(祈りの空へ@筑前町立太刀洗平和記念館)
太刀洗の駅前から国道500号線を渡ってすぐ、大刀洗飛行場跡地の一角に「筑前町立大刀洗平和記念館」があります。戦前は「東洋一の飛行場」として、「西日本最大の陸軍の航空拠点(ガイドマップより)」としてその名を轟かせた太刀洗陸軍飛行場は、現在の甘木鉄道から大分自動車道までの間、東西2km・南北2km程度の広大な敷地に、付帯する航空廠、航空機工場、教練施設などを備えた一大軍事施設でした。1919年(大正8年)の開場からのここ太刀洗の飛行場の歴史を紐解くと、日清日露戦争による大陸への権益の確保、そして1910年の韓国併合により、大陸への「空の前線基地」が必要になったことが汲み取れます。太刀洗は「大陸に近く、近くに山脈などの障害物が少なく、気候の安定した平野(筑後平野)の中心にあること」などの好条件を持ち、航空技師たちによって長年の候補地探しの末に決まったものなのだそうです。1937年の日中戦争開始から世相が軍事色を強めるにつれ、中国大陸・朝鮮半島・南沙方面への重要な拠点となるとともに、太平洋戦争に突入して以降は搭乗員の訓練地として優秀なパイロットの錬成や航空機の生産に務め、戦線の後退に伴っては沖縄本島とその他の島嶼群、ひいては九州を中心とした本土を防衛する役割が課されて行く事になります。1945年(昭和20年)3月の大刀洗大空襲によって大規模な破壊を受け終戦に至るまでの僅か四半世紀の間でしたが、世界が戦争に明け暮れる激動の時代の中で、日本西方の防空の要としてその存在感を示しました。
館内は、展示物の詳細はプライバシーとかありますんで難しいのですが、展示されている戦闘機だけは外観のみの撮影が可能となっています。太刀洗の記念館に保存されている「零式艦上戦闘機三二型」。いわゆるゼロ戦は、南太平洋のマーシャル諸島のジャングルの中で見つかったものを、福岡市の民間団体が日本に里帰りさせたものだそうです。その運動性能の高さと操縦士の練度の高さで欧米列強の空軍を震え上がらせたゼロ戦ですが、その運動性能の高さは部品の一つ一つまで徹底的に軽量化をはかった機体にありました。「超軽量・高速・旋回性(敏捷性)」を設計思想の中核に据えた機体は運動性能には優れていましたが、それゆえ防御力に乏しく、太平洋戦争末期は鹵獲した機体からその弱点を見つけ出した連合国軍の戦闘機の餌食となったのでありました。まあそれにしてもゼロ戦のコックピットの狭さよ。大空高く、そして孤独な闘いであったのだろうなあ。
そして、太刀洗と言えば太平洋戦争末期は南方戦・沖縄戦における特攻の出撃基地となったこともあって、同じ九州では鹿児島県の知覧や鹿屋の航空基地とともに、多くの戦死者とその資料が遺されています。まずは展示場に鎮座する陸軍九七式戦闘機乙型。日本陸軍の戦闘機の中では安定した性能と操縦性の良さを持っており、中島飛行機を中心に3,000機以上が生産された主力機だったそうです。この機体は、満州から知覧への飛行中にエンジントラブルを起こして博多湾に墜落してしまったもので、その機体の残骸が湾内の埋め立て工事の際に見つかり、多くの人の尽力によって引き上げられて現役当時の姿に復元されたものなのだそうです。この機体を操縦していた操縦士は不時着後に漁船に助けられ九死に一生を得るも、再度特攻の出撃命令を受け、知覧から飛び立って沖縄で戦死してしまったそうだ。知覧はずいぶんと昔にクルマで九州を旅行した際に訪れたことがありますが、やはりここ太刀洗でも展示物の中心は特攻隊員の辞世の書というものが多い。死に場所を求めるような文章であったり、郷里に残した家族の無事を案ずる書であったり、幼い子供が読みやすいようにとカタカナ書きで全文を綴ったものだったり。銃後との通信手段が手紙以外になかったこともあろうけれども、何とかしてその思いの丈を、伝えるべき人に伝えたいという気持ちだけは80年余の年月を超えてヒシヒシと伝わって来る。それにしてもどの書も達筆であると同時に文章のしたため方も見事な教養に裏打ちされたものが多く、やはり軍隊の中でも戦闘機の操縦士になるクラスの人たちは頭脳も明晰であったんだなあ・・・と思わせる。
太刀洗の駅に、次の甘木行きの列車が来るまでの一時間。正直、展示物の物量を考えたら一時間ではなかなか掘り進めない重さのある資料の数々を眺め、読み、その重さを胃の腑に落とし込む。「特攻」という作戦の是非、命を落とした隊員の英霊化への批判、英霊などではない、軍部によって犬死にさせられたのだという批判、当時の天皇制と苛烈な作戦に隊員を追い込んだ軍部への批判、戦争を巡るその他諸々の事象というものは、個々の持つ政治スタンスやイデオロギーによって解釈が異なり、事後の評価と合わせて今も様々な議論がある。簡単な賛美も、簡単な批判も許されない難しさを抱えた「特攻」という作戦は、個人的には「爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりをする」という作戦の単純さがゆえに、その実行は相当な時間の教育の果てというか、言ってしまえば「洗脳」に近い思想教育による強制的な納得と、ある意味の諦観を持って実行された戦術であったと思う。
太刀洗の飛行場は、沖縄戦を前にした1945年(昭和20年)の3月の末、大量のB-29による2回の大空襲により波状的な爆撃と機銃掃射で飛行場一帯は灰燼に帰したといいます。大刀洗大空襲は一方的な米軍による地上軍事施設への猛攻撃でしたが、一部は民間人の居住地にも降り注ぎました。1,000人以上の死者の中には、終業式を終え、複数の学校から集団下校中の子供たちの中で炸裂した爆弾と、それによって奪われた多数の命も含まれていたことも付け加えておきます。