青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

ターミナルの風格とは。

2024年09月14日 11時00分00秒 | 西日本鉄道

(博多と天神の違いって・・・?@天神地下街)

貝塚線の探訪を終えて、市営地下鉄で天神へ。この日は宿を久留米に取っていたので、こっから西鉄天神・大牟田線で移動することになります。地下鉄から乗り換える天神の地下街、福岡市の中心部は東のJR駅を中心とした博多と西の西鉄・天神、そしてその中間にある歓楽街の中洲・川端と大まかにこの三つに分かれています。以前は「博多より天神の方が栄えてるよ」というイメージが漠然とあったのですが、九州新幹線開通を契機としたJR九州の積極的な不動産開発とテナント誘致によって博多がだいぶ福岡商業圏の中で存在感を増しているようで。やっぱり新幹線が直結しているってのがデカいのだろうか。金沢における香林坊と金沢駅前の相関関係なんかも似たようなとこありますよね。北陸新幹線の開通で再開発された駅周辺の大型商業施設(金沢フォーラスとか)が中心になって商圏が変化しているという。ちなみに、福岡市営地下鉄の天神駅と、西鉄の駅は微妙に離れていて天神の地下街を200mほど歩いて接続する。地下街を歩いていると、それこそ新宿とかなんばの地下街と何も変わらんよね。変わってると言えば、やたらと案内表記にハングルが目立つくらい。韓国から来てるっぽい若い女性も目に付くし、東京より釜山の方が圧倒的に近いお土地柄でもあり。

西鉄福岡(天神)駅。言わずと知れた九州最大の私鉄ターミナルであります。西鉄の天神のターミナルは、西鉄天神大牟田線の西鉄福岡(天神)駅、西鉄天神バスセンター、そして三越福岡店が一体となった超大型複合商業・交通施設で、大き過ぎて写真でも納まりきらない。ちなみにこの「西鉄福岡(天神)」という表記は、カッコ内の「(天神)」までを含めたものが正式名称だそうで。以前は西鉄福岡駅だったのだけど、2001年から今の表記になったらしい。吹き抜けのアトリウムに作られた西鉄福岡(天神)駅の大階段、これぞターミナルという雰囲気を醸し出していますねえ。日本の私鉄ターミナルで最強なのは阪急の大阪梅田駅、最高なのが南海のなんば駅だと思ってるのだけど、そこらへんに次ぐぐらいの面構えはあるだろうか。関東の大手私鉄は、東武の浅草駅がターミナル・・・かなあ、くらいで、独立性というか個性は薄めですよね(副都心線と繋がる前の東横渋谷なんかはターミナルだったかな)。関東私鉄は開業当初から国鉄(省線電車)に接続したターミナルを志向したこと&早い段階からの地下鉄との相互乗り入れによる流動分散があるので、関西から向こうの大手私鉄のターミナル駅とは機能の持ち方がちょっと違うように思う。これは関東と関西の私鉄文化の違いではないかと。

西鉄福岡(天神)駅の構造は3線4面の頭端式で、各線の両側にホームを置いて乗降を分離するタイプ。相鉄の横浜駅と相似した形ですね。平日の夕方、ひっきりなしに行き交う西鉄電車。大牟田まで行く特急は30分おきだけれども、久留米方面は普通列車&急行を含めて分刻みのダイヤで発車していて、そこには家路を急ぐ福岡都市圏の人々のラッシュアワーの光景がありました。こういう風景は関東も関西も九州も変わらないのだけど、なにぶん天神から西鉄に乗るのはいつ以来か・・・という感じなので目にするものがとにかく新鮮である。西鉄大牟田線、那の津の福岡ボートに来たときか、唐津ボートの帰りに乗ったような乗らなかったような、という朧げな記憶しかない。どっちも理由がろくでもないのだが、熱心に旅打ちをしていた頃の話である(笑)。ちなみに唐津の帰りは博多から寝台特急あかつきで三ノ宮まで出て、次の日に尼崎の周年記念を打ちに行ったのは覚えてるんだよねえ。確か唐津の周年記念(全日本水の王者決定戦)と尼崎の周年(近松賞)をハシゴしたんだよ。どっちも1月開催だから合ってるはず。調べたら1999年の話だったみたいだ。もう25年前か・・・元気だったんだね、当時の自分。

降車ホームへ一斉に吐き出される乗客。アイスグリーンにボンレッドの西鉄6000形。そうそう、最近は新しいカラーリングの車両も増えてきましたが、西鉄電車と言えばこの色ですよね。日本の大手私鉄では唯一、本州外にあるのが西鉄。その路線網と事業規模もさることながら、車両の形や塗装も一種独特のものがあります。ローカル中小私鉄への偏愛を隠さない私ですが、大手私鉄の一角としての「西日本鉄道」をきちんと味わってみたい!というのもあったんですよね。東武・京成・西武・京王・東急・小田急・京急・相鉄・東京メトロ・名鉄・近鉄・京阪・阪急・阪神・南海そして最後の西鉄。さすがに支線の全路線まで乗っている訳ではないけど、西鉄乗車で記念すべき大手私鉄の16社目です。そう言えば、昔は「準大手私鉄」なんてくくりがあって、これに新京成・神鉄・山陽・泉北なんかが入ってましたよね。このカテゴリは最近使われていないようですが。

福岡中心部のオフィス街から、筑紫野を通り久留米・柳川を経て炭鉱の町・大牟田まで。西日本鉄道の主力路線(本線筋)である西鉄天神大牟田線は、全長で74.8kmとかなり長い。関東で言うと東武東上線の池袋~寄居間が75.0kmでニアピン。京成電鉄本線が京成上野~成田空港間69.3km、小田急線の新宿~小田原間が82.5kmなのでその間くらいのサイズ感でしょうか。中京・関西圏だとこのくらいのサイズ感の私鉄が意外となくて、近鉄名古屋線の近鉄名古屋~伊勢中川間が78.8kmだからこの辺りに当てはめると分かりやすいかな。ちなみに私は生まれも育ちも小田急線民なので、天神を新宿とすると二日市が登戸、久留米が町田、柳川が秦野、大牟田が小田原くらいの位置関係で脳内変換していました(笑)。

天神発19:00の特急・大牟田行き。乗務員交替もにこやかに、天神の雑踏がそのまま車内に吸い込まれて行きます。

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あの頃は 大牟田線の 色男。

2024年09月11日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(青い彗星、博多の片隅に眠る@貝塚交通公園)

西鉄新宮まで貝塚線を乗り通した後、折り返しの電車に乗って貝塚駅まで戻って来た。どこへ行っても暑いので、自動販売機の飲み物では飽き足らずコンビニで買った大型のペットボトル(2リットルの水)を持ち歩いていた。貝塚駅前の公園のベンチで荷物を降ろして休憩。貝塚駅前の公園は「交通公園」という立て付けになっていて、ゴーカート乗り場があったり4発機の実機が置かれていたりするのだが、猛暑の芝生の広場をテクテクと国道3号線方面に進んで行くと、昔懐かしいブルートレインの客車・・・ナハネフ22がキューロクの蒸気機関車とともに保存されています。現役時代は「あさかぜ・はやぶさ」等の九州ブルトレに使用され、晩年は門司港~西鹿児島間の九州島内を走る夜行急行「かいもん」の寝台車として使用されていたのだそうです。屋根掛けの保存でもないのにやけにきれいで、保存状態は非常によさげに見える。正直ただの市営公園でこんな保存状態なの、バックにどこぞの保存団体でもついてるのかしら?なんて思ったのだが、調べると何年か前に有志によるクラウドファンディングがおこなわれ、再塗装と大規模な補修が施されたのだとか。

ナハネフ22の内装。さすがに、国鉄20系客車ってのは全廃されたのが平成ヒトケタなので、利用することは出来なかったですよね。「急行かいもん」も時刻表の中の列車、というイメージで。九州の島内夜行急行と言えば、鹿児島線が「急行かいもん」で、日豊本線が「急行日南」。どちらも門司港発の西鹿児島行き客レ急行でしたが、終点まで急行列車で走るかいもんと異なり、日南は南宮崎から普通列車になってしまうので、えらい時間がかかる列車だった。それにしても、自分が乗ったことのある寝台特急ってどのくらいあるのだろう?いわゆる「ブルートレイン」に限れば、九州方面がさくら・あさかぜ・はやぶさ、信越・東北・北海道方面が北陸・あけぼの・エルムくらいのものだろうか。同世代の人に比べれば大したことのない経験であるけども、今の世代の鉄道ファンが逆立ちしても体験できないことではあります。ブルトレってぇと14系か24系25形の世代なのですが、このナハネフ22の大きなパノラミックウインドウと最後尾の展望室は、まさしく「走るホテル」と言われた気品あふれる優美さが感じられるもので、こういう「九州の鉄道文化遺産」みたいなものは、門司港の「九州鉄道記念館」にでも行けばより詳しく見られるのだけれど、今回の旅程ではそこまで手が回らんかったでなあ。

午後の日差しを浴びながら、貝塚駅で折り返しを待つ608編成。この編成だけ検査明けで間もないのか、塗装の汚れやくすみもなく非常にきれいな状態であった。貝塚線の貝塚口は、2連という編成の短さもあって、朝のラッシュ時には10分間隔の運行でも相当な混雑となってしまうのだとか。それだけ博多近郊の通勤通学需要は旺盛ということなのだが、廃止された津屋崎方面の乗客減と反比例するように、福岡都市圏も都心回帰が起こっているのだろうか。貝塚駅は既に橋上駅舎になっており、西鉄側ホームの外側に上下とも線路一本分の空きスペースがあって、ここに福岡市営地下鉄のレールを敷設すれば、相互乗り入れ自体は行えるような準備が出来ています。計画は凍結されてはいますが、現在の西鉄ホームを貝塚線内折り返し、地下鉄ホームを相互乗り入れ車両が使う動線を想定していたようです。

夏雲湧く貝塚の街、600形がフロントマスクのお掃除中。西鉄の車両の中でも最古参の600形、その車体形状の変遷については「にしてつWebミュージアム」に詳しい。ちなみにこのアーカイブス、西日本鉄道という企業体がどうやって福岡・筑後の街の中で成長し、確固たる地位を築いていったのか・・・という歴史を詳細に学べる素晴らしい教材になっている。車両を中心とした鉄道事業の歴史だけでなく、沿線風景の変遷を絡めたホテル事業や天神地区の開発、福岡市内の高架化事業、もう一つの中核事業である西鉄バスの歴代車両や、西鉄クリッパーズからの西鉄ライオンズの歴史まで、西鉄の全てが会社として所有している秘蔵資料や当時のエピソードとともに余すところなく網羅されている。惜しむらくは写真が妙に小さい(複製されることへの対策なのだろうか)ことなんだけど、このWebページを読み込めばきっと西鉄博士になれるだろう。それにしても、西鉄600形の大牟田線デビュー時のスタイルの端正な事!まるで小田急のABFM車とかHE車(小田急2400形)のようではないか。今はどちらかといえば並列の二つ目ライトで柔和な感じのイメージですが、顔を洗いながら「若い頃はイケメンだったんだよ」とでも言いたげな600形。置き換えの前にこの形に戻してくれたら、また福岡飛ぶから、よろしくお願いします(笑)。

朝早く出て来たこともあって、体力の回復のために喫茶店でも入りたかったのだが、ないので冷房の効いた地下鉄で筑前前原まで往復することに。少しウトウトしながら博多の地下を折り返し、貝塚に戻って来た頃には太陽は西に傾いていました。今日の貝塚線の最後に、今一度名島橋のカットを取っておきたく再び橋のたもとへ。粘って見付けた名島側の立ち位置は灌木生い茂るブッシュの中、条件はあまりにもよろしくなかった。クモの巣のネバネバをこそぎ落とし、迫りくるヤブ蚊をペチペチと引っぱたきつつ、夏の斜光線を緩く浴びて多々良川を渡って行く600形を収める。コンクリートアーチの橋脚が水面に揺れて、貝塚線のいい締めの一枚となりました。

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猫の駅 陽炎揺れる 昼下がり。

2024年09月09日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(猫の佇む駅名票@西鉄新宮駅)

和白から住宅街の中にある三苫駅を経て、西鉄貝塚線の10km程度のショートトリップはここ西鉄新宮の駅で終了。駅名票にはなぜか猫が佇む。これは、西鉄新宮駅のある新宮町の沖合に浮かぶ離島・相島が「猫の島」と呼ばれていることにちなむのだとか。相島は新宮町の沖合7.5km、玄界灘に浮かぶ小さな島で、島ではバーベキューやバードウォッチング・釣りなどが楽しめるそうです。福岡県の玄界灘沿いには、壱岐や対馬まで行かずともいくつかの小さな離島があって、相島もその一つ。ちょっと興味があって、島まで渡る船の時間とか調べちゃったよ(笑)。駅から渡船の出る新宮漁港までは徒歩20分、そして島までは渡船で20分。漁港へは渡船に合わせてコミュニティバスが出ているのだけど、さすがにこのクソ暑い中で大荷物持って離島に行く元気はないのであった。そう言えば、行きの飛行機から見えましたよね。相島。

西鉄新宮の駅は、元々は津屋崎に向かう宮地岳線のちょうど中間点に位置し、糟屋郡新宮町の旧市街にあります。新宮町は福岡市に隣接する福岡都市圏のベッドタウンで、人口は3万人強。かつての宮地岳線の沿線地域に比べ、最近ではJR鹿児島本線の新宮中央駅を中心にした市街地の整備拡大が目覚ましく、大手不動産の開発による大規模なマンション群と大型ショッピングモールを中心とした開発が進んでいます。宮地岳線改め貝塚線の終点となった新宮の駅は、そんなJR沿いの都市化とは少しテンション感の異なるローカルムード。1990年代までは、新宮漁港で揚がった魚を博多の魚市場へ運ぶ行商人のおばさんの利用などもあったらしく、駅の周りにも鄙びた海辺の街の雰囲気がそこはかとなく残っている。少し海のほうに歩けば海水浴場もあるようだし、浜辺に続く松林の路地には、夏休みを謳歌する子供たちの声も。宮地岳線の部分廃線から既に17年が過ぎ、津屋崎へ向かっていたレールは駅の構内でブツリと切られ、冒進防止のバラストと車止めで無造作に終わっています。島はともかく、駅の近くに野良猫でもいないのかな、と思ったのだが、あまりの暑さに陽炎揺れる駅前通りに、人の姿も猫の姿も見えはしないのでありました。

日中の貝塚線は、下りの列車が新宮に到着すると既に折り返し準備をしていたもう片方の電車が釣瓶のように発車して行く運行パターン。いわゆる「段落とし」になっていて、運転士氏は折り返し電車が発車するまで、僅かな間の休憩時間が与えられる様子。一応駅舎には職員の姿があり、小さいながらも乗務員の詰所があります。猛暑の中、日差しの強い運転台での乗務はなかなかの重労働であろう。車内の冷気が抜けるのを防ぐため、詰所に戻る前に運転台のスイッチを操作して、貝塚側の一つのドアしか開けずに締め切られた西鉄600形。車体の隅に刻まれた銘板は、「昭和37年7月・川崎車輌」とある。まだ川崎重工でも川崎重工車両カンパニーでもなかった頃の、先代の「川崎車輌」のクルマ。ちなみに現在の川崎車両は、川崎造船所→川崎車輌(先代)→川崎重工→川崎重工業車輛カンパニー→川崎車両(2代目・現在)という変遷を辿っていて、日立製作所と並ぶ日本の財閥系鉄道車両メーカーとして現在も車両の製造を続けています。ちなみに西日本鉄道の車両は現在オール川重製なんだそうで。昔は川重以外の車両も入れたことあるみたいですけどね。

青空の下、折り返しを待つ600形。それにしても、昭和37年というのは、今やふた時代前の話になる。前回の東京オリンピックが昭和39年(1964年)であったことを考えれば、西鉄600形はそれ以上に古い車両だ。歴史を紐解けば、東京オリンピックと同時に開業を控えた東海道新幹線の試作車両などといっしょに川崎車輛で産声を上げているらしい。首都圏の私鉄でさすがに昭和30年代製造の車両を使っている会社もなかなかないが、大手私鉄の中では指折りのオールドタイマーであろう。ただ、その時代の車両の造りというのは、台枠から組み上げた鋼板の大振りの躯体に、いかにも鋳造物という感じの頑丈な台車(西武電車のお古らしいが)と、消費電力の大きい造りながらもインバータではなく電気接点で動くシンプルな制御装置で構成されていて、あまり時代が「省〇〇」を求めなかった時代のものなので、丈夫なのかもしれない。また、大牟田線から宮地岳線へ転籍させる際に、台車の交換と同時にモーターの新造もおこなったので、足回りは比較的若く保たれているのもあろう。

600形の運転台周りのレイアウト。車内の非常停止装置がヒモで引っ張るタイプなのが珍しいのだが、これは車掌が列車を急停車させるために引く非常弁(非常ブレーキ)と同じものが装備されているのではなかろうか。今は非常通報装置はブザーだから、即座に列車を停止させる装置とは少し違うような気もするが。昔ながらの短冊形のスタフに刻まれた列車のダイヤも、最近の電車はこういうものすらモニタ画面に表示されるのが常だからねえ。いちいち指で停車駅の矢印の目盛りを動かしたりはしない。

本当であれば、市営地下鉄と相互乗り入れが果たされていて、そうなっていれば、何らかの新しい車両が入っていて、そうなっていれば、津屋崎までが廃止にもならずに済んで・・・などなど数々の「れば」が重なり合って今に至る西鉄貝塚線。ちなみに、西鉄が2022年に発表した計画では、「2027年度までに貝塚線600形を廃車し、車両再生工事を実施した7050形16両を導入する」との記載があって、600形の置き換えの話がない訳ではないようだ。コロナ禍の中で発表された経営計画なのでどこまで実行に移されるのかは予断を許さないとはいえ、文言通りであれば来年あたりから600形の廃車が始まることになる。ようやくこの路線にも、新しい波が押し寄せるのであろうか。

昔懐かしの真鍮のブレーキハンドルを持った運転士さんが詰所から出て来て、還暦越えの電車のマスコンに、シャコンとハンドルをセットした。

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国策に、袂を分かつ線と線。

2024年09月07日 10時00分00秒 | 西日本鉄道

(高層マンションを背に@和白駅)

貝塚からスタートして、名島、西鉄香椎、そして三つ目の交換駅が和白駅。15分間隔のパターンダイヤ、どの駅でもきっちりと交換があってシステマティックである。和白の駅は、周囲に高層マンションに囲まれた住宅街の駅、という感じ。博多湾に沿って走る西鉄貝塚線、この和白駅と一つ前の唐の原駅付近が一番海に近い。ただし、海岸まで住宅が建て込んでいることもあり、車窓から海は見えません。というか、写真が似たような駅の交換シーンばかりで申し訳ない(笑)。西鉄貝塚線、さすがに都市部を走る路線ということもあって、そこまでフォトジェニックな場所を見つけきれない・・・というのもあり。そして、この日の博多は35℃を超える猛暑。あまりにも暑くて、駅間を歩いて撮り歩くという行為は正直しんどいということもあった。そこらへん自分でも最近根性がないなあと思うのだけど、旅先であんまり無理してもねえ、という感じで。

和白駅は、JR香椎線との接続駅でもありまして、あわよくば西鉄の黄色い電車とJR九州の気動車を絡めて撮れるかな??と思ったのだが、日中の香椎線の30分間隔の列車はちょうど貝塚線の電車の15分間隔に差し込まれていて、両者が並ぶようなダイヤにはなっていません。まあ、同時発車なんてやられたら乗り換え客にしてみたらたまんないでしょうしね。接続に関しては配慮がなされているようです。JR香椎線と西鉄貝塚線は、元々「博多湾鉄道汽船」という会社が敷設した同じ出自の路線だったため、今でもレールを繋げば簡単に相互乗り入れが果たされそうな雰囲気があります。博多湾鉄道汽船は、廃止された国鉄勝田線(吉塚~筑前勝田間)の元である筑前参宮鉄道とともに、勝田炭鉱、志免炭鉱、西戸崎炭鉱などから西戸崎の石炭積み出し港への輸送路線として建設された路線で、福岡市の東方の糟屋炭田からの出炭ルートを担っていました。午前中に訪れた志免炭鉱が海軍の艦船向けの出炭を担っていたこと、また当時の国のエネルギー政策として、石炭産業に関わる一連の鉄道群は社会経済や安全保障の面でも特に重要なインフラとされたため、戦時中に成立した陸上交通統制法によっていったん西日本鉄道へ引き受けられたのち、国鉄香椎線として国有化されて袂を分かつことになります。

香椎線は非電化路線ですが、西戸崎行きの列車は架線式蓄電池電車「DENCHA」ことBEC819系。大容量バッテリーを搭載し、架線下ではパンタグラフから集電し、非電化地帯は充電したバッテリーと軽油を併用して走るのだそうで・・・プラグインハイブリッド車の鉄道バージョンということでしょうか。それにしても、かつての産炭路線がディーゼル気動車により無煙化し、そして現在ではバッテリーを併用したハイブリッドカーが走るという香椎線の歴史は、日本のエネルギー政策の変遷をそのまま体現しているようでもあるな。車輛の形式番号である「BEC」は「attery lectric ar」の略かな。そして愛称である「DENCHA」は、「UAL ENERAGY CHARGE TRAIN」の略。いかにも最近のコピーライターとか広告デザイナーがつけそうなキャッチコピーであるなあ。そして日傘の淑女が跨線橋を渡る、真夏の昼下がりの和白駅。

この辺りの博多湾は「和白干潟」と呼ばれる約80ヘクタールの広さを持つ干潟で、潮干狩りや飛来する渡り鳥を対象にしたバードウォッチングなどが楽しめるそうだ。建物の陰を伝いながら駅から少し離れた場所まで歩き、和白干潟に繋がる小さな水路を渡って行く貝塚線の電車を撮る。水路沿いの低い土地に建ち並ぶ民家と、漂う潮の香りと、水路に跳ねる小さなボラの幼魚。線路際の灌木がちょっと車両を隠してしまうけど、和白の街の雰囲気を優先した構図で。

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さよなら夏の日。

2024年09月05日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(オキサイドイエローの競演@名島駅)

九州らしいパンチの効いたとんこつラーメンを啜った後は、再び橋を渡って名島の駅から貝塚線へ。名島駅は平日の日中ダイヤでは必ず列車交換をおこなう駅で、貝塚行きが新宮行きの電車を待って発車します。今でこそ博多の小さなローカル電車・・・という雰囲気の貝塚線ですが、1992年(平成4年)には年間1,200万人の輸送実績を挙げたバリバリの福岡都市圏の通勤路線でした。そこから僅か15年で、年間600万人まで輸送人員が落ち込むという極端な減少カーブを描くのですが、1992年のピークの頃は、並行するJRがまだ都市圏の近距離輸送にはあまり熱を上げていなかった時代の話で、鹿児島本線も旅客列車の本数が少なかったんですよねえ。鹿児島本線の近郊輸送の増強とそれに伴う宅地開発は、海沿いではなく鹿児島本線の線路から山側に向かっておこなわれ、それが宮地岳線沿いの旧市街地の陳腐化を招いたというのもあるでしょう。新型車両を導入し本数を増やしたJRは、博多直結で宮地岳線より圧倒的にスピードが速く、宮地岳線が貝塚~津屋崎を40分で走るのに対し、JRの快速は博多~福間が20分ちょい。どうしても大牟田線のお古ばかりが回される後ろ向きな設備投資と、貝塚での乗り換えが必須になる輸送形態と、単線で速度を上げられない宮地岳線の線形では、さすがに天下のJRに対してはが立たなかったというのが実情でしょうか。

名島を出ると、線路はJRの鹿児島本線に沿って高架となり、西鉄千早・香椎宮前・西鉄香椎と福岡市街の高架駅が続きます。西鉄香椎で2回目のすれ違い交換。日中の15分ヘッドでは名島・香椎・和白で交換をおこない、そして終点の西鉄新宮で段落としの運用が行われています。貝塚線で使われている車両は600形で統一されているので、車種による妙味みたいなものはありません。現在でこそライトケースに収まる横並びの丸型ライトが特徴の600形ですが、デビューの頃はオデコの一灯大型ライト。行先表示器は現在の車番が刻印されている「ヘソ」の位置についていて、今でいうところの神鉄の1000系列のような顔をしていたそうです。同じ神戸の川崎車輛の製造で、製造された年次もごくごく近いとなれば、相似のデザインの車両が生まれていてもおかしくはない話ではあります。

西鉄香椎から先、地上に戻って香椎花園前。ここには、博多湾鉄道汽船株式会社が開設した「香椎チューリップ園」を源流とした西鉄直営の遊園地「かしいかえん」がありました。福岡市内唯一の遊園地として長らく市民に親しまれていましたが、レジャーの多様化によるファミリー層の遊園地離れによる入場人員の減少と施設の老朽化にコロナが直撃し、2021年12月いっぱいを持って閉園してしまいました。夏休み、子供たちで賑わったであろう「かしいかえんプール」の跡を横目に走る貝塚線の電車。きっとシーズンは大勢の子供たちの歓声の坩堝になっていたに違いない光景です。そう大きくはないけれど、子供が楽しむには十分なサイズ感のプールだったそうで、骨組みだけになったプールサイドの日よけとひび割れたコンクリート、そして色褪せたプールの残骸が雑草に覆われてまさに在りし日の夏の遺構となっている。かつてはウォータースライダーなんかもあったらしいけど。

電鉄系の遊園地と言えば、古くは京成の谷津遊園から始まって小田急の向ヶ丘遊園、東急の二子玉川園、西武のせいぶゆうえんち、関西だと近鉄のあやめ池遊園とか南海の狭山遊園地などなど大手私鉄の沿線における行楽客誘致の必須アイテムの一つではありましたよね。レジャーの多様化に伴い、どの電鉄系遊園地も経営不振による閉園や不動産開発の対象になっていて、現在元気なのは京阪が運営する「ひらかたパーク」くらいなもんでしょうか。遊園地がなくなっても、駅の名前にその名を残す香椎花園。駅の改札口に飾られた大きなオブジェが、この駅の賑わいの時代を紡ぐメモリアルブーケ。そのデザインの一部がちゃんとチューリップになっている辺りに、歴史のリスペクトを感じたりするのでした。

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