大雪を予想していた昨日の朝」、積雪はわずかで朝日が差し込んでいた。
青空も見えるので,思い立ってお城へ行くことにした。雪のお城を撮りたかった。
朝9時、三の丸からお城へ入った。
ここではいつも秋月悌次郎詩碑に佇み手を合わせている。
秋月胤永は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い、藩の寛容な処分を訴えた。その帰途に、憂い悩む気持ちを『北越潜行』の詩に残した。 碑の前で、いつもこの詩に胸を打たれる。
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行くに輿なく帰るに家なし
国破れて孤城雀鴉乱る
治功を奏せず戦いに略なし
微臣罪ありまた何をか嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が公の貫日至誠より発す
恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
幾度か手に額をして京城を望む
之を思い之を思えば夕晨に達す
愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん
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職員が廊下橋の雪かきをしていた。普段は木々の葉で見えない天守閣だが、冬の間はよく見えた。二之丸からの朱塗りの廊下橋は、加藤明成の大改修までの大手口で、葦名時代には屋根のついた廊下造りだったという。
静寂に凛とそびえる鶴ヶ城の天守閣の雪景色はとても美しかった。
本丸内には、城下から移築復元された麟閣がある。
天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられた。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を願いでた。この恩義に報い少庵が建てたのが「麟閣」と伝えられている。
荒城の月の碑は雪に埋まっていた。滝廉太郎は教師時代に荒廃した鶴ヶ城跡を訪れ「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれる。直筆の碑だ。月見櫓跡へは積雪がひどく上れなかった。
雪つりされた緑の多行松がとても美しかった。
冬の間、鉄門は閉ざされていて、回り道をして北出丸、西出丸を回ってお城を写した。
北出丸からの太鼓門の奥には、太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣(武者走)が残っている。
武者走
北出丸から
久々に西出丸へ回り鐘撞堂をながめた。今も正午にはこの鐘の音が響いている。 北出丸からの坂は椿坂というが、少し急な西出丸からの坂は梅坂という。
西出丸
鐘撞堂
大きな桜の木々の間からきれいなお城が見えた。一瞬雲の合間から陽が差し、天守閣がまぶしく輝いた。
帰りに城の南にある墓地に父母を訪ねた。膝までの雪をかき分けてお参りしてきた。
2時間の心救われる散策だった。
参考までに、桜の鶴ヶ城を。 【会津鶴ケ城 堀内孝雄 愛しき日々 - YouTube】
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=qzWntEAWlQE