青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

太刀洗、ゼロの翼のその先に。

2024年09月24日 10時00分00秒 | 甘木鉄道

(祈りの空へ@筑前町立太刀洗平和記念館)

太刀洗の駅前から国道500号線を渡ってすぐ、大刀洗飛行場跡地の一角に「筑前町立大刀洗平和記念館」があります。戦前は「東洋一の飛行場」として、「西日本最大の陸軍の航空拠点(ガイドマップより)」としてその名を轟かせた太刀洗陸軍飛行場は、現在の甘木鉄道から大分自動車道までの間、東西2km・南北2km程度の広大な敷地に、付帯する航空廠、航空機工場、教練施設などを備えた一大軍事施設でした。1919年(大正8年)の開場からのここ太刀洗の飛行場の歴史を紐解くと、日清日露戦争による大陸への権益の確保、そして1910年の韓国併合により、大陸への「空の前線基地」が必要になったことが汲み取れます。太刀洗は「大陸に近く、近くに山脈などの障害物が少なく、気候の安定した平野(筑後平野)の中心にあること」などの好条件を持ち、航空技師たちによって長年の候補地探しの末に決まったものなのだそうです。1937年の日中戦争開始から世相が軍事色を強めるにつれ、中国大陸・朝鮮半島・南沙方面への重要な拠点となるとともに、太平洋戦争に突入して以降は搭乗員の訓練地として優秀なパイロットの錬成や航空機の生産に務め、戦線の後退に伴っては沖縄本島とその他の島嶼群、ひいては九州を中心とした本土を防衛する役割が課されて行く事になります。1945年(昭和20年)3月の大刀洗大空襲によって大規模な破壊を受け終戦に至るまでの僅か四半世紀の間でしたが、世界が戦争に明け暮れる激動の時代の中で、日本西方の防空の要としてその存在感を示しました。

館内は、展示物の詳細はプライバシーとかありますんで難しいのですが、展示されている戦闘機だけは外観のみの撮影が可能となっています。太刀洗の記念館に保存されている「零式艦上戦闘機三二型」。いわゆるゼロ戦は、南太平洋のマーシャル諸島のジャングルの中で見つかったものを、福岡市の民間団体が日本に里帰りさせたものだそうです。その運動性能の高さと操縦士の練度の高さで欧米列強の空軍を震え上がらせたゼロ戦ですが、その運動性能の高さは部品の一つ一つまで徹底的に軽量化をはかった機体にありました。「超軽量・高速・旋回性(敏捷性)」を設計思想の中核に据えた機体は運動性能には優れていましたが、それゆえ防御力に乏しく、太平洋戦争末期は鹵獲した機体からその弱点を見つけ出した連合国軍の戦闘機の餌食となったのでありました。まあそれにしてもゼロ戦のコックピットの狭さよ。大空高く、そして孤独な闘いであったのだろうなあ。

そして、太刀洗と言えば太平洋戦争末期は南方戦・沖縄戦における特攻の出撃基地となったこともあって、同じ九州では鹿児島県の知覧や鹿屋の航空基地とともに、多くの戦死者とその資料が遺されています。まずは展示場に鎮座する陸軍九七式戦闘機乙型。日本陸軍の戦闘機の中では安定した性能と操縦性の良さを持っており、中島飛行機を中心に3,000機以上が生産された主力機だったそうです。この機体は、満州から知覧への飛行中にエンジントラブルを起こして博多湾に墜落してしまったもので、その機体の残骸が湾内の埋め立て工事の際に見つかり、多くの人の尽力によって引き上げられて現役当時の姿に復元されたものなのだそうです。この機体を操縦していた操縦士は不時着後に漁船に助けられ九死に一生を得るも、再度特攻の出撃命令を受け、知覧から飛び立って沖縄で戦死してしまったそうだ。知覧はずいぶんと昔にクルマで九州を旅行した際に訪れたことがありますが、やはりここ太刀洗でも展示物の中心は特攻隊員の辞世の書というものが多い。死に場所を求めるような文章であったり、郷里に残した家族の無事を案ずる書であったり、幼い子供が読みやすいようにとカタカナ書きで全文を綴ったものだったり。銃後との通信手段が手紙以外になかったこともあろうけれども、何とかしてその思いの丈を、伝えるべき人に伝えたいという気持ちだけは80年余の年月を超えてヒシヒシと伝わって来る。それにしてもどの書も達筆であると同時に文章のしたため方も見事な教養に裏打ちされたものが多く、やはり軍隊の中でも戦闘機の操縦士になるクラスの人たちは頭脳も明晰であったんだなあ・・・と思わせる。

太刀洗の駅に、次の甘木行きの列車が来るまでの一時間。正直、展示物の物量を考えたら一時間ではなかなか掘り進めない重さのある資料の数々を眺め、読み、その重さを胃の腑に落とし込む。「特攻」という作戦の是非、命を落とした隊員の英霊化への批判、英霊などではない、軍部によって犬死にさせられたのだという批判、当時の天皇制と苛烈な作戦に隊員を追い込んだ軍部への批判、戦争を巡るその他諸々の事象というものは、個々の持つ政治スタンスやイデオロギーによって解釈が異なり、事後の評価と合わせて今も様々な議論がある。簡単な賛美も、簡単な批判も許されない難しさを抱えた「特攻」という作戦は、個人的には「爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりをする」という作戦の単純さがゆえに、その実行は相当な時間の教育の果てというか、言ってしまえば「洗脳」に近い思想教育による強制的な納得と、ある意味の諦観を持って実行された戦術であったと思う。

太刀洗の飛行場は、沖縄戦を前にした1945年(昭和20年)の3月の末、大量のB-29による2回の大空襲により波状的な爆撃と機銃掃射で飛行場一帯は灰燼に帰したといいます。大刀洗大空襲は一方的な米軍による地上軍事施設への猛攻撃でしたが、一部は民間人の居住地にも降り注ぎました。1,000人以上の死者の中には、終業式を終え、複数の学校から集団下校中の子供たちの中で炸裂した爆弾と、それによって奪われた多数の命も含まれていたことも付け加えておきます。

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79年目の、空を見上げて。

2024年09月22日 10時00分00秒 | 甘木鉄道

(西鉄開業100周年記念号@西鉄小郡駅)

朝から暑い太宰府で子供たちの学業祈願を済ませた後は、改めて急行電車に乗って大牟田方面へ。ただし、そのまま真っ直ぐ大牟田方面に向かうことはせずに、西鉄小郡駅で下車してみました。福岡県小郡市の中心駅で、駅は2面4線の緩急接続タイプ。ここまでは天神からの区間列車があったりして、運転上の節目になる駅でもあります。駅から西に1kmと少しで佐賀県の鳥栖市。このあたり、並行して走るJR鹿児島本線は鳥栖付近でいっとき佐賀県をかすめ、長崎本線を分けて再度福岡県側に戻りますが、西鉄電車はここから先、味坂駅の南側で佐賀県まであと100mくらいの場所を走りつつ「意地でも佐賀県には入らんばい!」とでも言いたげな感じの絶妙なコース取りで南下して行きます。駅を出て行く天神行きの急行電車は3000形の5連。2024年は前身の九州鉄道から数えて西鉄開業100周年のメモリアルイヤー、記念ラッピングの「ガタンコ・ゴトンコ号」が発車して行きます。

西鉄小郡駅のすぐ北側、100mくらいの場所で、大分自動車道と単線非電化のレールが西鉄電車をオーバークロスしています。これが旧・国鉄甘木線を三セク転換した甘木鉄道。築堤の上に設けられた小郡駅。国鉄時代は「筑後小郡駅」という名前でもう少し離れた場所にあり、ちょっと乗り換え駅としては使い勝手がいいとは言えない関係にあったものを、三セク転換を機に現在の位置までずずーっと500m移転。お互いに歩いて5分程度の位置関係に整え直し、大きく利便性を改善したのでありました。そう言えば、西鉄大牟田線は鹿児島本線と2回、久大本線と1回、筑豊本線と1回、そしてこの甘木線と1回と5回の国鉄線との交差シーンがあるんですが、どこにも明確な「乗換駅」は作られてはいません。筑豊本線は「原田線」と呼ばれる閑散区間ですからまあ仕方がないにしても、鹿児島本線とは福岡市内の井尻~雑餉隈間(南福岡付近)や久留米市南部の聖マリア病院前~津福間で交差していて、ここに乗換駅でもあったら便利なのでは?というのは普通の感想なのだが・・・徒歩連絡でも有効な位置に駅を作らなかったのは、福岡都市圏の中で明確にお互いをライバル視しているのもあるのだろうし、そもそも昔から、「天神」に行く人は西鉄電車へ、「博多」へ行く人は国鉄へという住み分けがあって、利用する目的が違う路線なんだとも思います。

築堤の小郡駅に駆け上がって来る甘木鉄道のディーゼルカー。国鉄時代は1日僅か7往復の閑散ダイヤで、朝8時台の列車が出て行ったら次が夕方の16時台という結構とんでもないダイヤで走っていた。そんなに需要がなかったのか、それとも当時の国鉄らしいヤル気のなさなのか。三セク転換以降、新生・甘木鉄道は徹底的な地元密着と利便性の向上のため筑後小郡駅を移設し4駅を増設、交換駅を増やして車両を増備。その積極姿勢が奏功したのか沿線の学生や通勤客の利用が定着し、現在は40往復/日、朝7時台は15分ヘッドで走って来る優良三セクのひとつ。福岡周辺には、このように潜在需要がありながらテコ入れをされず、流れに任せて旧態依然としたままの路線がそこそこあって、この国鉄甘木線や初日に見て来た国鉄勝田線(吉塚~筑前勝田間)なんかがその好例。筑肥線の旧線(博多~姪浜間)なんかもそれに当たるでしょうか。筑肥線は福岡市営地下鉄との相互乗り入れ、甘木線は三セク化で事態の改善を図ることが出来ましたが、勝田線は早々に廃線となってしまったんですよね。

小郡からはしばらく、宝満川を渡るまでは大分自動車道と併走して小郡市内の高架線を走る甘木鉄道。このあたりも三セク転換以降の小郡市内の立体交差事業という感じがするが、途中に設けられた大板井駅は大分自動車道の「高速小郡大板井バス停」に隣接していて、公式でも高速バスへの連絡が推奨されている。ダイヤを見ると、西鉄バス・日田バスの共同運行便である「福岡~日田線」の高速バスが30分に1本の間隔で発車していて、天神・博多方面へ40分で結んでいる。料金は1,040円と甘鉄・西鉄経由の650円と比べると若干割高感はありますが、時間帯によってはバスの方が早い場合もあったりするようで、着席して乗り換えなしで天神・博多まで直行はシチュエーションによってはアリなのでは。

甘木鉄道のNDCは、田園の中に工場地帯が混じり込むような半農半工業の風景の中、晴れたり曇ったりの筑後平野を東へ進んで行く。小郡の駅から乗車して約15分、大刀洗の駅で青い色のキハを降りる。平日の午前中、どのくらいの人が降りるのかなと思ったら、案外と車内の半分くらいの人が甘木まで行かずにここ大刀洗で降りて行く。彼らに続いて構内踏切を渡り駅前広場に出ると、かつての駅舎だったと思しき木造の建物の上には何故だか飛行機が乗っかっててびっくり。これは旧駅を活用した「大刀洗レトロカフェ」という施設らしいのだが、上に乗っている航空機は、ここがかつて「東洋一の飛行場」と呼ばれ、九州・沖縄や大陸方面の防空と本土防衛の最前線基地としてだけでなく、航空隊の訓練施設や、航空機の生産を通じて日本の航空技術の発展に多くの足跡を残した大刀洗飛行場があったことによります。

今年で戦後79年目。油照りの夏、この大刀洗の街に、記憶の糸を辿りにやって来ました。

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