(水運の歴史と冬ざれと@利根運河)
午後になってすっかり曇りベースの東葛地方。東武野田線を、運河の駅で降りてみる。「運河」って何ともそのまんまの駅名だよなあ。で、運河なんてどこにあるんだ!って遠来の人は思うのでしょうけど、ちゃんとあるんです。駅の隣りを流れる利根運河。江戸時代に完了した利根川の東遷事業により、銚子から利根川を遡行し、江戸川を下る水運ルートが確立しましたが、さらなる利便性向上のため、明治初期に利根川と江戸川の間を開削して完成したものです。今となっては運河らしい威厳はなく、水の乏しい住宅街の小川という感じなのですが、堀の深さだけが運河の名残りでしょうか。日本の運河って、京浜工業地帯みたいな海岸沿いの埋立地の中には結構あるけれども、ここまで明確に内陸部にある運河というのは珍しいですね。ただし、明治初期に運河は開削されたものの、明治44年には東武野田線の前身である千葉県営鉄道が柏~野田町間を開通させていますから、利根運河が水上の輸送路として役に立った時期って意外に短かったんじゃないかと。そこから物流は水運から鉄道に遷移して行ったのでね。
そんな利根運河の橋を渡り、車体をくねらせ運河駅に進入する8111F。東武野田線は、大宮から船橋の全線が複線化されている訳ではなく、春日部から運河駅までの18.0kmは未だに単線になっています。建前上は全線で急行運転を行っている野田線も、単線区間だけは各駅停車。日中10分に1本の運行頻度を維持しているくらいなのだから、需要がないわけでもない。それでもなかなかこの付近が複線とならないのは、春日部~運河間には江戸川橋梁をはじめ大落古利根川、中川、利根運河と多くの単線橋梁が残り、春日部駅付近では伊勢崎線を跨ぎ越す立体交差もあって、ここらへんに新しい橋を架けて複線化するのが費用的にもなかなか大変なんだろうなと。それでも、野田市駅付近は連続立体交差事業が開始されていたり、改良の機運がないこともないのだが。
船橋から続く複線区間の北端である運河の駅。流山おおたかの森付近の急激な宅地開発による需要増のため、柏~運河間には日中に区間運用が組まれており、2面3線の中線を使っての機織り運用が行われている。折り返し線に運河止まりの8000系が入線して来た。行先表示がLEDに更新されていない、いわゆる「幕車」というヤツですね・・・幕車エモい・・・中途半端にLEDにされちゃうと写真にした時写んねえんですわ。中線の8000系を横目に見ながら、柏へ先行する8111F。インターナショナルオレンジの垢抜けなさもいいけど、現行8000系のジャスミンホワイトに濃淡二本のブルー帯も好き。むしろ、8111Fが戻ってくるときには、この現行8000系の塗装にしてほしい!って声もファンから多かったように思う。
利根運河を渡る橋の上から。歩行者専用の橋で、「ふれあい橋」というらしい。橋を渡った先は、東京理科大の野田キャンパス。駅周辺には、大学に通う学生向けの飲食店も目立つ。そう言えば、東京理科大って野田の他に久喜とかにもなかったっけ?大学のHPを見ると長万部とかとんでもない場所にもキャンパスがあったりするのだが、長万部で何をやるのだろうか。酪農とか?と思って調べてみたら、国際デザイン経営学科、だって。それって、北海道じゃないとできないことなの?(笑)。
ふれあい橋を横目に、利根運河を渡って単線区間に入って行く8111F。橋を渡った先にも複線用の路盤は用意されていて、利根運河を渡る橋だけ架けられれば、野田市辺りまでは複線化出来そう。しかしながら、野田市駅周辺の立体交差事業は、複線用の土地を確保しつつ単線分しか行われておりません。コロナ禍以降の乗客の回復に疑問符が付くこと、少子高齢化に伴い通勤通学需要は緩やかに減少すること、首都圏外縁部に拡大して行った通勤圏が、昨今の再開発に伴い都心回帰していることなどなど、ちょっと投資には及び腰の雰囲気が垣間見える野田線の沿線模様。東武本社からも「必要な設備投資として車両の置き換えは進めるが、将来的には野田線は5両に減車」という基本計画が発表されていて、ウワサでは80000系(仮)が投入されるんじゃないかなんて話もある。ただし、新しい車両の開発と投入までは暫く時間がかかるので、それまでの時間稼ぎのために8111Fを投入し、ひっ迫する車両需要を乗り切ろうとしているのが本音のところなのでしょう。