青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

猫の駅 陽炎揺れる 昼下がり。

2024年09月09日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(猫の佇む駅名票@西鉄新宮駅)

和白から住宅街の中にある三苫駅を経て、西鉄貝塚線の10km程度のショートトリップはここ西鉄新宮の駅で終了。駅名票にはなぜか猫が佇む。これは、西鉄新宮駅のある新宮町の沖合に浮かぶ離島・相島が「猫の島」と呼ばれていることにちなむのだとか。相島は新宮町の沖合7.5km、玄界灘に浮かぶ小さな島で、島ではバーベキューやバードウォッチング・釣りなどが楽しめるそうです。福岡県の玄界灘沿いには、壱岐や対馬まで行かずともいくつかの小さな離島があって、相島もその一つ。ちょっと興味があって、島まで渡る船の時間とか調べちゃったよ(笑)。駅から渡船の出る新宮漁港までは徒歩20分、そして島までは渡船で20分。漁港へは渡船に合わせてコミュニティバスが出ているのだけど、さすがにこのクソ暑い中で大荷物持って離島に行く元気はないのであった。そう言えば、行きの飛行機から見えましたよね。相島。

西鉄新宮の駅は、元々は津屋崎に向かう宮地岳線のちょうど中間点に位置し、糟屋郡新宮町の旧市街にあります。新宮町は福岡市に隣接する福岡都市圏のベッドタウンで、人口は3万人強。かつての宮地岳線の沿線地域に比べ、最近ではJR鹿児島本線の新宮中央駅を中心にした市街地の整備拡大が目覚ましく、大手不動産の開発による大規模なマンション群と大型ショッピングモールを中心とした開発が進んでいます。宮地岳線改め貝塚線の終点となった新宮の駅は、そんなJR沿いの都市化とは少しテンション感の異なるローカルムード。1990年代までは、新宮漁港で揚がった魚を博多の魚市場へ運ぶ行商人のおばさんの利用などもあったらしく、駅の周りにも鄙びた海辺の街の雰囲気がそこはかとなく残っている。少し海のほうに歩けば海水浴場もあるようだし、浜辺に続く松林の路地には、夏休みを謳歌する子供たちの声も。宮地岳線の部分廃線から既に17年が過ぎ、津屋崎へ向かっていたレールは駅の構内でブツリと切られ、冒進防止のバラストと車止めで無造作に終わっています。島はともかく、駅の近くに野良猫でもいないのかな、と思ったのだが、あまりの暑さに陽炎揺れる駅前通りに、人の姿も猫の姿も見えはしないのでありました。

日中の貝塚線は、下りの列車が新宮に到着すると既に折り返し準備をしていたもう片方の電車が釣瓶のように発車して行く運行パターン。いわゆる「段落とし」になっていて、運転士氏は折り返し電車が発車するまで、僅かな間の休憩時間が与えられる様子。一応駅舎には職員の姿があり、小さいながらも乗務員の詰所があります。猛暑の中、日差しの強い運転台での乗務はなかなかの重労働であろう。車内の冷気が抜けるのを防ぐため、詰所に戻る前に運転台のスイッチを操作して、貝塚側の一つのドアしか開けずに締め切られた西鉄600形。車体の隅に刻まれた銘板は、「昭和37年7月・川崎車輌」とある。まだ川崎重工でも川崎重工車両カンパニーでもなかった頃の、先代の「川崎車輌」のクルマ。ちなみに現在の川崎車両は、川崎造船所→川崎車輌(先代)→川崎重工→川崎重工業車輛カンパニー→川崎車両(2代目・現在)という変遷を辿っていて、日立製作所と並ぶ日本の財閥系鉄道車両メーカーとして現在も車両の製造を続けています。ちなみに西日本鉄道の車両は現在オール川重製なんだそうで。昔は川重以外の車両も入れたことあるみたいですけどね。

青空の下、折り返しを待つ600形。それにしても、昭和37年というのは、今やふた時代前の話になる。前回の東京オリンピックが昭和39年(1964年)であったことを考えれば、西鉄600形はそれ以上に古い車両だ。歴史を紐解けば、東京オリンピックと同時に開業を控えた東海道新幹線の試作車両などといっしょに川崎車輛で産声を上げているらしい。首都圏の私鉄でさすがに昭和30年代製造の車両を使っている会社もなかなかないが、大手私鉄の中では指折りのオールドタイマーであろう。ただ、その時代の車両の造りというのは、台枠から組み上げた鋼板の大振りの躯体に、いかにも鋳造物という感じの頑丈な台車(西武電車のお古らしいが)と、消費電力の大きい造りながらもインバータではなく電気接点で動くシンプルな制御装置で構成されていて、あまり時代が「省〇〇」を求めなかった時代のものなので、丈夫なのかもしれない。また、大牟田線から宮地岳線へ転籍させる際に、台車の交換と同時にモーターの新造もおこなったので、足回りは比較的若く保たれているのもあろう。

600形の運転台周りのレイアウト。車内の非常停止装置がヒモで引っ張るタイプなのが珍しいのだが、これは車掌が列車を急停車させるために引く非常弁(非常ブレーキ)と同じものが装備されているのではなかろうか。今は非常通報装置はブザーだから、即座に列車を停止させる装置とは少し違うような気もするが。昔ながらの短冊形のスタフに刻まれた列車のダイヤも、最近の電車はこういうものすらモニタ画面に表示されるのが常だからねえ。いちいち指で停車駅の矢印の目盛りを動かしたりはしない。

本当であれば、市営地下鉄と相互乗り入れが果たされていて、そうなっていれば、何らかの新しい車両が入っていて、そうなっていれば、津屋崎までが廃止にもならずに済んで・・・などなど数々の「れば」が重なり合って今に至る西鉄貝塚線。ちなみに、西鉄が2022年に発表した計画では、「2027年度までに貝塚線600形を廃車し、車両再生工事を実施した7050形16両を導入する」との記載があって、600形の置き換えの話がない訳ではないようだ。コロナ禍の中で発表された経営計画なのでどこまで実行に移されるのかは予断を許さないとはいえ、文言通りであれば来年あたりから600形の廃車が始まることになる。ようやくこの路線にも、新しい波が押し寄せるのであろうか。

昔懐かしの真鍮のブレーキハンドルを持った運転士さんが詰所から出て来て、還暦越えの電車のマスコンに、シャコンとハンドルをセットした。


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