青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

爽秋土手に風吹いて

2015年09月23日 22時16分01秒 | 東武鉄道

(秋晴れ 荒川 スカイツリー@東武伊勢崎線小菅駅)

秋の5連休、天気も良い中で行楽地は盛況だったようですが、今回はひたすら家族サービスに勤しませていただきました。最終日は息子を連れて恒例のブラブラ旅に出て参りましたが、最終到達点は東武伊勢崎線の小菅駅でした。目的地とするにはいささか地味な場所ですが、荒川放水路のドテッぷちにある駅から眺める秋晴れの下町と東京スカイツリー。

  

小菅の駅は内側緩行線の1面2線の島式ホーム。ホームには停車する普通電車しか来ませんので子供連れでも比較的安全ですし、そしていい感じにカーブしているので外側急行線の通過電車を眺めるにはちょうど良い駅。何しろ利用者のそんなにある駅ではないので、ホームが閑散としているのもありがたいですね。自分たち以外にも電車好きな子供を連れたお父さん方が何組かいましたんで、東武好きな人にはそれこそ飲み物でも持って来てまったりと日がな電車を眺めるにはいい駅なのではなかろうか。メトロ車、りょうもう、スペーシア。

    

半蔵門線を介して東急と直通を開始して以降、東武プロパーの車両ってのはローカル運用が主となりまして、やって来る車両の2/3はメトロ車か東急車。東急の8500もこの年になって埼玉の奥地まで走らされるとは思っても見なかったろうよ。しかしこの車両はなんかいつ見てもモーター音やかましく元気に走っているねえ(笑)。きっと関東の大手私鉄の高度経済成長期の主力車両では一番最後まで残るんでしょう。ちなみにメトロ8000も何気に結構シブとい走りを見せてくれています。

   

半蔵門線への直通電車が青空の下の急行線を颯爽と走る陰で、すっかり窓際に追いやられた日比直車の20000系が気まずそうです(笑)。18m車だからお役御免になったらどっかの地方私鉄で貰い手も…と思ったりもするんだが、さすがに5ドア車のグループはどうにも行き先なさそう。梅島とか竹ノ塚のあたりの人には日比直の電車って座りやすいから重宝がられてるみたいですけどね。


浅草口では日中2時間に1本の東武日光・鬼怒川温泉方面の区間快速。この系統に専門で充当されるのが東武6050系。固定型セミクロスシート、テーブル付きボックス席、2ドアと今や貴重な国鉄急行型車両のイズムを継承したこの形式、何気にその存在感が気になっている車両でもあります。2両ユニットで幌を伸ばして2×2×2の6連を組成し、急行線をかっ飛ばす姿はなかなかに格好良い。今度この車両だけ集中して撮りに行ってみようかなと思ってたりもしてるのね。


帰りは曳舟から半蔵門線へは入らず、東武亀戸線とかに乗ってみた。ワンマン2連の8000系更新車がせせこましく10分足らずの線内を行ったり来たり。現在は伊勢崎線系統の支線の一つに成り下がっている亀戸線ですが、開通は明治37年と古く、東武の浅草延伸までは総武鉄道と東武鉄道を結ぶ重要なルートだった訳で。

休日の亀戸とか錦糸町って活気があっていいよね。亀戸の駅前で子供の大好物であるから揚げ定食(500円!)を食べたのだが、大きなから揚げ4つに味噌汁もサラダも付いててこの値段はさすがとしか言いようがないと感心しきりのシルバーウィークの締めでありました(笑)。
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旧きヨコハマを愛でる

2015年09月21日 22時16分47秒 | 日常

(石畳の電停にて@横浜市電保存館)

えー、とりあえずお盆の関西遠征の話を長々と書き過ぎたせいですっかりご無沙汰となってしまいました。まあ関西遠征の後は特に鉄活みたいなものもやってなかったんでさ。んで、世の中既にシルバーウィークなんてものになってまして、いやあ久々に天気の良い連休でそれは結構な事なのですが、出掛けようかなあとちょっと家を出てみただけで普段混まない近所の交差点ですら満足に抜けられませんで、あまりの出足に閉口してしまいましたよ。ってな訳でここでは先日訪問して来た横浜の市電保存館のお話なんぞを。いや、最近子供を連れて出掛ける場所のネタにもほとほと困ってしまって何だかマニアックな場所へ行ってしまったのだが…

 

この市電保存館は、横浜市の交通局が運営している公設の施設。横浜市の磯子区は滝頭という非常に行き辛い場所にある。元は市電の滝頭営業所、現在もここには横浜市バスの営業所があるのですが、営業所の脇に建てられた市営住宅の1Fに、在りし日の横浜市電の車両が保存されております。

 

屋内・空調完備と言う環境以上に静態保存の車両の具合は非常に良く、しかも全ての車両について車内に入ってその様子をつぶさに見る事が出来ます。古い木造車両の飴色の板張りやシートの背摺りの侘び具合、正直横浜市電には何の知識も持ち合わせてはいないけれど、これを大人入場料100円で見せてくれると言う事に感謝せにゃなりませんなあ、という感じ。

 

横浜市電は明治37年に神奈川~横浜(現桜木町)が開業したのを皮切りに、昭和30年代に最盛期を迎え、モータリゼーションの波に押されて昭和47年3月末にて全廃されました。そして同年の秋に市電に代わって横浜市営地下鉄が伊勢崎長者町~上大岡間を開業。市交通局の事業は軌道線から地下鉄線にチェンジする事になります。

  

建物の柱には当時の電停に張られていたであろうホーロー引きの看板。「間門」とかヨソもんには全く分からない地名だろうけど、ハマっ子には本牧の西端、本牧の街ん中を走って来た道と三渓園へ向かう道が合流して、根岸へ向かう交差点の名前としてお馴染みでしょう。個人的にも以前この辺りで仕事をしていたので非常に懐かしい。


おそらくほぼ全盛時に近い横浜市電の路線図。北は東神奈川を通って六角橋、西は保土ヶ谷・弘明寺駅前、南は三渓園を通って杉田までと非常に大きなネットワークを持っていたことが分かります。この路線図では既に廃止済みなのか載ってませんが、青木橋から第一京浜を通って生麦まで行く路線もあったらしい。今は市営バスがカバーしてるけど、本牧とか久保山とか伊勢町とかこの滝頭とか、正直今でも市電が走ってたら便利だったんじゃないかなあと妄想したりする。特に本牧なんか、横浜市が地下鉄を本牧に延伸する話があったのに行政がやらずじまいですからねえ。
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お盆関西見聞録ファイナル 忘れられた鉄路

2015年09月14日 21時47分33秒 | 南海電鉄

(夕暮れ迫り…@南海汐見橋駅)

阪堺電車の訪問を終え、1泊2日の関西遠征もそろそろお開きが近づいて参りました。お財布の事も考え、帰りは新幹線を使わずに夜行の高速バスで帰る事にしたのだが、予約の時期が遅かったのか大阪市内からの便は満席。唯一空いていたのが和歌山から堺を通ってTDRに向かう和歌山バスの夜行便だったので、天王寺から再び堺市方面へ戻らなくてはなりません。もう一度阪堺電車に乗って堺市方面に出ても良かったんですが、天王寺から御堂筋線と千日前線を乗り継いで訪れたのはこの駅。南海汐見橋支線の汐見橋駅です。


当初は高野鉄道の大阪側のターミナルであった汐見橋の駅ですが、高野鉄道が南海鉄道と合併して以降は高野線の電車は南海本線に入ってなんばのターミナルに向かう電車が大半となり、汐見橋へ向かうルートは重要度が低下して行きます。そして岸里付近の高架化によってとうとう高野線とも切り離され、汐見橋~岸里玉出を結ぶ離れ小島の路線と化してしまいました。それでもまだこの区間は南海高野線のまま残り、都会の中のローカル線として現在に至ります。現在の駅舎は、戦後汐見橋がターミナルとしての機能を失った後に建てられた古びた味気ないモルタル塗りの駅ですが、小さいながら天井の高い改札口の姿に、僅かに昔日の栄華の面影を見るのでありました。


改札上の南海沿線観光案内図。左下の注記に「この案内図は昭和30年代のものです」と書かれているのだが、時の過ぎ行くままに破れ放題の案内図に残る表記には当然ながら現存しないものも多く含まれていて、ノスタルジックなタイムスリップ物件として汐見橋駅の名物になっております。地方競馬好きとしては1974年まで開催された大阪府下唯一の競馬場である岸和田の春木競馬場、和歌山の南には昭和63年まで開催されていた紀三井寺競馬場が目を引きます。南海の天王寺支線や平野線が当然残っていて、和歌山市内では海南や和歌浦に向かって軌道線(和歌山市内線)が走っています。埋め立てが進んだ今では考えられませんが、二色浜に並ぶ海水浴場のマークと浜寺公園のヘルスセンター。紀勢本線はまだ新宮までしか開通しておらず(紀勢西線時代)、淡路島には淡路交通と言う鉄道路線が走っていたのが分かります。もうちょっと寄りでカメラに収めて来なかったのが悔やまれますw

 

汐見橋支線の運行を担うのは南海2200型の2連。流線型のズームカー20000型に対して角ズームと言われた21000型を支線用に転用した車両で、2ドアのロングシート。夕暮れ迫るホームはいい具合に哀愁を帯びており、それでもこの路線にしては利用者の多い時間帯なのか2人の客が電車を待っていた。駅名票なども既に更新の対象からは外れているようで、おそらく昭和の時代からそのままなのではないかと思われる。


特にラッシュ時間帯の増発も土休日ダイヤもなく、終電間際を除けば毎日毎日30分間隔で汐見橋と岸里玉出の間をひたすら1編成が往復するルーチンワーク。南海本社の汐見橋支線に対しての扱いと言うのは、とにかく現在も運行していると言う事実以外には一切の無関心が貫かれているように思える(笑)。それでも南海がこの区間を廃止せずに残しているのは、交通審議会の答申でこの汐見橋の駅前を通る新なにわ筋の下に地下鉄を通し、新大阪まで通じる「なにわ筋線」を作る計画が残されているからと言うのが理由らしい。路線バスで1週間に1本しか走らない免許維持路線ってのがあるけど、その鉄道版ってところか。

  

ホームに待っていた2名の乗客+アタクシの計3名が乗り込んだ岸里玉出行きは、特に何の案内もなく汐見橋の駅を発車し、何ともうら寂しい大阪市街の西の外れを走り始めた。新なにわ筋と阪神高速堺線に沿って芦原町、木津川を過ぎ、木津川に行く手を阻まれるように南東に方角を変えて津守、西天下茶屋を過ぎると線路は単線になって高架に登り、終点の岸里玉出に到着する。所要時間僅か9分、距離4.6kmの忘れられた線路の旅が終わります。沿線には燈火眩しい繁華街のようなものは何もなく、木津川の駅から見た暮れて行く夕空が物悲しさを増幅させます。結局汐見橋を出てから岸里玉出までは誰も乗って来ませんでしたねえ。


岸里玉出で折り返しを待つ汐見橋支線の電車。乗客もまばらなこの区間をひたすら往復する運転士氏の気持ちはいかばかりか。自分が運転士だったら正直あまり担当したくない区間だなあ…(笑)。さすがに一日中ここを運転する行路ってのは組まれてないと思うけど、もしそんなんがあったらそれは日勤教育に等しい罰ゲームのような気がする。高野鉄道として開業してから110年余。マリー・ローランサンの名句じゃないが、廃線になるよりももっと哀れなのは、忘れられた鉄路なのかもしれない。


以上、1泊2日の関西見聞録。本当であったらもうちょいと足を延ばして水間鉄道でも1往復してこようかと思ったんだけど、さすがにそこまでの体力が残っていなかった(笑)。住吉大社の駅のコインロッカーにぶち込んでいた荷物を回収し、夜行バスの待つ堺駅前へ。充実した疲れではありますが、相当体力的には使い切った感のある私を待っていたのは、3列シートと言いながら最後尾の4列シートへぶち込まれた和歌山バスの夜行便でした(笑)。寝れるかどうかわかんなかったけど、結局寝ちゃったなあ。最後尾は4列でも足を前の通路に投げ出せる分寝やすいと言う利点はあるかもしれん。堺から横浜経由でTDRってどういうルートを通るのかなと思ってたんだけど、近畿道→西名阪→名阪国道→東名阪→伊勢湾岸→東名高速→保土ヶ谷BP→首都高速経由でした。新東名使わないのね。

予定では横浜のYCAT6:00だったんだけど、1時間近く早着してしまいました。
これにて夏の関西遠征大団円。
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お盆関西見聞録その13 変わらなきゃ阪堺

2015年09月13日 07時31分23秒 | 阪堺電軌

(チン電に 乗ってお出かけ 孫と祖母@東湊駅)

御陵前の電停から堺の旧市街をフラフラと歩いて東湊の駅まで。さすがに午後とは言え夏の日差しを浴びて歩くのには疲れて来たので、しばらくここで休憩する事に。終点の浜寺駅前まではあと少し、孫を連れたお祖母ちゃんが乗り込む下り電車には乗客もまばら。このモ351型は1960年代に当時の木造車両の更新のために製造された鋼製車で、地元堺にあった帝国車輛で製造されました。帝国車輛はその場所柄ゆえ南海電鉄との関係が深く、東急車輛製造と合併して同社の大阪工場となってからも、長い間南海に新造車両を供給していましたね。

 

堺市の南側の住宅街にある東湊の駅。天王寺方面行きのホームの真裏には「えびすや」というお好み焼き屋さんがあって、いい匂いが辺りにたなびいている。まともに食事もしてなかったせいもあって思わずのれんをくぐりブタ玉を一枚オーダー。中はカウンターのみの小さい店で、既に常連さんと思しき二人組が瓶ビールを並べてゴキゲンになっていた。いかにもな大阪のおっちゃん夫婦に焼いてもらったブタ玉を駅のベンチに座って食べる。大ぶりのキャベツにフワリとした生地の焼き加減は、材料こそ同じでもやっぱり素人焼きのお好み焼きとは違った美味しさなのであります。


少しお腹も落ち着いたところで、阪堺電車の旅もラストスパート。東湊から新設の石津北、石津、船尾を出ると阪堺電車は築堤で大きく南海本線をオーバークロスして海側へ。車窓右側に浜寺公園の松林が見えて来ると、電車は僅かな乗客を乗せたままスピードを落とし、終点の浜寺駅前の電停に到着しました。

 

阪堺電車の浜寺駅前電停。海側に浜寺公園がある以外は閑静な住宅街の中にある。駅周辺に繁華街がある訳でもなく、何となく中途半端な場所で終点になっているなあと言う印象だが、昭和初期にはこの浜寺公園は白砂青松の景勝の地であり、夏は大阪方面からの海水浴客で大変な賑わいを見せたそうだ。今は埋め立てにより海岸線は遠く離れてしまっており、公園の松林だけが「海に近いんだなあ」と言う雰囲気にさせてくれる。

  

阪堺電車の浜寺駅前を出て左側には、かつては海水浴客を奪い合った南海本線の浜寺公園駅がある。明治40年、南海鉄道の開通と同時に作られたこの駅は、後に東京駅や日本銀行の本店などの設計を手掛ける辰野金吾氏の設計で作られたものです。辰野金吾氏は後の東大工学部にあたる帝国大学工科大学の学長を務めた人物で、突き出た車寄せの柱の一本一本に施された彫刻や壁のデザイン、2階にあしらわれた三角のドーマー窓の洒脱な感じといい、駅舎の醸し出す風格に圧倒されます。この駅には来てみたかったんですよね。

 

当時における鉄道と言うものは、西洋からやって来た文明の象徴であり、駅の柱に触れてみると、西洋に追い付け追い越せと一生懸命な時代のエネルギーが洋館作りの駅舎から伝わってくるようだ。その歴史といいデザイン性といい、南海本線の浜寺公園駅は国宝級の鉄道遺産なのでありますが、堺市が進める南海本線の連続立体交差事業に伴いその役目を終えようとしています。さすがに登録有形文化財としてもこの駅の価値は万人が認めるものであり、高架化後も保存されるようではありますが…

 

浜寺駅前の電停から折り返しの阪堺電車に乗って再び天王寺方面へ。浜寺駅前は一応出札口があって、日中は駅員も常駐しているようです。浜寺公園にはプールもあり、ちょうどプール帰りの子供たちが乗り込んだ阪堺電車は割と賑やかに浜寺駅前を出て行きます。西日に照らされた車内、堺市内をゴトゴトと走り抜ける電車に揺られて暫しうたた寝。


電車は大和川を越え、住吉の鳥居の前を通り、帝塚山の併用軌道を通って松虫電停までやって来ました。♪あれ松虫が鳴いている チンチロチンチロチンチロリン。日本の中の珍名駅のうちの一つでしょう。由来は大阪市阿倍野区の松虫通と言う地名から。で、その由来は後鳥羽上皇が寵愛した女官・松虫鈴虫姉妹がこの地に隠遁していた事に由来するとされているのだが、松虫鈴虫姉妹ってネーミングからして漫才コンビのようだ(笑)。とりあえず後鳥羽上皇と言われると自分はこのコピペが好きだ。懐かしいなw

  

松虫電停界隈からあべのハルカスを望む。レトロでクラシカルなチンチン電車に近未来的な高層ビルの取り合わせは、都電荒川線で言うと雑司ヶ谷のあたりからサンシャイン60を望むあのイメージでしょうか。松虫電停から天王寺駅前までは、あべの筋の上を併用軌道で走って行く阪堺電車。


夕日差し込む阿倍野交差点を行くモ351型。阿倍野電停から天王寺駅前までは、あべのハルカスだけでなく東急系のショッピング施設であるあべのキューズモールなど新型・大型の商業施設が開業しておりすこぶる賑やか。阿倍野、というのは天王寺駅の南側の一帯を指しますが、JRの駅は北側の地名を取って「天王寺」で、繁華街の地名は「阿倍野」、近鉄の駅名は「大阪阿部野橋」。三者三様なのがいかにも大阪らしい。


天王寺駅前で行きかう阪堺電車。駅前電停は1線しかなく、後続の電車は先発電車の発車まで駅の手前でしばらく待たされるシーンも多いですね…。天王寺駅前の電停はあべの筋に囲まれた川の中州のような場所にあり、地下道から狭い階段でしかアプローチが出来ないというおよそバリアフリーからかけ離れた状態。そのため、阿倍野地区の再開発に伴って、現在阪堺電車を含めた大規模な整備拡幅工事が始まっております。これによると、阿倍野交差点までの南車線の道路を2車線化し、阪堺電車は緑化帯を設置して道路の中央に移設。駅前電停はハルカスとキューズモールを繋ぐデッキからエレベーターと階段で直結し、立派な駅舎が改めて作られるようです。


すっかり夕方となり、駅前電停で電車を待つ人の波も延びて来ました。阿倍野地区の再開発と商業施設のオープンに伴い、天王寺駅前~浜寺駅前をメインルートとして上町線にテコ入れをした結果、この区間は乗客増の効果を享受しているようです。堺市内方面についてはひとまず行政からの補助金と言う形で当面の存続が確保された形となっていますが、新今宮や通天閣を擁する恵美須町方面の旧態依然とした感じから、今度は住吉~恵美須町間の存廃問題が出て来るような気がしてなりません。同区間の流動は南海本線で代替可能なこともありますしねえ。

いずれにしろ軌道路線と言うのは普通鉄道と比べてもより地元行政と密接に関係しており、生かすも殺すも大阪市と堺市の街づくりに対する考え方如何ではないでしょうか。天王寺駅前の再整備事業などからしても、阪堺電車も行政と連携して一生懸命変わろうと頑張ってはいるようですし、補助金とは言え久々の新車(堺トラム)も導入出来ました。宇都宮をはじめ、各都市で市街地活性化のためにLRT事業が積極的に検討されていますし、これからの阪堺電車には注目していきたいと思います。
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お盆関西見聞録その12 泉州堺の足として

2015年09月08日 22時56分29秒 | 阪堺電軌

(阪堺と言えば雲形デザイン@東湊駅)

阪堺電車と言えば、最古参のモ161型と、この雲形カラーのデザイン。何だかクリーニング屋の外壁のようなこの塗装は、個人的には阪堺電車のトレードマークだと思いますね。モ161型は冷房が付いていないので夏の時期はよほどのことがない限り運用に入らないので、訪問した時期が悪かったかな。正月の住吉大社初詣ダイヤの時なら、雲形デザインのモ161型が走っているのを見る事が出来るそうです。

  

今池の電停から乗った阪堺線を北天下茶屋で降りる。電停に繋がる路地は軽自動車が通るのがやっとと言うほどの狭い路地で、そこに一杯飲み屋やら古びた書店やらお好み焼き屋やらが肩を寄せ合うようにして続いている。阪堺線は上町線と比較しても、なおのこと大阪の土着臭が強い地域を走っているような気がするな。漫画の「じゃりん子チエ」って舞台がこの辺りだったと思うけど、まんまその世界観がそのまま広がっているんだよね。


住吉で上町線と合流し、恵美須町からの電車は車庫のある我孫子道まで。ここで後続の堺市内方面行きに乗り換えます。阪堺の車庫をちょっと域外からでも覗かせてもらおっかなー、という気分でいたのだが、残念なことにあんまりマニアの方がお好きでない現業の方がいらっしゃったため断念(笑)。いいじゃんよーちょっとくらい、とは思うのですが、思った以上にカメラを嫌がる方がいらっしゃる事も自覚しなくてはなりません。

  

我孫子道を出ると、電車は長い長い大和川の鉄橋を渡って大阪市から堺市に入ります。橋を渡り切った場所にあるのが大和川電停。堤防の縁にそのまま乗っかるようにある電停で、川っぷちにある工場から機械の物音が聞こえて来るだけの川風の停車場である。夏だからいいが、冬なんかここで電車を待っていたらめっちゃ寒そうである。


阪堺電車の大和川橋梁。橋長198.57mのプレートガーター橋であり、1911年に大阪の横河橋梁が製作した逸品。朝顔鉢のような鉄柱の返しの部分がとてもアーティスティックではないでしょーか。鉄柱同士を繋ぐトラスの部分も、大きくクロスしてある上の部分は細かな網目のトラスになってて美しいですよね。同じ大和川橋梁では、関西本線の第四大和川橋梁が有名ですけど(プレートガーターをワーレントラスで支えていると言うとってもトリッキーな鉄橋なんですよ)、阪堺の大和川橋梁も芸術的な土木遺産だと思いますね。

  

軌道車両が渡る橋としては、加越能鉄道(現万葉線)の庄川橋梁に次いで日本でも有数の長さなんじゃないでしょうかね。渡って行く車両の小ささが際立ちます。造りが細身でちょっと華奢に見えるくらいの橋ですけど、まあ乗っかる車両の大きさ重さを考えたらこのくらいでちょうど良いのかもしれない。

 

堺市内に入ると、綾ノ町から紀州街道に出てここからは併用軌道。道路に挟まれた専用地帯を走ります。専用地帯なので車の進入はありませんが、道路信号に合わせて歩みを止めるのは同じこと。信号も多くなかなか速度は上がりません。堺市は中世より交易都市として発展した商人の町であり、阪堺電車が走って行く紀州街道(旧道)の周囲には歴史的な文化財が多く残されております。その独特な地番の割り振りからも、古くから栄えた都市であることが窺い知れますね。

  

堺市内のこの辺り、電停の名前も大小路・宿院・寺地町とそこはかとなく歴史の由来を感じる名前が続きますが、江戸時代は徳川御三家の一つである紀州徳川家が参勤交代のために使うなど、紀州街道は大阪と和歌山を結ぶ重要な交通路だったんですね。ふと信号の名前を見ると「南旅篭町」とはまた由緒正しそうな地名です。

 

堺市内の併用軌道の最南端、御陵前電停付近を行く阪堺電車。天気予報は曇り時々雨くらいの話だったのに、すっかり晴れ上がった夏の午後。ハデハデしい広告ラッピングを巻いたモ701型同士が行き交います。シングルアームとZ型パンタとそれぞれに違いがあるようですが、軌道線車両だと大きなフトン叩きのようなZ型パンタの方がカッコいいかな。


泉州堺から大阪ミナミへの足として活躍して来た阪堺電車ですが、堺市内の利用については年々進行する乗客減により慢性的な赤字状態が続いており、完全に重荷になっている状況にあります。阪堺サイドも一度は不採算を理由に我孫子道以南の廃止を堺市側に通告するなど危機に瀕しておりましたが、協議の結果は堺市側が阪堺および親会社である南海に10年間で50億円の設備補助金や割引運賃の助成金(大阪市内→堺市内区間の乗り越しが290円→210円に割引)を出す事を条件に立て直しを図る事になりました。3編成が投入された「堺トラム」もその一環として導入されたものですが、この長期間における大型の助成は、大阪都構想とも絡み合い継続的な支援もいつひっくり返るか予断は許さない状況だとか。

御陵前から再び専用軌道に戻った阪堺線は、堺市の旧市街を南に向けて走って行きます。堺市駅から海側の臨海部と、南海高野線の堺東駅周辺の開発が進んでいるのに比べ、この辺りの旧市街は再開発もされず空洞化しているように思えますねえ。神戸電鉄もそうだけど、都市計画と人口流動の噛み合わせの悪さであっという間に鉄道事業なんてものは不採算に陥ってしまうものだと痛感させられる。計画では堺駅から堺東駅に向かって市内を東西に横断するLRT事業と結節するという活性化策もあったらしいのだが…
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