青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

さぬきこんぴら春参り

2020年01月26日 10時00分00秒 | 高松琴平電気鉄道

(こんにちはうどん県@ハローブリッジ号)

年明けから期末の3月にかけて、溜まっている年次有給休暇を消化せよという通達が回る我が職場。昔は残業も大して付けずに22時23時まで働いて、そっから終電間際まで夜食代わりにラーメン啜って家に帰っていた事を考えると「働き方改革」というものの進みっぷりに隔世の感があるのですが、休みは増えたけど休みやすくなった半面貰える給料が全く上がらないのが難。可処分所得が変わっているだけなのだろうけど、まーだクソ忙しかったあの頃の方が生きたカネを使えている実感があったよね。どっちが良いのか。

去年は冬の津軽に行って弘南鉄道をガッツリやって来ましたよね。もうあれから一年経ってるのか・・・と時の流れのスピードに舌を巻いてしまう。こんな時期だからこそ、冬らしい景色を求めて今回も雪国へ!なーんて色々考えたのですけど、今年は異常な暖冬で北陸も東北も北海道もどこへ行っても雪がない。日本の南岸を低気圧が定期的に通過し、関東の冬らしい透き通った冬晴れも本当に少ない。シベリア寒気団が張り出さないので西高東低が固まらず、天気図だけを見れば3月みたいな気圧配置がずーっと続いているのでねえ。

という事で雪国行きは諦めて、西の方に行ってみることにしました。西東京バスの「ハローブリッジ号」でこんにちはうどん県。鉄道好きならサンライズ瀬戸とかあるやん、とか言われそうですが、まあまるがめ競艇に行った時に一回乗ったことあるし値段が違いますのでね(笑)。今回は高松に陣を張って、ことでんを乗り撮りしつつこんぴらさんにでも詣でて来ようと思っています。ぞぞー。

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とある北総の街の片隅で。

2020年01月23日 22時00分00秒 | JR

(縁浅からぬ駅@JR成田線・湖北駅)

ちょうど二年前の今くらいの時期でしたが、90を半ばにして私の祖父母が相次いで亡くなったんですよね。身内で葬式を済ませた後、祖父母が住んでいた千葉の家を壊すと聞いて、取り壊される前に・・・と旧家にお別れを言いに行った事があったんです。このブログでも書いたので、熱心な(?)読者の方はご記憶なさっているかと思いますが、この記事を見てふとそんな事を思い出してしまいました。

野菜行商の歴史、後世に 「担ぎ台」保存活用へ 7台「貴重な民具」 JR成田線湖北駅 /千葉 - 毎日新聞

祖父母は、定年した後は千葉県我孫子市に住んでおりまして、その最寄り駅がここ湖北の駅だったんですよね。神奈川の私の家から祖父母の家までは、小田急線で代々木上原から千代田線に乗り換え、北千住から常磐線に乗り換え、我孫子で成田線に乗り換えて2時間半くらいかかっていたように思いますが、いずれにしろ子供心にえらい遠くまで来たなあと思わせるに十分だった湖北の駅のホームには、確かにこのよくわからない?鉄製の台のようなものがホームにいくつも置いてありました。この写真で駅名標の隣にある錆びた鉄製の台の事なんですが、あれ、小っちゃい頃からずーっと鉄製のベンチだとばっかり思ってましたよ。ただ、よくよく考えたらベンチにしちゃあ座面が高いし座りにくいことこの上ないシロモノだったんですが、実は東京へ野菜を売りに行く行商のおばちゃんが背負子を載せて立ちながら休むための台で、千葉県の北総地域における行商の歴史を伝える貴重な史料と聞いて目からウロコが100枚落ちた。

自転車置き場が目立つ湖北駅の南口。駅周辺は「湖北台」と言われる台地上に広がる昭和40年代に開発された千葉のニュータウンのはしりのような地区ではあったんだけど、南へ向かって団地の中を緩やかに降りていけば手賀沼に沿って一面の水田地帯が広がっていました。北へ行っても、畑の点在する台地から利根川沿いに降りれば、古利根沼という利根川の昔の河跡湖があるような自然の豊かな街で、それこそ成田線に乗って沿線の農家のおばちゃんが行商に出ていたんだろうな、という感じののんびりした農村風景が残っていました。じいちゃんと手賀沼の釣り堀で釣りしたり、お正月に貰ったお年玉を握りしめて利根川にあった「小堀の渡し」に乗り、取手のイトーヨーカドーに行った事なんかを思い出したりしてねえ。

祖父母が亡くなり、家も取り壊され、土地は既に新しい住宅地に変わったと親に聞きました。もう湖北の街に行くこともないだろうな、なんて思っていたのだけど、そんな湖北の駅のあの鉄の台が、ひょんなことからその歴史的な価値を認められ、記事によるとその一部が何と大宮の鉄道博物館に保存されるそうな。展示物になるかどうかは分からないけれど、あの鉄の台が自分の縁浅からぬ街の記憶を繋いでくれた気がして、ちょっと嬉しかったですね。

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春暖の石橋山

2020年01月21日 23時00分00秒 | 東海道線

(Stripes Dive to Blue@東海道本線・早川~根府川間)

全くもって冬らしくない暖かさの続く今年の冬。春暖を思わせる石橋山の最上段から眺める相模灘の碧さが眩しい。海の碧さに飛び込むように、石橋の鉄橋を駆け抜けていく名残りのストライプ。長年に亘って伊豆方面の特急列車の主役として活躍を続けて来た185系にも、とうとう最後の春がやって来ました。3月改正から、中央東線から転用されたE257系が投入される予定の特急「踊り子」。噂に聞くところによると、長野工場で行われているE257の改造工事については進捗がはかばかしくないらしく、当初の見立てよりは投入ペースは遅くなるようですが、いずれにしろ185系の特徴であるブンブンと煩い国鉄モーターの音も聞き納めになるのでしょうね。

石橋の最上段から、広角で相模灘と名残りのストライプを射抜く。185系の「特急踊り子」だけでなく、251系で運行されていたスーパービュー踊り子も3月より後継車両の「サフィール踊り子」が投入される予定で、現在試運転を開始していますが、2020年代の車両のトレンドらしい流線型のシャープなマスクは非常に印象に強いものがあります。平成の30年間変わらなかった伊豆方面の特急列車が大変革の春、根府川界隈には名残りの姿を求めて休みの日にはかなりの撮影者が詰めかけています。石橋のみかん山の風景は変わりませんが、行き交う車両は様変わりという事になりそうです。

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専貨の灯火、またひとつ

2020年01月18日 10時00分00秒 | JR(貨物)

(万感の思い込めて@石炭貨物5764レ)

日本で鉄道による石炭の輸送が始まったのは、鉄道の歴史の黎明期である1882年(明治13年)。約130年前の事らしいのですが、現在国内唯一の鉄道貨物による石炭輸送となっていた扇町~熊谷貨物ターミナル~三ヶ尻間の貨物列車が3月のダイヤ改正をもって廃止されることとなりました。公式には先日プレスリリースがあったばかりですが、趣味者界隈の中では昨秋くらいからその手のニオイがあったこともありまして、個人的には年末くらいから撮影の機会を伺ってたんですよねえ。12月の上旬に一回扇町まで行ったんだけど、そん時はウヤ(運休)だったんで、あまり人がいないうちに再訪してみました。扇町の駅の側線に、DE11に牽かれてしずしずとやって来た大柄な貨物列車5764レ。ホキ10000というこの列車にしか使われない貨車の20両編成で運行されています。

到着して、地上の係員と入換の準備を開始する5764レ。熊谷からの返空列車は、朝5時に籠原の熊谷貨物ターミナルを出発し、高崎線・武蔵野線経由で新鶴見に朝7時に到着。機関車をディーゼルに付け替え、新鶴見から南武線の尻手回りで浜川崎を通ってここ扇町までやって来ます。少し前まではここまで電気機関車が牽いてきて、3線ある側線の真ん中で待ってた新鶴見のDE10が入換をする仕業だったのだけど、いつの間にか中線が切られていた。2機のカマが交錯しながら入れ替えを行うのが扇町の楽しみだったのだけど。

DE11が空車のホキ20両の後ろに回り込んで、荷役が行われる三井埠頭の積み込み線に貨車を押し込んでいきます。大きな黒いバケットの躯体が20車も連なっているところが、この専貨の魅力であると思いますが、石炭輸送がなくなったらホキ10000も使用する理由がなくなってしまうねえ。同じ荷主(太平洋セメント)の三岐なんかだと、中部国際空港向けの埋め立て土輸送に転用した実績もありますけど、どうなりますか。

空車のホキを押し込んで、転線したDEが今度は積載のホキを牽き出して行きます。石炭輸送に従事する操車の方々の動きもキビキビと淀みなく、最後は貨車の最後尾に赤い標識板をセットして準備完了。この列車で運搬されているのはセメント焼成用に使われる輸入炭で、川崎の三井埠頭で船から荷揚げされたものを秩父鉄道の三ヶ尻にある太平洋セメント熊谷工場へ運んでいるのですが、この列車の廃止に伴って秩父鉄道の熊谷タ〜三ヶ尻間を定期で走る貨物列車と、秩鉄とJR貨物間の連絡輸送も甲種輸送などの例外を除き終了となります。廃止前に一回くらいは三ヶ尻線にも行ってみたいとは思いますよね。今回の貨物列車の廃止の理由として「地球温暖化に対応すべく、熱源としての石炭使用を減少させる」という荷主側の環境へのコミットメントがあるようです。しかしながら、今後は石炭輸送をトラック転換すると聞いて何だかモヤモヤしなくもない。トラックで排ガス出してたらあんま変わんないんじゃないの?というね(笑)。

まあ一介の鉄道マニアでは与り知らないことが色々とあるのでしょうが、趣味目線から言えば多様性の部分で貴重な専貨の灯火がまた一つ消えてしまう事は間違いありません。これで定期的に扇町に発着する貨物列車は(おそらく)期間限定のリニア残土輸送列車くらいになってしまうのですねえ。セメント王こと浅野總一郎や安田善次郎が作り上げた川崎の京浜工業地帯。鶴見線のダイヤを見ても沿線の工場へ大量の工員を輸送していた頃の活気はなく、埋め立て地の中へ枝葉のように伸びていた工場への無数の専用線も叢に帰り始めており、日本の重厚長大産業の衰退と再編を感じてしまう扇町界隈です。

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とっぱずれ 未来明るく 進む道

2020年01月13日 20時00分00秒 | 銚子電鉄

(名物ワンタンメン@銚子・大塚支店)

銚子に来て観光客らしく海鮮モノに手を出しても良かったのだけど、久し振りに食いたくなったのが双葉町にある大塚支店のワンタンメン。ラーメンと言うには細すぎるソーメンのようなパツパツの麺に、2つか3つ食ったら少食の人ならそれだけで腹が一杯になってしまうほどミチミチに肉の詰まったワンタンがすっきりとした醤油スープの上に浮かんでいる。これも10年ぶりくらいに食ったのだけど、あーこれこれ感があった。舌が覚えていた。

大塚支店と言っても本店がどこにあるのかは知らない。少なくとも支店は銚子信金の本店の路地裏にある。銚子の中心街、駅前のメインストリートはまあまあそれなりに栄えているように見えますけど、路地裏は人っ子一人歩いていないし、モルタルのビルの入り口はほぼすべてがシャッターを閉じていてお寒い状況。まあ日本の地方都市のほぼ大半がこうなっているのが現状なのだろうけど、銚子の場合は街として古いだけに余計にそれが目立つ。大塚支店は盛況でしたんで、そこだけ人の動きがありましたけどね。

昔日の栄華を偲ぶ街を走る銚子電鉄。醤油タンクをバックに仲ノ町で並んだ営業用の全車両。3編成6両体制ではまた重要検査が入った時などは予備車がなくなってやりくりに苦労しそうですが、雑多な旧型車が多かった時代に比べれば多少は体質改善が図られたと言えるのでしょうか。日中を減便して1編成で賄えるようにしたのも、乗車する客数の実情に合わせたダイヤってのもあるかもしれないけど、運用数を減らして車両や軌道の消耗を抑えるということも目的になっていると思われます。

その中で、趣味的にも湘南窓のデハ2000型は魅力が大きく、今の時代には得難いデザインだなあと思いますよね。令和のこの時代に、まるでスカ線の国鉄70系を思い起こさせるようなカラーリングとフォルム。今の電車は運転台の操作機器もタッチパネルに集約されてますけど、どれがどれだか分からなくなるほどの夥しい計器類はいかにも操縦者の教育と熟練を要する機械という感じがします。マスコン周りの金属の光沢も美しい。スカ線のクハ70なんて実物はさすがに見た事はありませんが、そういうものに郷愁を感じてしまう世代ではあります。

デハ2000の側面方向幕。字体がしっかり京王っぽくなってるのが細かいですな。「金太郎ホーム」というのはこの編成の車両スポンサーで、千葉の花見川区にある建設業者らしい。それにしてもとことんまでスポンサードを募る鉄道会社ですよね。そんな社風を逆手に取り、「もう売るものがないので”音”を売ります」なんて触れ込みで今度は音楽配信サービスにまで手を出している。電車を走らせるためなら何でもやるという逞しさ、日本広しと言えどここまで出来る鉄道会社が果たしてどこまであるだろうか(笑)。

外川の街を出て、犬吠へ向かうデハ2000。湘南窓になっている銚子側の顔は順光になる場所が少なく、撮影場所を選ぶのに苦労します。どうしても湘南顔がオヒサマの当たらない北側になってしまう事が多いですね。午後の仲ノ町か銚子駅、あとは西海鹿島の周辺くらいでしょうか。

冬の低い日差しに輝く湘南フェイス。仲ノ町駅にて。スポンサーの「金太郎ホーム」にあやかったわけでもなさそうですが、塗装は金太郎の腹巻模様。その真ん中にキリリと表情を引き締める黄色いサボがよく似合っています。

江戸の時代から豊かな漁場に恵まれ、水産物の水揚げや水運に恵まれた地の利を生かした醤油製造などの産業で、周辺地域のヒト・モノ・カネを集約したのが銚子の街。今や旧市街は没落し、郊外にイオンが立って商圏が変わってしまいました。再開発の進まない中心街を嫌って、川を渡った反対側の波崎や鹿島のほうに住民が移り、広く整備された道路のロードサイドに量販店が栄えているというのも、非常に典型的な地方都市の構図。そんな銚子の街の背骨の位置を、弧を描くように走る銚子電鉄。通勤通学客の需要が漸減していく中で、観光需要を呼び込んで行かなきゃいけないんだろうけど、犬吠埼の観光というものも目新しいものがなく陳腐化しているようにも思う。そう思うと、銚子で一番の観光ってなんだかんだ言って銚子電鉄なんじゃないのと。弧回り手形を買って、乗って降りてブラブラするのが一番面白いんじゃないかなあって思うよねえ。

夜の外川にて折り返し待ちのデハ2001。窓からこぼれる車内の明かりでホームのアスファルトが浮かび上がります。そう言えば、10年前にはホームに黄色い点字ブロックなんてありませんでしたよね。波打った舗装のホームに、アロエが生い茂っていたはずです。10年は一昔、なんて言いますけど、自分が銚子を訪れなかった10年の間に、車両以外にもコツコツと設備の改修が行われていたんですね。それもこれも、鉄道を動かすためには何でもやって来た会社の一つの結果なのでしょう。そんな会社の未来はいかばかりか。東の空が一番早く明け行くとっぱずれの街の鉄道に、光あらんことを祈ります。

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