中越え、倶利伽羅~石動の倶利伽羅越え、市振~糸魚川の親不知越え、糸魚川~直江津の頸城越えと明治の時代から様々な難所を穿ち、昭和の時代の線形改良と新線建設による抜本的なルートの見直しで日本海縦貫線としての責を担ってきました。今後も、日本の物流の幹線としての役割は揺ぎないのでしょうが、人流に関しては、平成~令和の時代において行われた「国策としての新幹線開業」により、2024年3月にその役目は大きく変わることになります。

北陸新幹線は、今庄の手前の南条の辺りから現行の在来線より海側の山中に入り、19,760mの新北陸トンネルで一気に敦賀駅へ抜けてしまうそうだ。地山の脆さや、浅い土被りの場所で河川の下をくぐるなどの難工事で、開通には6年を要したということなのだが、それでも全長20kmのトンネルが約6年で貫通してしまうのは凄いことだ。北陸本線の名撮影地である王子保~南条のストレートの辺りで北陸本線を新幹線が大きな高架橋で越えて行くのだが、この辺りからなのかな?なんてぼんやり見てたんだけどね。

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君が思い出になる前に。

2024年03月04日 17時00分00秒 | JR

(北陸敦賀の一之宮@気比神宮)

2月の半ばに、過日休日出勤をした代休を消化するということで天皇誕生日と合わせて5連休があったのですが、さすがに5連休も貰って何もしないのも勿体ないことこの上ない。2月の閑散期なので、飛行機なんかを取って四国とか九州とか行ってみたかったんだけど、正月に発生した能登半島地震で観光需要が収縮してしまった北陸地域への客入れを応援するべく、JRで「北陸応援フリーきっぷ」なるものが発売されているのを知る。東京都区内から北陸三県(富山・石川・福井)のJR・第三セクターが乗り放題で2万円ポッキリという好条件に乗っかって、3月16日に北陸新幹線の敦賀開業を控える福井県へ行ってきました。新幹線の開業により、敦賀から金沢までの「北陸本線」は、県営の第三セクター「ハピラインふくい」と「IRいしかわ鉄道」に分割されて引き渡され、米原~直江津までの353.9kmを結んでいた北陸本線は、米原~敦賀間の50km弱を残すのみとなります。国鉄時代から続いてきた、北陸と関西・中京圏を結ぶ特急街道の最後の一ヶ月を味わいに行くという目的と、久々に福井の二つの地方私鉄を巡る旅となりました。

朝4時のスマホのアラームで目を覚まし、ぐっすりと寝入っている嫁さんに軽く声をかけて家を出る。始発電車で横浜へ出て、東海道線で東京駅まで。最近は、鉄道で遠出するなら新横浜や小田原から新幹線で西へ下ることが多いのだけど、そもそもJR東日本の新幹線に乗るのってえらい久し振りだな。いつ以来なんだろ。子供と「土日きっぷ」で湯田中に行った時以来かも。折角出掛けるなら、一番早い便に乗って遠くに行きたいというのが旅好きの人情ということで、行きはまだ夜も明けきらぬ東京始発の「かがやき501号」で。北陸応援フリーきっぷ、行きだけは「かがやきorはくたか」の指定席が利用できます。

3列シートの窓側に腰を落ち着け、売店で買った黒ラベルで朝から早速お清めをいただきつつ、窓の外に雨に煙る関東平野を見やる。この「かがやき501号」は金沢への最速到達列車なので、東京を出ると上野・大宮・長野・富山・金沢しか止まらない。金沢まで2時間27分なのだから速いものだ。富山なんかは、地鉄を撮りにクルマでよく行くけど、あれだって休憩入れながらだけど家から中央道で松本に出て、そっから安房峠経由で7時間くらいかかるもんなあ・・・なんて思っていると、高崎を過ぎて上越新幹線を右に分けると、車窓はほぼトンネルの暗がりだけになった。トンネルを出たら軽井沢の駅構内をあっという間に通過してまたトンネル。あれ、今通り過ぎたのって碓氷峠だったの・・・?という感じ。これじゃ薄い峠だわな。なんて思っているうちに長野。またトンネル。日本の中で一番厚みのある山岳地帯を縦断して行く新幹線ですから、高崎を過ぎると北陸新幹線はほとんどトンネルの中。それにしても雪のない冬である。長野から先はたぶん初乗車だと思うのだが、ちらと見えた飯山付近でも雪はなく、僅かに飯山トンネルを抜けて上越市街に抜けた瞬間に薄い雪景色が見えたくらい。後は再び黒部平野に出るまではほとんどがトンネル。存外面白くないよね、北陸新幹線。車窓を楽しむものでもないな、という感じで時折目を瞑りながらちらっとトンネルの隙間に現れる車窓を眺めれば、能生や青海の周辺で峻険な北アルプスの北端の谷間から鉛色の日本海が見えた。

富山でややまとまった数の降車があって、新高岡から倶利伽羅峠をピュンと越えると新幹線はスピードを落とし、あっという間に金沢に到着。金沢の市内に入って行くときに、所々屋根に青いビニールシートをかけている家があって、能登から150kmは離れているといっても、金沢市内でもそれなりの建物被害があったんだなあ、ということに気付かされる。能登半島地震の爪痕。金沢駅も、ホームに吊るされた電光掲示板が壊れたり、営業エリアの天井の配管が壊れて漏水したりとそれなりの被害があったようなのだが、地震から二ヶ月弱経過して、被害の痕跡は見つからなかった。

金沢駅新幹線在来線乗換口。既に3月16日に向けて準備万端という感じである。ここから残る歴史もあと半月となる北陸本線にお乗り換え。北陸新幹線が敦賀まで開業すると、金沢は中間駅になるので今までのような終点駅として北陸新幹線の旨味を余すところなく享受することは出来なくなるのかな・・・?と思いましたけど、「加賀百万石の城下町」としての金沢の観光地としての価値は、いささかも変わるものがないのでしょうね。関西・中京圏からが敦賀乗り換えになってしまうので、若干利便性が損なわれることを危惧する向きも。大阪-金沢は現行の特急サンダーバードで直通すると7,790円。これに対し、敦賀乗り換え新幹線経由は9,410円で、1,620円高くなるのだそう。その分の利便性としての時間短縮は22分と微妙。敦賀で乗り換えて、合間にトイレでも行ってしまえば埋まってしまう時間の短縮効果で、やはり新幹線としてのスペックが完全に発揮されるには、京都・大阪方面の全線開業を待つしかないということなのだが・・・

未だに敦賀から先は、小浜回りのルートがようやく決定した程度で、ボーリング作業による地質調査などもまだまだこれからの話。経由する京都市では、北部住民が「地下水・残土・環境アセス」というどこぞの静岡のリニアみたいな反対運動が持ち上がっていて、前途は多難なようです。京都市北部から大深度地下で京都駅を通り、松井山手を経由してから大阪駅に向かうそうですが、果たして自分が元気に楽しくお出かけできる間に、北陸新幹線は大阪まで繋がるんかなあ?という気持ちですね。

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富士だけは、変わらず僕を待っていた。

2024年01月29日 17時00分00秒 | JR

(15年の時が流れ@JR御殿場線・御殿場~足柄)

新東名高速道路の建設現場で日本の土木技術を堪能した後は、R246をそのまま御殿場方面に。この辺り、かつては沼津まで走っていた特急あさぎり、小田急のRSE20000系やJR東海の371系を追ってよく来ていたものだ。PCのフォルダから引っ張り出す15年前の写真。当時、まだ一眼レフを持ってから間もなく、連写の利かない入門用のカメラで一枚一枚パシャリ、パシャリと撮影していたのを思い出す。今見ると、色々と構図の詰め方が甘くて「?」ってなる写真なのだが、その時はこれでもきれいに撮れた!なんて思っていたのだから、今の機材を持って当時に帰りたくなる。もう「あさぎり」が沼津まで走っていたことを知らない若い子なんかもいるのだろうな。あさぎり自体は新宿~御殿場へ短縮されて先祖返りし、車両もMSEに変わってしまった。MSEも悪い車両じゃないんだけど・・・新宿方が分割併合型の扁平顔になってしまうのが非常に残念で、この狩屋踏切で撮る機会もいつしかなくなってしまったんだよね。

この日は年に何回かという澄んだ空気の冬の晴天で、真白き富士の嶺の迫力が素晴らしい。この日は特にテツっぼいことをするつもりもなかった思い付きのドライブだったのだが、あまりにも霊峰富士が魅力的。なんとなく「撮って行かねえのかよ」と言われた気がしたので、ハンドルを切って御殿場線の狩屋踏切へ。ひょっとしたら、ここに立つのに10年以上のブランクが開いていたかもしれない。それでも、枯野となった広い田園地帯とここから見上げる雄大な富士は、あの冬と何も変わらない。自分のイメージに比べ、この時期としては少ない雪は暖冬の影響なのだろう。RSEも371も山の向こうに行ってしまった今、ここを通って行く車両の魅力とバリエーションはいかばかりか。傍らの踏切が鳴り、チョンマゲパンタの313系が、軽やかに富士の麓をすっ飛んで行きました。

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