青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

溺愛するほどデキ愛す

2015年01月31日 12時22分56秒 | 秩父鉄道

(車齢は経ても麗しく…@秩父鉄道デキ105型)

またまた秩父にデキ貨物を見に行ってきました。何度かこのブログでも紹介しておりますので詳細は省きますけども、アタクシはこの秩父鉄道におけるデキ貨物ってのが好きなんですよねえ。JRの電気機関車みたいな華やかさはないけども、ちょっとやぼったいスカイブルーの色に塗られたいかにも私鉄らしいD級電機が、地味な鉱石貨車を連ねて黙々と秩父路を走る姿に魅了されます。この日のファーストショットは武川の駅の構内で始動の時を待つデキ105。いかつい台車が特徴の秩父デキシリーズの初期型で、昭和31年製。


武川駅遠望。ここ武川から太平洋セメント熊谷工場のある三ヶ尻駅を通り、熊谷貨物ターミナルへ向かう三ヶ尻線の分岐駅。秩父鉄道は埼玉を東西に走る地方私鉄にしちゃ長い路線ではあるけど、常時貨物が走ってるのは熊タ~武川~武州原谷~影森(三輪鉱山)の約45kmと全体の半分くらい。それにしても普通に訪れただけでこんだけ構内に電気機関車がゴロゴロしている駅と言うのも私鉄ではないだろうなあ。何気ない風景ですけど、めっちゃ贅沢だと思うんよ。


ホキ10000の石炭列車が武川の駅に入って来ました。三ヶ尻の工場でセメントの焼成をするための燃料として川崎は扇町の港から石炭を運んで来ます。JRの機関車が前の晩に熊タまで持って来た20両の貨車を、翌日の午前中に2回に分けて工場へ送り込む仕業です。三ヶ尻の工場へは武川側からしか入れない配線になっているため、熊タ→(三ヶ尻)→武川(機関車付け替え)→三ヶ尻と半往復するのですが、いつものヲキ車と比べて石炭を積んだ大柄なホキ10000の車体は迫力があります。
 

遠くで電機のホイッスルが何回か聞こえた後、付け替え作業が終了した石炭列車が再び三ヶ尻へ向けて出発。牽引するのは秩父デキ軍団の中でも最新鋭のデキ507(昭和55年製)。秩父の電気機関車と言うのはいつでも整備が行き届いていてキレイにされているのがとても好感が持てるんですけど、特に今回のデキ507のピカピカぶりはこのままお召しでも牽くんですかくらいのきれいさで、順光の朝の光の中でひときわ輝いて見えました。まったくカッコよすぎるぜ!

 

三ヶ尻線を行くデキ貨物。武川駅手前の大カーブにて。すっかり葉を散らしたニレの大木と、ちょっと乾いた埃っぽい風の中を走る貨物列車。大地の色のなさと、澄み切った青空と言うのは北関東らしい絵なのかなあと。埼玉は北関東じゃねえぞと言う人もいそうですが、個人的な認識としては熊谷より向こうは北関東です(笑)。

 

武川駅から明戸駅まで歩き、乗り込んだのは元都営三田線の6000型。三田線の6000は国内ではここ秩父と、熊本電気鉄道に譲渡された実績がありますが、一部はインドネシアにも輸出されて第二の人生を送っております。自分の生活圏内で三田線を使う事があまりなかったんで、どちらかと言えば秩父に来てからのほうがこの車両に乗っているような気がするなあ。ちなみに熊電では新車導入で余剰化する銀座線の01系を貰う話が決まったようですね…


乗った寄居行きは小前田で鉱石列車と交換するようなので、1つ手前の永田で下車して貨物を待ちます。デデデデン!デデデデン!と車長の短いヲキ車特有のジョイント音を立てて永田駅の構内を通過する積載の鉱石列車(7104レ)。「場内進行!」という機関士さんの声が聞こえて来そうなアングルでパチリ。

 

再び電車に乗り込み、次は樋口駅へ。近年投入された元東急の8090系。先ほど乗って来た都営6000と交換です。今でこそ東急は目黒線を介して都営三田線に乗り入れてますけど、都営6000は乗り入れ前に三田線から引退してしまったんで東急線を走る事はなかったんよね。そんな都営6000が、東横の本線筋で活躍していた8090系と秩父で邂逅をしているというのも大げさに言えば運命的な話。樋口駅のホームは、駅ホームに改札口が乗っかっているコンパクトな外観が特徴。


駅から歩いて5分程度の荒川に架かる白鳥橋の上から返空の7005レを。波久礼~樋口にかけては、大きく荒川が蛇行する狭隘な谷に沿って国道140号と秩父鉄道が走っており、車窓風景のよい区間でもあります。色をなくした渓谷に、デキのレトロなスカイブルーが冬枯れの林の中からチラリ、キラリ。

 

樋口駅からはこれも東急から導入された7800系に乗って波久礼へ。近年秩父鉄道の普通列車は3両ユニットが基本形でしたが、減少する末端区間の乗客や日中のオフピーク時間向けに導入された2両編成のグループ。東急8090系の中間車をサルベージし、田奈の工場でトンテンカンと運転台をくっつけた車両なので、若干前面のデザインにやっつけ感があるのが難ですね(笑)。しかも2両編成の1両電動車にしたら登坂力が下がっちゃって(従来は3両編成の2両電動車)、慌てて粘着力強化のための砂撒き装置を取り付けたりしたらしい。


秩父鉄道を訪れるたびに、何故か立ち寄ってしまう波久礼の駅。羽生から関東平野を延々と走って来た秩父鉄道が、いよいよ秩父盆地を囲む山懐に入って行くあたり。この路線には木造の品の良い駅舎がまだ数多く残っていますけど、その中でもこの波久礼の駅を包む里山の風景と、ほのぼのとした味わいは旅心をかきたてるものがあります。

それと「はぐれ」って語感がなんかいいよね。
都会にはぐれ、人にはぐれ、愛にはぐれ…何だかとっても演歌的。
♪ああ~ 夢はぐれ恋はぐれ~ ってのは堀内孝雄の「恋歌綴り」だったっけか。
とりとめもなく、次回へ続く。
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池上線が走る街に

2015年01月25日 22時13分08秒 | 東京急行

(Monoclome Terminal@東京急行蒲田駅)

美しい旧7000系のサイドビュー。モノクロにすると、何となく30年前の東横線渋谷駅…と言う感じがしないでもないですね。屋根の形が違うけど。端正な2段窓、黎明期のステンレス車両らしい側面窓下のコルゲート。逆三角形の東急の社紋はT.K.Kイニシャル時代の「東京急行」という言葉をあてがってみたりもしたくなる。前面に「急行」の赤サボを付けて急行渋谷行きか、はたまた側面に「日比谷線直通」の青サボを付けて各駅停車北千住行きか。


子供と久々に親子乗り鉄な一日だったのですが、「どこへ行くの?」と言われても正直ネタがなくなって来ているのが正直なところ…なので、比較的未履修な東急線、それも多摩川線池上線系統へ行ってみる事にしました。大屋根の下に頭端式の5面4線、乗車降車のホームもしっかり分離してありまして、元々は目黒蒲田電鉄と言う私鉄のターミナル駅だった風格がありますよね。

  

蒲田駅の大屋根の下でで忙しく折り返していく多摩川線と池上線の車両たち。最新型の7000系の隣に、古くは東横線のエースとして君臨した旧7000系の改造車種である7700系が。貫通路を黒に塗られた隈取型のタイプと、赤のラインを引いたシンプルな塗装の2タイプにはなっていますが、見た目は当時のそれをよく残していて単純に懐かしいっすねえ。

  

とりあえずどこまで行くか。子供的にはいっぱい電車があるところがいいでしょう!と言う事で車庫のある雪が谷大塚まで行ってみる事に。7700系が何本か入っているので、御嶽山で途中下車して編成撮りなんぞをしてみるのだが、いかにも私鉄の郊外電車然とした低い屋根のコンパクトなプラットホームにやって来る7700系は絵になるね。最近子供から特定の車両にカメラを向けていると「ねえねえ~このしゃりょう、もういんたいなのお~?」と質問を受ける事案が(笑)。子供からの葬式鉄認定。

  

雪が谷大塚検車区の電留線で憩う池上・多摩川線のメンバーたち。池上線は雪が谷、目蒲線は奥沢に検車区を置いてましたが、目蒲線の分断に伴い池上・多摩川線系統の検車区はここに集約されました。こうして見ると池多摩線の車両と言うのも新旧取り混ぜて意外とバリエーションがあると言うか。新7000系の導入が決まってからこの車輛に一気に変えてしまうのかな、と思ったんだけど、東横筋が日比谷線乗り入れを中止したせいであぶれてしまった1000系の3両ワンマン改造車が増加している感じがします。奥にチラッと唯一残る7200系改め7600系が1編成見えますね…。今日は運用に入ってないのか。

 

雪が谷の検車区の脇を通り抜ける7700系と1000系。ともに東横線からの日比谷線直通車輛としての使命を帯びていた車種ですけど、日比谷線の「車長18mの3扉車限定」って制約は20m車全盛の大手私鉄からしたら厄介なことこの上なく、東横はついぞ副都心線を新しい相手に選んで日比谷線を捨ててしまいました。ただ、そのコンパクトな車両たちは池上線目蒲線系統の車輛の更新のみならず、全国へ譲渡されて中小地方私鉄の体質改善も一気に進めた功績は疑いようがありません。弘南鉄道、十和田観光(廃線)、福島交通、上田交通、北陸鉄道、伊賀鉄道、水間鉄道、一畑電鉄あたりですかね。この車種を導入したのは。

 

東横線で働いていた1000系を3両ワンマン化した1500系は、緑と黄緑のライン。これは新7000系と同様の池多摩線カラーですが、これは旧型車時代の塗装であった東急の緑色をリスペクトしているのではないかと勝手に思っている(笑)。新7000系は丸みを帯びたボディのずんぐりむっくり感が特徴ですな。


環七の立体交差を下って、池上駅へ向かう7700系。東横時代の7000系は「パイオニアサード」と言う外付けディスクブレーキの台車を履いてたんだけど、改造時に廃車した8000系から捻出した台車に換装されてしまいました。地元小田急でパイオニア台車を履いていた初代4000系が特に好きだった私には思い入れのある台車で、今でも福島とか水間に行った旧7000はパイオニアサードのまま走っているそうなので、見に行ってみたいもんです。


蒲田のターミナルを行き交う7700系。自分が小学校の頃、夏休みに東急全線のスタンプラリーに参加したことがあったんだけど、あの時は東横線の主役がこの旧7000系で、目蒲池上線は緑色に塗られた旧型の3650型とか3450型の天下だったねえ…冷房もない車両だったから、炎天下の蒲田でなけなしの小遣いで売店のジュースを飲み、スタンプラリーに特典として付いていた無料券で駅そばを食べ一息ついたのを覚えている。そんな思い出の蒲田で今日も子供と駅そばを食べたのだが、東急の駅そば「渋そば」のかき揚げのカリカリ感は相変わらず最強だね(笑)。

あの頃と比べてずいぶん美味しくなったよね。東急の駅そば。
そんなシメでええんかいw
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青空恋し

2015年01月24日 01時10分05秒 | 京浜急行

(青空の終着駅へ@三崎口~三浦海岸)

今日は暖かく晴れてお出かけ日和…なんて天気予報がほざくもんだから出掛けてみたら普通にどん曇りで風も寒く、ちょっと悲しい気分で家族サービスを行って来ました。なんか意外にも今年の冬は暖冬だそうで、雪の降る気配もない。降る年は成人の日前後に一発目が来るんだけどなあ。スタッドレスがいたずらにアスファルトで擦り減って行くのも悲しい。京急線の名撮影地である三崎口駅手前の仲田陸橋、ゆったりとした三浦半島の山並みと青空をバックに、2100型がゆったりと都会へ向かって行きます。
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ヨコスカだるま市

2015年01月18日 22時53分22秒 | 京浜急行

(海風の駅に夕日差して@堀ノ内駅)

土曜日は休日出勤。まあ休日出勤と言っても日中のちょっとした仕事をやっつけるだけだったんで昼過ぎには終わったんだけど、そのまま家に帰るにゃちょっと日が高い。なぜか一応確信犯的にカメラは持って来たので(笑)、京急の800型を撮りモノにする事にしました。正月が終わり節分までのこの時期と言えば、関東のお寺さんとかお不動さんで「ダルマ市」が開かれる所が多いじゃないですか。そして鉄道業界の「ダルマ」と言えば、京急の800型ですよね。ホームから東京湾がチラッと見える堀ノ内の駅で、いつものように快特の接続待ち。

 ダルマ?

赤い車体と幅広のワイドな前面窓がとってもダルマ的なこの車両。窓周りが白く縁取られているのが余計にダルマ感…こんなズバリなニックネームを頂戴するのも仕方がない(笑)。昭和53年デビューと京急では最古参のこの車両に、年末に大願成就の黒い眼が入れられるよう、今年一年の願いを込めての縁起物。


まずは浦賀の駅を出て行く800型を浦上台の俯瞰から。最近は朝晩を抜かせば800型はほぼ品川~浦賀の間の運用に固定されていますね。奥に見えるのが浦賀駅で、日中は10分に1本普通列車が折り返すだけの駅ですけど、れっきとした京急本線の終着駅。浦賀は三方を山に囲まれており、風の影響を受けにくいため、古くから歴史に名を残す良港として発展して来ました。


中央~県立大学の間の22号トンネル(平坂トンネル)へ。京急らしい石積み複線断面のトンネルから、検査上がって間もないのか下回りの塗装も新しい821編成が飛び出して来ました。塗装もパリッとしてかっちょいいですね。ちなみに、普通で品川から浦賀まで乗り通すとそこかしこで退避があるせいで2時間くらいかかります。元々快特などの優等運用ではなく普通車の体質改善を目的に開発された車両なので、デビューから主要業務は変わりありません。


同じポイントで先ほどの821編成の折り返しを。京急の普通は、看板列車である120km/hで走る快特の邪魔をせず、各駅で乗客を素早く拾いつつ退避駅まで逃げ込んで快特を先行させる能力が求められます。そのため、京急の現役車両では唯一の4ドア&オール電動車と言う仕様。都心部の短い駅間でも重い鋼体車両がフルノッチ&フルダッシュを繰りす様は豪快。そのモーター音はかなりの迫力で正直一般客には騒音以外の何物でもないのだが、おススメは京急田浦~安針塚間ですね。駅間距離が結構あるので800型の一番いいサウンドが楽しめますw

 

逸見駅にて。追浜~県立大学間は三浦半島の丘陵部がそのまま東京湾に落ち込む急峻な地形で、トンネルとトンネルに挟まれた駅が続きます。逸見駅は待避線を持つ2面4線の構造ですが、朝くらいしか通過待ちはやんないですね。ちなみにJRの横須賀駅は逸見駅から歩くのが一番近い。以前追浜でがけ崩れがあって京急が不通になっちゃった時、復旧するまで浦賀・三崎口~逸見折り返しってのをやってた記憶がある。


逸見駅俯瞰。逸見駅の構造は2面4線でもいわゆる「新幹線型」の駅で、中線2本は完全な通過線なのが特徴。完全に山肌にへばりつくように、段々畑かの如く住宅地が続く横須賀の街。この辺りのかなりの住宅が、家の前に車も通れないような急な階段の細道沿いに建っている。ちなみに横須賀市は全国でも有数の人口減少都市なのだが、正直ヘタな山村より急峻な地形に暮らしているこの地域が(逸見から田浦あたりね)「歳を取ったら住めない過酷な住環境」というのも一因としてあると思われ。結構住む人いなくて空き家になってしまった家、多いからねえ。

 

逸見から800型に乗って浦賀へ。今でこそ相応の車両数で運用に就いているものの、さすがにロールアウトからは35年を経過した鋼製車。ボチボチと初期ロットから久里浜工場の裏手でバラされているのを見てもいるので、そう長い事はないんだろうなって思います。車内に扇風機が付いていて、片開き扉の車両なんて基本スペック自体が貴重なもの。またこの椅子の藍色のモケットがとっても座りごこちがいいんだな。

   

浦賀駅にて。京急本線の終点でありながら、すっかり顧客の流動を久里浜線に奪われた落日の終着駅であります。朝しか特急も発着しないしね。かつては浦賀船渠(浦賀ドック)と観音崎の砲台を擁した首都防衛の拠点。近年までも造船大手の住友重機械工業が工場を構えていましたが、今は追浜に移ってしまったのよね。それでも古くからの首都防衛の拠点としての軍部との結びつきは強く、走水の防衛大学校の生徒がホームを歩くのも浦賀ならでは。


夕日を浴びる浦賀駅のホームを、優しい顔のダルマさんが出発して行く。ちなみに普通で品川まで乗り通しだとここから堀ノ内、金沢文庫、南太田、子安、京急鶴見、平和島で優等に追い越されます(笑)。個人的な意見ですが、普通乗ってる時の南太田の退避ってすげー長く感じる。小田急線で言うところの昔の東北沢的な…。

去ってゆく ダルマに願う 大願成就。
字余り。
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永遠のごちそうさま

2015年01月10日 23時19分02秒 | 日常

(いつ以来か@母校)

年も四十に近くなれば、同世代と会って話す話題の中に「戻れるならどの時代に戻りたい?」と言うネタはあると思うのだが、こと自分に置き換えてみるとそれは圧倒的に大学生の頃に戻ってみたいなあと思う訳です。まあニッポンの大学、特に文系の大学なんぞ入ってしまえばこっちのもんで、御多分に漏れず「そんな大学」に入ったアタクシは有り余る時間を怠惰に自由にむさぼり、やりたい事をやりたいようにやり、したくない事はせず、夢のような4年間を過ごさせていただきました。アタマは大して良くはならなかったけど、社会に出る前のこの4年のモラトリアムと言うのは人間形成に必要なものだったと思いますね。ってな事でいつ以来か忘れてしまったけど、久しぶりに母校の空気を吸いに来てみた青空の栴檀林。


ちなみにもう卒業して20年に近いくらいの年月が流れているんだけど、母校の雰囲気は「基本的に何一つ変わってねえなあ」と言うのがまず第一の感想(笑)。元々狭いキャンパスで変えようがないのかもしれないけど、恐ろしいほどに目に映る基本的な風景に変化がない。たぶんこの坂道を左に下ってって建物の中に入ると右側にコピー機が置いてあるはずだ。確認しなかったけど間違いないだろうと思わせるほど何も変わっておらず、正直笑えてくる。

 

この辺りの風景になって来ると、ここを見ているあらかたの連中には説明無用と思われる。ただ見て感じていただけるだけで十分。建物の外壁の塗装や無造作に置かれた出店の長イスを見て思わずいい意味でため息が出た。学費の安い大学だったのが母校のいいところだったけど、基本的には施設改善をするほどカネがないのかもしれないw


そんな麗しくも甘美な遠き日の思い出の中に、このお店がありました。名前を「TEA ROOM パオ」と言います。つーか「TEA ROOM」だった事を今知ったのだが(笑)。誰も中でお茶飲んでるのなんか見た事ねーよ。スパゲティと軽食(サンドイッチとか)をテイクアウトで販売する店なんだが、この学校に通った者なら知らぬ人はいない、知らなかったらモグリ確定レベルのお店。ガッコに来たら、仲間とダベるも麻雀するのも授業に行くのも4限かったりいから家帰るのも、「とりあえずパオでなんか食ってから」と言うレベルの、もはや息をするのに等しいほどにキャンパスライフに染み込んだ店でもありましたが…情報を聞いてビックリしたんだが、今年の2月で店を閉める事になったらしい。「パオ、2月で店閉めるってよ」ってのも何だか「桐島、部活やめるってよ」みたいだが、とにかくネタとしては衝撃でしてねえ。何だか心にぽっかり穴が開いたようで、とりあえず一方的にこの店に感じていたいくばくかの恩は返さねば、と言う意味不明な使命感が湧き上がってきてしまいまして本日馳せ参じたと。そう言う次第なのですよ。


出走表。じゃなかったメニュー表。えーと、ところどころ切ったり貼ったりはありますが、コレ、我々がいた時から使ってるのと同じものですよね?(笑)。ドリンクもスパゲッティも基本線は不変のラインナップにまずは感動。王道のミート&コンソメは不変、新商品で目立つのは明太スパ&肉スパ?冷やしコンソメの上に紙が貼られて冷やし中華スパになったのは改変か。焼きモノの中の「パオ×ぱおピザトースト」が気になる。つーかチャーシューカレーってなくなったんですかね。結構な人気メニューだったと思ったんだが。個人的にはチャーシューカレー大盛りはブルジョワ階級の食い物で、山菜頼むヤツは変わり者で、ポパイとか食うのはひねくれ者だと思ってました(笑)。あ、たぶん今日のこのエントリーはここに来て常連で食ってたヤツじゃないと全く面白くないと思うのだけど、逆に言えばこのメニュー表だけで2時間はいい酒が呑める人間も相当数いる事を知ってもいるので続けますwちなみにアタクシはポパイ結構好きでした。ええ、ひねくれ者ですとも。


何を頼むか…そりゃあ食えれば4~5種類食ってみたかったけど、そうもいかないとなればこれで決まりの「ミート大盛り」。330円が今日はパオデイで50円引き!合わせて大好きだったレモンジュース(100円)をオーダーしたんだけど、「冬場でアイスはあんま出ないから今日あるのはバナナジュースだけなんですよ!ごめんね!」と言われて非常に悲しかったwそーいやあの容器の中が噴水みたいになってるレモンジュースの機械がなかったなあ。ともあれパオのミート、通算実食回数はもはや何回かも定かではないあの4年間の主食。ビジュアル合格。全く変わってねえ。ちなみにミートはパックで提供されるので、フタにくっつかないように粉チーズを目いっぱい振って緩衝材にするのも当然のお約束。そう言えば個人名を出して申し訳ないのですが、その当時久地にお住まいになられていた某先輩は、毎回毎回フタにくっついたミートを実に丁寧に時間をかけてハシでこそげ取って、麺の上に戻してから食べるのが凄く印象に残ってるんですよね。物事に対する組み手がマニアックで細かい熱量のある性格が出ているなあと思っていたものです(笑)。


茹でてからくっつかないように油を混ぜた麺に絡まる実に粘り気のあるミートソース。アルデンテとか言うジャンルの食い物ではないので、コシとか何とか言うのは野暮。ともかくまずはかき回してミートを全体に行き渡らせて、口に入れた瞬間からDNAに植え付けられた味が蘇ると言うか、間違いなく味もあの頃のまま。テンプレ化されたレシピで作られているんだろうけど、ブレてなさ過ぎて涙出そうだ(笑)。うーん、もう左官屋に渡したらキレイにカベ塗ってくれんじゃねえかと思わずにいられない粘り気のあるミートソースが、このモサモサ麺に絡まるベッタリコッテリ感で口の中を一杯にして思う。美味いかまずいかじゃなくて、もうこれは思い出の味100%。


みんなでパオデイ。つーか、家族全員で神奈川の片田舎から田園都市線に乗って行くなよって感じもするんですが(笑)、子供にオヤジが食ってきたものを伝えてやるのも文化の継承と勝手に解釈する。まああの頃にここにヨメさんと2人の子供を連れて来る事になろうとはゆめゆめ思わなんだなあと気持ちの中で自分を俯瞰してみたのだが、周囲を見るとおそらく同じような感じの親子連れがチラホラ。こんな事やってんの自分だけかと思ったんだけど、いかにこの店が愛されてたかを改めて知ったよ。


ミート一発でキレイに締めるのも良かったんだけど、折角なんで新商品の明太スパなんぞを。初めて食べたので比較のしようがないんだけど、まあミートのほうがいいような気がした(笑)。それだけパオのミートが完成されてるって事なんでしょうけど、明太スパも売り切れる日があるみたいですから、今の学生連中にはスタンダードなメニューとして定着しているんでしょうな。


お断りをしてパオ店内全景。なんか昔と比べて広くないか?って思ったんだが、そういや昔は店内にテーブルとイスがあった記憶がある。今は取っ払われてるのね。そして書かなかったんだけど、攻めの吉田が健在だった…(涙)。涙すんなよって言われてもこれはビックリしたよ。俺が知ってる攻めの吉田から何だか立川志の輔みたいになってたけど、あれは間違いなく攻めの吉田。すっかり白髪になっちゃってたけど、ミートの食券出して待ってたら奥から出て来たんだよ攻めの吉田。おもむろにスパゲッティの入ってる鍋にハシ突っ込んで、パックに盛る時にもバシッと一発で量をピッタリ合わせるあのハシ捌きは間違いなく攻めの吉田。この画像を見ればわかる人はわかるでしょ、健在でしたよ攻めの吉田。

何度でも言おう、攻めの吉田、健在。
そしてありがとうパオ。ごちそうさまでした。

聞けば営業は40年を超えるそう。
40年間もカネのない学生の腹を満たしていただき、感謝しかございません。
あと、パンの耳勝手に取って食ってすいませんでしたw
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