エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

雪のお城 寒波の合間に

2012-02-03 | Weblog

 大雪を予想していた昨日の朝」、積雪はわずかで朝日が差し込んでいた。
青空も見えるので,思い立ってお城へ行くことにした。雪のお城を撮りたかった。
 朝9時、三の丸からお城へ入った。
 ここではいつも秋月悌次郎詩碑に佇み手を合わせている。
 秋月胤永は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い、藩の寛容な処分を訴えた。その帰途に、憂い悩む気持ちを『北越潜行』の詩に残した。  碑の前で、いつもこの詩に胸を打たれる。
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  行くに輿なく帰るに家なし
  国破れて孤城雀鴉乱る
  治功を奏せず戦いに略なし
  微臣罪ありまた何をか嗟かん
  聞くならく天皇元より聖明
  我が公の貫日至誠より発す
  恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
  幾度か手に額をして京城を望む
  之を思い之を思えば夕晨に達す
  愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
  風は淅瀝として雲は惨憺たり
  何れの地に君を置き又親を置かん
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前にブログ北越潜行の詩(2006-02-13 )や神のような人 秋月悌次郎(2010-4-15)】に書いた。波乱の生涯を送った幕末の会津人だ。

  職員が廊下橋の雪かきをしていた。普段は木々の葉で見えない天守閣だが、冬の間はよく見えた。二之丸からの朱塗りの廊下橋は、加藤明成の大改修までの大手口で、葦名時代には屋根のついた廊下造りだったという。

 静寂に凛とそびえる鶴ヶ城の天守閣の雪景色はとても美しかった。

本丸内には、城下から移築復元された麟閣がある。
  天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられた。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を願いでた。この恩義に報い少庵が建てたのが「麟閣」と伝えられている。

 

 

荒城の月の碑は雪に埋まっていた。滝廉太郎は教師時代に荒廃した鶴ヶ城跡を訪れ「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれる。直筆の碑だ。月見櫓跡へは積雪がひどく上れなかった。

 

 雪つりされた緑の多行松がとても美しかった。

 冬の間、鉄門は閉ざされていて、回り道をして北出丸、西出丸を回ってお城を写した。

 北出丸からの太鼓門の奥には、太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣(武者走)が残っている。

 武者走 

 北出丸から 

久々に西出丸へ回り鐘撞堂をながめた。今も正午にはこの鐘の音が響いている。 北出丸からの坂は椿坂というが、少し急な西出丸からの坂は梅坂という。

 西出丸

 鐘撞堂

  大きな桜の木々の間からきれいなお城が見えた。一瞬雲の合間から陽が差し、天守閣がまぶしく輝いた。

 帰りに城の南にある墓地に父母を訪ねた。膝までの雪をかき分けてお参りしてきた。
2時間の心救われる散策だった。

 参考までに、桜の鶴ヶ城を。 【会津鶴ケ城 堀内孝雄 愛しき日々 - YouTube
   http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=qzWntEAWlQE

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