(カラフルVSカラフル@伊田商店街)
石炭博物館の帰り、伊田の商店街の入口で平成筑豊鉄道の列車を待つ。カラフルなアーケードの横を、直方行きのNDC が通り過ぎて行く。アーケードの奥には、店の名前を記した行灯が連なっている。時刻は夕方少し前、昭和の時代の伊田商店街ならば、あちらこちらに夕餉の材料を買い求める筑豊の奥様方の姿があったのだろう。そういう人たちはどこへ行ってしまったのか・・・と問われると、そのままお年を召されて、もう駅前の商店街をブラブラするような気力はないのかもしれない。直方同様、この街も商業の中心地は国道201号の田川バイパス沿いに立つ「サンリブ田川」というショッピングセンターを中心にしたロードサイドに移っている様子。そもそも田川市、1989年(平成元年)の人口5万8千人から2024年(平成6年)の人口は4万5千人。平成時代に20%以上の人口減を食らい、団塊の世代はそのまま高齢化という日本の地方都市の宿痾を抱えています。結局どこでもそうなんだけど、都会へ出て行った若者が戻らないということなんだろう。一時期、石炭に代わって香春岳や船尾の鉱山における石灰石・セメント産業が脚光を浴びた時代もありましたが、こちらも平成不況の中でセメント需要が減退し、合理化を余儀なくされています。
国の合理化政策を受け、「脱・石炭」を模索した田川の半世紀ですが、根本的には石炭産業に代わるものが見つからないでいるのが現状。産業誘致を目論んで開発された市内最大の工業団地も、今になっても全ての区画が埋まりきらないと聞きます。炭鉱夫たちの日々の労働の疲れを癒したであろう古酒場の向こうを、日田彦山線のDCが通り過ぎる。なんだか田川にいると、「昔日の炭鉱街」みたいな感傷的なものばかり追い掛けていて、絵に華やかさとか楽しさみたいなものが見当たらなくなるのだが、それこそ私は坂田九十百翁が喝破した「筑豊のイメージとして、一種の先入観にとらわれる人たち」のうちの一人なのかもしれない。筑豊に行ってカメラを握れば、当たり前だが誰でも土門拳になるわけではない。ただ、どうしても「そういうもの」ばかり追い掛けてしまう。西成とか、山谷とか、それこそ黄金町とかさ。そういう方面に興味のあるカメラ持ちに共通の症状なんじゃないかな、とひとりごつ。
再びアーケードを歩いて、田川伊田の駅。近年改築されたようで非常にきれいで立派な造りをしている。大正浪漫の世界なのだろうか。聞けば、この駅舎の上階部は「田川伊田駅舎ホテル」としてドミトリーみたいになっていて、宿泊することが出来るらしい。駅前にはコミュニティバスとタクシーのロータリーがあるだけで、取り立ててなんもないですけど、駅に止まれる、と言うのは魅力あるね。寝台列車のB寝台を思わせる二段ベッドの部屋なんか、みんなで泊まったら楽しそう。ホントに泊まるだけのドミトリー形式だから設備も簡素でしゃれっ気はないけど、1人1泊4,000円くらいだし、筑豊地区を鉄道で旅歩くんだったら、交通アクセスや非日常的な体験と合わせて十分宿泊対象になって来るかと。朝起きて、窓を開ければ駅のホームという体験も悪くない。
そろそろ終わりに使づいてきた夏の九州旅。この日は小倉から新幹線で帰郷することになっている。土曜日の夕方、筑豊から博多まで戻って羽田へ飛ぶよりも、新幹線のEX予約で早割を効かせた方が安かったというのはあるのだが、どうも三日間で二回も飛行機乗るのがあんま好かん、という個人的な理由もあった(笑)。田川後藤寺方面から、草むらをかき分けるようにしてやって来た日田彦山線の小倉行き。かつては急行はんだ、あきよし、日田、ひこさん、あさぎりと5種類もの急行が行き交い、由布院を中心にした大分県の内陸部と北九州・山口県西部を結ぶ動脈の一つでしたが、九州北部豪雨による土石流によってズタズタに寸断され、添田以南は結局鉄路として復活することはありませんでした。現在は、添田から先は線路が剥がされ、BRTがアスファルトで舗装された道を走り、県境の彦山トンネルを越えて久大本線の日田までを結んでいます。
靴を脱いでガラガラのボックスシートに足を投げ出し、ペットボトルのお茶を飲みながら、列車は雨上がりの筑豊の夕方を走り抜けていく。車窓から、石灰石の採掘で上半分がすっぱり切られた異様な形の香春岳と、山の麓のセメント工場を眺めていると、列車はタイフォンを大きく鳴らして金辺峠のトンネルに入って行きます。分水嶺のトンネルを出ると、右手には平尾台のカルスト地形とベンチカットされた山容が望まれて、ああ、日田彦山線は、香春岳や平尾台で産出する石灰石の輸送を目的として開設された白い動脈なんだなあ、ということが分かります。石原町を過ぎたあたりから徐々に乗客が増え、車窓は小倉の市街地・・・と言った感じに変化して城野から日豊本線へ入るのだが、ここで架線の下では少々鈍足なキハは日豊本線の普通列車に道を譲った。「小倉までお急ぎの方は日豊本線電車にお乗り換えください・・・」というアナウンスがあったが、あとは小倉から帰るだけだ。急ぐ旅でもないので、そのままにする。
北九州市の玄関口である小倉駅。駅に突っ込むように出入りするモノレールは北九州市が100%出資する第三セクターでの経営ですが、かつての西鉄北九州線の一部であった北方線を廃止して転換したものです。駅ビルの「アミュプラザ小倉」は、北九州モノレールを小倉駅の直上へ延伸させるために1998年に改築されたもの。上階がホテル(JR九州ステーションホテル小倉)であることは田川伊田と変わらないのだが、その規模が違い過ぎて笑ってしまう。駅前のビルにテナントとして入る、東京と何ら変わらない全国展開のチェーン店のラインナップ。駅前の賑わいの違いは、とても同じ県の出来事とは思えなくて、そう考えると福岡県って街の顔が非常に多彩だね。国際都市福岡、工業都市北九州、炭鉱都市筑豊、農業漁業の筑後。これが全部福岡県なんだもの。
西鉄貝塚線、西鉄天神大牟田線、西鉄太宰府線、西鉄甘木線。甘木鉄道、筑豊電鉄、平成筑豊鉄道。多々良川畔の名島、夕涼みの久留米、灼熱の太宰府、夏雲の学校前。平和を願う太刀洗、緑濃き今池、そして香春岳とボタ山の田川伊田。4事業者7路線、出自も違えば魅力も違う、夏の三日間の、福岡の思い出です。何だかダラダラと2か月近くに亘って書き連ねてしまいましたが、毎年夏の遠征ってのは何かをテーマにしてやる個人的なフィールドワークだと思っているのでご容赦願いたく。この歳になっても、まだ夏休みの自由研究をやっているようなもんだ。まとまりがなくて、提出が遅いのだけが難点だが(笑)。
小倉から乗車した「のぞみ64号」は、新幹線の東京までの最終ランナー。そういや、夏前に津軽に行った時も東北新幹線の最終だったなあ。どうしてもギリギリまで現地に滞在する貧乏根性は直らない。新横浜まで4時間ちょっと、折尾名物・東筑軒の「かしわめし」を食べながら、灼熱の三日間を振り返るのでありました。